日本のエリート層はなぜ道を誤るのか。(2)

オウムに走ったエリート達

 エリートと言えば思い出すのがオウム真理教に走り、次々と犯罪に手を染めた者達。
彼らの中には現役医師や弁護士、科学者としての道を歩みつつあった者達もいた。
それらの仕事に従事する者は客観的事実や証拠、根拠に基づいて思考し、行動するはずで、
非科学的な考えとは最も遠い距離にいると思われていた。
ましてや「空中浮遊」というトリック写真のようなものに騙され信じ込むとは。

 最近は「超魔術」を操ったり、ガラスの向こうの物だって手を突っ込んで取り出せてみせる
マジシャンは1人や2人ではない。
彼らの方がよほど「超能力者」に見えるが、医師や弁護士、科学者達がエビデンス(証拠、根拠)の
代わりに「超能力」を信じ、稀代の詐欺師を「尊師」と敬い、彼の命ずるままに殺人に手を染めたのだから
エリートほど壊れやすく、危険な存在はないかもしれない。

 なぜエリート(へ)の道を捨て、彼らは「信仰」の道へ走ったのか。
それは当時の時代背景と無縁ではないだろう。
 今から20数年前といえばバブル経済崩壊で価値観が一変した時代。
それまでは猫も杓子もカネ、カネ、カネで舞い、踊っていた。
そういえば扇子をヒラヒラさせ、夜毎踊っていた連中もいた。
そう、誰も彼もが舞い上がり、モノに踊らされていたのだ。

 それが一夜で景色が一変。
夢から覚めた目に映った景色は妖しいまでに輝いていたゴールドではなく色のないモノクロームの世界。
そして誰も彼もが疲れた表情をしていた。
それはパラダイムの変化というより「宴のあと」の気怠さだった。

 物質崇拝の虚しさに気づいた人々が向かう先は精神世界、スピリチュアルの世界。
しかし、そこでもカネが支配していることに気づかず、純粋な精神に触れて自分の精神も清めたいと
望む人達がヨガや新興宗教に向かったのはある意味当然といえるだろう。
オウム真理教の前身、オウム神仙の会が生まれたはこういう時代だった。

 目先の目標のみでなく、自分自身をも見失った人々は「自分探し」の旅を始めていた。
大きな社会変化やパラダイムの変化が起きる時、人々の思考は内なる反省に向かう。

 全共闘世代は「自己否定」という形で、それまでの自分達の生き方を反省、見直し、新しい生き方を模索した。

 バブル崩壊前後に青春を送った世代は新たな生き方を模索するというより、
水に浮かぶ水草のようにゆらゆらと揺れながら、それでも従来とは違う自分の生き方をなんとか見つけようとしていた。
「自分探し」という言葉で。

 だが、全共闘世代のように強烈な「アンチ(反)」を持たない世代は羅針盤のない船のように
漂ようことしかできず、自分では向かうべき漠然とした方向すら分からずにいた。

 本来なら宗教が、解決策にはならないにしても魂の安らぎぐらいは与える役割を果たすべきところだが、
儀式宗教と化した既存宗教にはそのような役割を果たすことも、期待されることもなかった。

 結局、行き場を失った者達が求めたのが「魂の救済」を謳うスピリチュアルや新興宗教であり、
オウム真理教はそこにうまく入り込んだといえる。

 問題はエリートと目される人達がなぜ、いとも簡単に取り込まれたのかということだが、
彼らの人生はジグザグではなく、ほぼ直線で来ていたが故に、そのコースが行き止まりやジグザグに見えると、
それを乗り越えたり迂回路を取るという判断が自分ではできない。
別の言い方をすれば、敷かれた線路の上なら最速で、いくらでも走れるが、
自分で路線を敷いて走るのは苦手ということだ。

 そこに現れたのが麻原彰晃と名乗る松本智津夫だった。
彼は進路を見失っていた「迷える者達」に進路を指し示した。
進路が明確になれば、それに答えようとする傾向はエリートほど強い。

 エリートの欠点は他の世界や寄り道をすることを知らないだけでなく、前提を疑うことを知らないということだ。
決まったことには従う。決定事項の実行を命じられれば、その目的や命令の正当性に疑問を挟むことをしない。
かつての日本軍の参謀、将校達のように。

 「自己否定」という言葉で自分達の人生を見つめ直した60年代後半の若者、
バブル経済崩壊後に「自分探し」という言葉でさまよい始めた若者に対し、
今のエリートは「自己肯定」型である。

 現在の自分の立場になんら疑問を感じることもなく、さも当然であるかの如くに認識している。
当然、弱者や他者に対する配慮などまったくないし、そうする必要性すら感じてない。

 それは政治家も同じで、2世、3世議員であることに微塵も疑問を感じてないだろう。
政治家の家に生まれ、政治家になるのは当然、という意識しかない。
そこにあるのは「政治」を製造業や流通業などの職業と同一視する考えだけだ。

 そういう連中が「国民のための政治」や格差是正などできるはずがない。
「選挙制度改革」と称して議員定数を減らすのではなく、逆に増やす法案を通したことでも明らかだ。
彼らの頭の中にあるのは、繰り返し言うが「国民の生活」ではなく「自己肯定」論理だけ。
こうした「エリート」が増殖しつつあるのが今だ。

 その先に待っているのは狂信的な「エリート」層に導かれる狂信的な世界かもしれない。





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本のエリート層はなぜ道を誤るのか。(1)

 「好事門を出でず、悪事千里を行く」という諺がある。
本来の意味は、よい評判はなかなか世間に伝わらないが、悪い評判はあっという間に
遠くまで広まるということだが、最近次々に起きる「事件」を考えると、
善行はなかなか伝播しないが、悪事はまたたく間に伝播する、という意味に変えたくなる。

 そう、悪貨は良貨を駆逐する、ではないが、悪事は伝染力が強いのだ。
だから次から次に同じような犯罪が起きる。
しかも最近の「事件」は酸いも甘いも噛み分けている(はずの)世代が起こしているのが特徴だ。

 そして、そこに今まで犯罪から最も遠い距離にいると思われていたエリート層が加わってきたのだから驚く。
それも信じられないようなレベルの「事件」を起こすに至っては開いた口が塞がらない
というか我が耳目を疑ってしまう。

現代の不惑年齢は50代後半

 なぜなのか。考えられる要因はいくつかあるが、そのうちの一つに人生の長さが変わったことが挙げられる。
人生50年と言われた戦国時代から、江戸の泰平期を経て日本人の人生は延び続け、
いまや人生90年、100年時代。皆、長生きになった。

 長生きになったことで何が変わったのかといえば、それまでの尺度が適用できなくなったことだ。
もっとはっきり言えば、それまで絶対年齢だと思っていたのが、相対年齢だったということに気づかされた。

 論語に「三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六〇にして耳順う、
七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」というのがある。
有名な言葉なので誰しも一度ならず見聞きしたことがあるはず。

 実は、ここで言われている年齢は絶対年齢だとずっと思い込んでいた。
だが、そう考えると不都合というか現実と合わないことがあまりにも多くなってきた。
それは孔子が言っている年齢を絶対年齢だと捉えたことから起こった間違いで、
実は相対年齢で考えるべきだと捉え直すとすべてが腑に落ちる。

 少し詳しく説明すると、人生70年時代の40歳は7分の4、数値に直すと0.57だが、
人生90年の40歳なら9分の4で0.44、100年なら100分の4で0.4とどんどん若くなる。
いわゆる8掛け人生、7掛け人生というやつだ。
そうなると孔子が言う不惑の年齢を現代の年齢に換算すると50歳、57歳となる。

 セクハラ問題で辞任した福田淳一財務事務次官の年齢が59歳、
同じくセクハラ問題で更迭された外務省の毛利忠敦ロシア課長が49歳。
そして受託収賄容疑で逮捕された文科省科学技術・学術政策局の佐野太局長が58歳。
(肩書、年齢はいずれも当時のもの、以下同)

 上記3人の官僚はいずれも「アラ不惑」。といっても、「あらっ不惑だったのね」と
言っているわけではないのはお分かりだろう。
アラウンド不惑(不惑前後の年齢)を略したわけだが、「あらっ、不惑だったの?」と驚く方がピッタリかも。

 ともあれ「天命を知る」年齢には程遠く、まだ不惑に達しようかどうしようかと
迷っている年齢であり、精神的に幼い、未発達の人間が多いということだろう。

エリート官僚が陥る闇

 年齢が若返っていると言えば聞こえはいいが、実際は精神年齢の低年齢化が社会全般で進んでいるといえる。
その顕著な例が財務省の福田淳一事務次官のセクハラ発言だ。

 週刊新潮によれば福田淳一事務次官はテレビ朝日の女性記者に対し次のようなセクハラ発言をしている。
「浮気しようね」「胸触っていい?」「手しばっていい?」「手しばられていい?」
「エロくないね、洋服」「好きだからキスしたい。好きだから情報を……」

 断っておくが、これらは懇(ねんご)ろになった相手との会話(一方的発言)ではない。
男女間の関係など一切ない記者に対し、取材中に発せられた言葉なのである。

 常識的に考えて異常である。言葉は悪いが「枕営業」をしろと迫っている風にも聞こえる。
要は権力を笠に着て相手に迫っているわけで、卑怯極まりない。
少なくともエリートと見做される人達が吐く言葉ではないだろう。
権力を笠に着なければ女性1人口説けないのかと思ってしまう。

いずれにしろ良識ある大人の言動ではない。
外観は大人に見えても、中身(精神構造)は幼稚。
成長できないまま歳だけ取った大人が増えている。

 さらに酷いのは当時の発言が録音されていたにもかかわらず、その録音音声を聞かされても
開き直り、認めない態度だ。

 実は逮捕されても犯行を否定し続ける容疑者が多いのも最近の特徴で、
福田事務次官の上記態度もまさにそれである。

 しかも、あろうことか上司に当たる麻生財務大臣までもが、福田淳一事務次官の否定発言を擁護し、
あれは「嵌められたのではないか」という趣旨の発言をしていた。

 麻生氏に関してはかつての首相時代から国語力の弱さを認めているから、
上記のような発言をしたとて驚きはしない。
言葉を大事にせず、言葉の意味をよく知らずに、それで政治家をやっていられるものだと
呆れるばかりだが、構造は福田事務次官も麻生財務相も同じ。
権力を笠に着て自分より弱い立場の者に威圧的に迫る態度は人品の卑しささえ感じる。

 麻生氏についてついでに言えば、この人の辞書には「国民に尽くす」という文字はないだろう。
あるのは「俺」という一人称文字だけだ。

 福田淳一事務次官の上記発言は、少なくとも私にはどうすればそういう言葉が吐けるのだろうと
理解に苦しむが、一つには羞恥心がゼロということだろう。

 では、なぜ羞恥心がないのか。
それは自分が特権階級で、自分の命じることはなんでも可能になると思っているからである。

 事実、財務省という組織の中では彼の言うことは絶対で、部下は命じられれば時間、
場所に関係なく応えてきたのだろう。
だから自分は何を言っても許されると思い込んできたに違いない。

 だが、それは財務省、あるいは霞が関という限られた空間でのことなのだが、
その世界しか知らない人間は、その狭い世界の「常識」が外の広い世界でも通用すると
思い込むことから起きるのが特徴だ。

 文科省の佐野太局長の場合も同じだ。
こちらはセクハラではなく受託収賄容疑。
何が受託収賄かといえば東京医科大学が私立大学研究ブランディング事業の対象校に
選ばれるように便宜を図った(平たく言えば東京医科大に国から3,500万円の補助金が出る)見返りに、
自分の息子を入学させてもらったわけで、金銭の授受ではないが、この行為が受託収賄に当たると疑われた。

 次期事務次官の呼び声が高いエリート官僚が今時珍しい親バカぶりと言えなくもないが、
やはりそこにあるのは自分は特別だと考えるエリート特権意識。
にわか金持ち(成金)がなんでも金の力で思うようになると考える意識と同じ構造だ。

 余談だが本当の上流階級は3代続いてなる。
言い方を変えれば3代続いてやっと上流階級にふさわしい品格が身に付くということらしい。
そういう意味では、1代で成り上がった金持ちやエリートに、そのような品格が
身についてないのは当然で、そこに精神構造の低年齢化と根拠なき特権意識がプラスされたのが
近年のエリート層である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

エキサイティングな中国旅行~警官に警棒を振り回され、兵士に追いかけられ

 思えば中華圏の旅行は常にエキサイティングだった。
初めて中国を訪れた時からしてそうだ。訪中団の皆が昼食後のひとときを過ごしている時、
私とカメラマンはホテルの前でタクシーをチャーターし武漢の街に出た。
武漢は三国志の時代から革命の真っ只中に身を置き、文化大革命中は「革命派」と「反革命派」が
激しい武力衝突を起こした街だ。
その街でいきなり警察官に警棒を振り回されたのだった。

 理由は不明。言葉が通じないからますます理由が分からない。
第一、カメラマンの撮影が問題視されたのか、私の方に問題があったのかさえ分からない。
分かったのは警官がやたらと怒っていることと、警棒がこれまたやたらに振り回され、
彼の口髭が激しく上下していることだけだ。

 事前に軍事施設は写してはいけないなどの注意を受けていたから、
それらしきものにはカメラを構えていない。
にもかかわらず警官は私に何か激しく怒っていた。
警棒が私を指し、次に向かいの横断幕を指し、その間を行ったり来たりしながら怒鳴っていた。
横断幕には中国語で「天安門事件は完全に革命的な行動である」と赤い文字で大書されていた。

 「天安門事件」といっても、この時は第1次天安門事件のことで、
後に有名になる第2次天安門事件のことではない。
周恩来の死を悲しんだ民衆が天安門広場に献花したのを4人組が規制した事件のことである。
その横断幕がそれほど問題とは思わなかったが、それは中国の政治情勢を知らない者の
見識だったようで、彼らにとっては政治的な出来事はある種のタブーであり、
ましてや外国人がそれを撮影するなんてもっての外ということらしかった。

 恐怖だったのは警官よりは、集まり、私達を無言で取り巻いた民衆だった。
大使館に行くにはどうすればいいのだ、と頭に浮かぶ。
カメラマンと目配せし、私達は少しずつその場を離れることにした。
しばらくゾロゾロと付いてきていた警官と民衆は諦めたのか、
そのうち付いて来なくなり、やっと解放された。

 兵士に追いかけられたこともあった。
反日暴動で日本車が壊されたり、日本レストランのガラス戸が割られたり、
日本大使館に石が投げ込まれ大使館前の新聞表示場所のガラスが割られた事件があってから
1週間近くたった頃だと思うが、上海の日本大使館の被害状況を見に1人でフラフラと
出歩き大使館前の道路に立った。

 大使館前には警備兵が2人立っていたので、そのまま近づくのを避けて
道路を挟んだこちら側から周囲を歩いてみた。
投石を受けて割られた新聞表示場所のガラスはそのままになっていたのですぐ分かった。
そこでカメラを取り出し構えた瞬間、警備兵が走ってきた。
日中関係が不穏な時期だったので、中国兵も過敏になっていたのだろう。
日本人が被害状況の写真を撮り、帰国後、反中宣伝に利用しようとしていると考えたのかもしれない。
いずれにしても、ここは逃げるが百計とばかりに、こちらも走ってその場を離れ事なきを得たが、
根がミーハーなものだからいろんなものに顔を突っ込みたがる。

この頃は「もう若くはないのだから、走っても足がもつれて転び怪我でもしたらそれこそ大変」と
諌められ、納得はしているのだが、またしても好奇心が頭を持ち上げるから困る。

 ともあれ中華圏の旅行では毎回なにかが起き、エキサイティングだが、そろそろ平穏無事な旅にしたい。






ソーシャルレンディングならクラウドクレジット


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

台北でメガネを忘れ、上海では妻の遺骨を忘れた結果

台北のホテルでメガネを紛失

 さて最終日は早朝の便での帰国。荷物をまとめ、最後に部屋の中を見回し忘れ物がないかをチェックして空港へ。何事もなく帰国したはずだったが、帰宅して荷物を開けてメガネがないことに気づいた。
 途中で使ってないからホテルの部屋に忘れたとしか考えられなかった。だが、最後に部屋をチェックした時にも見当たらなかったのになぜ、と考えてハタと思い当たった。目覚めた時、サイドテーブルの上に置いていたスマートフォンがベッドとサイドテーブルの間に落ちていたのだ。メガネも一緒に置いていたから、きっとメガネもベッドとサイドテーブルの間に落ちていたに違いない。
 さっそく旅行会社に電話し、上記の状況を話しホテル側に問い合わせをしてもらった。その日のうちにメガネの忘れ物があったと連絡が入り、郵送料の振り込みを確認すれば国際郵便で送ってもらう手筈を取ると言われたが、問題は送料。2万円もかかるなら新しく作り直した方がいいだろうと考えながら尋ねると3,500円とのことだった。
 ところが振込先を知らせる通知が届いて封を開けてビックリ。そこには35,000円と書かれていた。えっ、3,500円は聞き間違いだったのかとガッカリ。ただ、メモ紙を見ると、3,500円との走り書き。まさか1桁聞き間違えたのか。いよいよ認知症かとさらに落ち込んだ。それでもと思い、電話で問い合わせると担当者は不在だったが、先方のメモ書きにも3,500円と書かれていたらしく書類を送り直すとのこと。そんなこんながあったが、1週間以内に台北から無事メガネが届いて1件落着。

上海では妻の遺骨を網棚に忘れた

 忘れ物といえばなぜか中華圏でする。国内では傘ですら忘れたことがないというのにだ。
 10数年前、上海に行った時のこと。フリープランで行き、1週間余り滞在したが、忘れ物をしたのは上海に着いた初日の出来事。浦東空港から世界最速(当時)という触れ込みのリニアモーターカーに乗って龍陽路駅まで7分20秒の旅を楽しみながら、電光掲示板に映し出される速度数字をビデオカメラで撮っていた。瞬間とはいえ世界最速(当時)の時速430kmを撮り終えて下車。そこから地下鉄2号線に乗り換えて、ホテルがある人民広場駅に降りた時、背中にリュックを背負ってないことに気付いた。ビデオ撮影をする時リュックを網棚の上に置き、そのまま忘れて降りてしまったのだ。地下鉄駅からホテルはそう遠くない距離とはいえ心は重かった。おまけに雨まで降っていて、この時だけは泣きたい気持ちだった。

 問題はリュックの中身だ。ノートパソコンにデジカメも入っていたが、なにより問題だったのは亡き妻の遺骨を小さな入れ物に入れて一緒に連れてきていた。妻の遺骨を外国に置き去りにすることはできない。
 ホテルについて事情を説明するが「一応連絡はしてみますが、忘れ物は出てこないと思った方がいい」との従業員の言葉。外国で忘れ物をした時どこに届ければいいのか、どうすればいいのか全く分からず、ただ狼狽えるばかりだったが、その時の連れが英語、中国語を話せる人で「とにかくリニアモーターカーの駅まで行こう」と行ってくれた。
 時間はすでに午後8時近かったので駅舎への出入り口は閉鎖されていた。それでもどこか開いてないかと裏口を探して周囲をウロウロし、人を見つけては尋ね、すっかり疲れ果て、諦めて帰ろうとした時、扉の向こうから人がやって来た。JTBの中国人現地社員だったが、彼が親切にも何軒かに電話をしてくれ、私達が乗ったリニアモーターカーはすでに車庫に入っているようだから今夜はもう無理。だが、明朝電話して探してあげるから明日電話してくれと言われた。
 結論から言うと奇跡的にリュックが見つかった。もちろん中の物も何1つ無くならずに。それを知った中国人は一様に驚いていた。帰国後、その話を聞いた皆の反応は1つ。「奥さんがこんなところに置き去りは嫌といったのよ」。その通りだと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

十份(シーファン)への往路はエキサイティングだった。

 飛行機に乗るのが苦手だ--。
というと飛行機恐怖症、それとも高所恐怖症かと思われるかもしれないが、そうではない。長時間乗るのが苦手なのだ。
 一度、ニューヨークまで行ったが、その時の座席が6人掛けだかの中席。
ほぼ満席状態だったから到着するまで身動きできず、トイレにも立てずとても窮屈な思いをした。
それが往きだけならいいが帰りも同じ状態。
以来、10時間以上乗らなければならない国・地域には行かないことにした。
 そうなると自ずと行き先は限られてくる。大体、近場のアジア圏しかない。
というわけで今回も近場の中華圏に行ってきた。

 思えば初めての海外旅行は中華人民共和国(中国)だった。
田中角栄首相(当時)が中国を訪問して日中国交回復をした2年後ぐらいだったから、他に先駆けての訪中だった。
まだ個人旅行が許されてない時で、中国旅行というより訪中という概念の方が近く、
某訪中団に潜り込んでの旅行だった。
目的は中国旅行記の出版でカメラマンと2人だけが他のメンバーと比べて歳も若かったし、
昼食後の休憩時間や夜間のわずかな時間にそっと抜け出して出歩いていたから、
メンバーからは「場違いな参加者」という目で見られていた。

 その頃は台湾に行っていると中国からビザが下りなかったこともあり、台湾にはずっと行ったことがなかった。
さすがにこの頃はそういうこともないだろうと、やっと台湾旅行を思い立ち、
6月初めに台北4日間ツアーに参加した。
感想は「う~ん」というところ。
近年の中国旅行ほどショッピングに連れ回されることはなかったが、感動もあまりなかった。
まあ、それというのもこちらの興味が他の人とちょっと違うということも多少はあるが。

 例えば故宮博物院には北京の故宮のような建物を想像していたため全く面白くなかった。
建物の造りや外観だとか取り巻く風景の方に関心があり、内部の展示物(宝物)への関心は二の次なのだ。
 期待したのは古い町並みの九份(正確には人偏に分の字。ジョーファン)と
天燈(熱気球、ランタン)上げを体験できる十分(正確には人偏に分の字。シーファン)だったが、
ともに着いた時間が遅い上に雨で、来た、見(観にもならなかった)た、上げた、というだけの味気なさ。

「十份(人偏に分の字)」は十分エキサイティング

 その代わりにシーファンへの往路はとてもエキサイティングだった。
途中まで隣の席の人と撮影談義などをしていたが、バスの車体が枝でこすられだすと
急に2人とも口をつぐみ、ほぼ同時にシートベルトを締めた。

 夜道だから周囲の状況は見えなかったが狭い山道を登っているのだけはエンジン音から分かった。
ツアー参加客の大半は眠っていたようだが、私達はバスの前列に座っていたから
夜間とはいえバスの走行状態がある程度分かり、ひたすら前方を見詰め闇に浮かぶ白っぽいものを注視していた。

 不思議なのは途中すれ違う車も後から付いて来る車もないことだ。
時期に関係なく天燈上げをさせてくれる所はシーファンしかないから、体験しに行く旅行客は多いはずである。
それなのに細い山道をエンジン音を轟かせて上っているのは私達を乗せたバスだけ
というのはちょっと気味悪かった。

 もし対向車が来たらどうなる? 
なぜ他の車はこの道を走ってないのだ? 
そんな疑問が次々に湧いてくる。
もう眠るどころの話ではない。前席の背もたれに取り付けてある取り手を握る手についつい力が入る。

 その時、ヘッドライトに照らされて白いサイドラインが左に大きくカーブしているのが見えた。
当然、バスは左へカーブするはずである。
ところが、運転手はハンドルを左に切らず直進した。
えっ、直進する道があったのか、と思った瞬間、急ブレーキをかけてバスが止まった。

 おい、大丈夫か。居眠り運転してたわけではないよな。
そんな考えが頭を過る。
と、次の瞬間、今度は「ギギギッ」という嫌な音を立ててバスがバックしだした。
いや、バックではなく、踏んでいたブレーキを緩めたからバスが勝手に後退したのだ。

 そしてまたもや急ブレーキ。
「ギギギッ」と不気味な音を出してバスが再び後退する。
車体を枝がこする。
こうしたことを3度程繰り返して、やっと左にハンドルを切り動き出した。

 谷底へ転落? 
明日の朝刊の紙面が頭に浮かんだ。
いや、明日の朝刊には間に合わないだろう。発見されるのが明日だろう。
メモ帳を取り出し、書いた方がいいか。
いやボイスレコーダーに吹き込んだ方がいいなどという声が頭の後ろで聞こえる。
スキー客を乗せたバスの転落事故が頭に浮かんだ。

 「その瞬間」時間はとてもゆっくり流れ、走馬灯のように過去の人生が
眼の前のスクリーンにフラッシュバックしていく--。
 これは誇張でも何でもない。死に直面した多くの人が語っているし、私自身まだ若い頃、
バリケード占拠していた大学の2階校舎から転落した時に経験した。

 「その時」に見える光景はスローモーションで、実に美しかった。
縄梯子が外れて体が後ろにゆっくり回転しながら落下していき、背中が地面に叩き付けられるまで、
時間にすればほんの2、3秒のはずだが、時間はゆっくりと流れていく。

 青空に1羽の鳥が輪を描いて飛んでいるのが見えた。
なぜか、その光景だけをいまでも覚えている。

 体が後ろにゆっくりと反転していくのが分かり、宙を泳いでいるような感覚を覚えていた。
次の瞬間「ドスン」という音が聞こえ、背中に衝撃を受けたが不思議と痛みは感じなかったような気がする。
「ああ、死ぬんだな」と朧げな頭で考えていた。
 親友は下半身不随になる心配をしてくれたようだが、そうならずに済んだのは幸いだった。

 今度は、フラッシュバックはなかった。
メモ書きもボイスレコダーへの吹き込みをすることもなく、とりあえず「無事」に目的地に到着。
バスを降りて通訳・ガイドの劉さんに「危なかったな」と話しかけると、
「大丈夫。帰りも同じ道を通るから」。
えっ、本当かよ、と思った次の瞬間、「ウソよウソ。帰りは違う道通るから安心して」だって。

 なんと帰りは高速道路。もちろん広くて直線。
後ろの席の人達が「こんな道があるなら、なぜ最初からこの道を走らないんだ」とこぼす声が聞こえた。
 そうなのだ、他のツアー客は皆高速道路を走ってシーファンに行っていたわけで、
私達のツアーだけが危険な山道を時間をかけて上って行ったことになる。
おかしなことだ。
で、考えてみた。
これはおそらく高速道路料金を浮かすためではないか。
日本の旅行社には高速道路を通行することにして、その分の料金も込みで貰い、
実際には料金を少し浮かし自分たちのポケットに入れているのではないだろうか。
日本国内でも格安旅行や小さな旅行会社がよく使う手だ。







コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

航空機の座席、アルファベット順に並んでないのは、なぜ?

 思い込みとは怖いもので、一度そうだと思い込んでいると疑うことをしない。その結果、思わぬ失敗をしてしまうこともある。例えば男性用トイレだと思い込んで入り、個室で用を足して外に出た後に、そこが女性用トイレだったことがあった。その時はスーパーのトイレで個室が1つしかなかったのが幸いして誰にも遭遇することがなく外に出たが、そこが女性用トイレだったことに全く気付かなかった。もし中で人に会っていたら「きゃ~、チカン!」と大騒ぎになっていたかもしれない。

 同じようなことは病院のトイレでもあった。MRIの検査を受ける直前、検査室前のトイレに入ると小用を足す便器がなかったので、看護師に「男性用のトイレは他にありますか」と尋ね、教えられた方向に歩きかけた瞬間、検査室から呼ばれトイレに行き損ねたが、検査後に再度トイレに入ろうとして、先ほど入った場所は女性用トイレだったことに気付いた始末。
 まあ、これらは自分が入った所が男性用トイレと思い込んでいたというか、表示マークをよく確認しなかった「見落とし」の部類かもしれないが、それはそれで今度は認知症など別の心配をしなければならない。

 2度あることは3度ある、ではないが、先頃エバー航空の飛行機に乗った時にも似たようなことが起きた。
 一般的に座席は「あいうえお」順か「1234」の数字順、または「アルファベ
ット」順に並んでいるはずである。これが乱数字だったり、「あいうえお」順でな
かったりすると何が何やら分からず大混乱する。そういうことがないように万国共
通の数字かアルファベット、あるいはその2つの組み合わせになっている。

 ところが、そうでないことがあった。エバー航空機に台湾から乗った時、1つ後
ろのシートに座った客がクルーに「私の席はGなんですけど」と言っているのが聞
こえた。あっ、自分の席が分からないのか、と思っていると、クルーが私に航空券
を見せてくれと言う。何をバカなことをいっているのか。私の席は「F」。窓側2
列がABで、中席が4列のCDEFと来るから、窓側から横に数えて6列目だ。間
違っているのは後ろの客なのに、確認のため航空券を見せてくれだって。航空券は
リュックの中で、リュックは棚に上げているから、下ろして確認しろと言うのか。
面倒くさいな。もう一度その客の航空券を確認した方がいいだろうなどと考えてい
ると「一つずつ詰めましょうよ」とその乗客が言ったから、その言葉に従い席を一
つ左に移動した。

 というのも「D席」が空いていたからで、「C席」に座っている乗客は私達と同
じツアーに参加した人だったし、自分の席は「G」と訴えた客も同じツアー参加者
だったから、席を交換したと思えばそれでいい。どちらにしろ中4席の中での移動
だからDもFも変わりはしないと移動に同意したのだった。

 離陸してしばらくすると機内食が配られ、その後、新聞に目を通していたが、先
程の件が気になった。どう考えても6列目の席は「F」になるはずなのに、なぜ、
あの乗客は「G」だと思ったのか。「D」の文字を「G」と見誤るだろうか。第一、
クルーが6列目を「G」と勘違いして座らせることからして変だ。
 そう思い出すとますます分からなくなり、通路に出て座席番号を確かめたかった
が中席に座っているため通路に出るには隣の人に退いてもらわなければならない。
席番確認のためだけに隣の人に迷惑をかけるのも気が引けるし、などと考えながら、
窓側の席上方を見てみた。
 そこには当然、「A、B」と書かれているはずだった。が、なんと目にした文字
は「A、C」。「B」が抜けていたのだ。となると中席4列は「D、E、F、G」
の順になるではないか。「F」席は6列目と思っていた私が間違っていたことに、
その時初めて気付いた。

 でも、なぜ「A」の次が「C」なのか疑問が解けない。そこで今度は反対側の窓
側2列の番号を見て、さらに驚いた。そこには「H、K」と記されているではない
か。
 これって、どういうこと。こんな番号の付け方をされれば間違って当たり前。そ
れ以上に分からないのは「H、K」だ。中2文字も欠けている。
 こうなればまるでパズルだ。謎解きをしなければならない。幸い、この機には日
本人クルーが2人乗務しているとアナウンスしていたから、日本人クルーに来てく
れるように頼んだ。
 「普通、席はアルファベット順になっていると思いますが、窓側2列はA、Cで
Bが抜けているのはなぜですか」
「航空会社によっても違うようですが、エバーエアーはA、Cの順になっているこ
とが多いですね。BとDの発音が似ているから混同を防ぐためにエバーエアーはB
を外したと聞いています。I、JがなくH、Kになっている理由までは分かりませ
んが」
「そうなんですか、航空会社によっても違うんですか」
「大型機の場合はエバーエアーでもAから順に並んでいますが、中型機はBを抜い
ていますね、エバーエアーは」

 国際線に限ったことではなく、最近は飛行機そのものに乗る機会があまりないか
ら気付かなかったが、国内線でもアルファベット順になってなかったのだろうか。
それとも国内航空会社はアルファベット順の配列で、国外航空会社は1文字、2文
字が抜け落ちているものなのか。もし、そうだとすれば、これからはしっかり文字
を確認して乗らなければならない。
 年齢と共に認知機能が衰えてきたところにもって、思い込み意識の方は強まって
いるから、先のトイレのようなことも起きる。面倒くさがらず表記はきちんと確認
しなければならないと自戒した次第だが、その時なぜか、信号無視で交差点に入っ
て事故を起こした年配女性のことが頭に浮かんだ。「人がいなかったから、そのま
ま車を進めた」と言っていたが、止まるのが面倒くさくてアクセルから足を離さな
かったのだろうか。
 もし、そうだとすれば恐ろしいことだが、歳を取るとつい色んなことが面倒くさ
くなるのは事実。今まで以上に注意しなければと自覚・自戒したこの頃だった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )