栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

満開の河津桜と梅の花が見られる萩市の花見スポット

2019-02-27 12:46:19 | 視点


 満開の河津桜と梅の花を同時に楽しむなら山口県萩市。

河津桜は道の駅、萩しーまーと横の公園が花見スポット。

本数も多く、なおかつ密集度も高いから一足早い花見を存分に堪能できる。





 梅は萩しーまーとから車で10分足らず走ると萩往還梅林園の標識が見える。

河津桜がすでに満開なのに比べ、今年の梅はあと数日で満開を迎えようとしている。












若い世代で広がりつつある「二拠点生活」

2019-02-19 17:15:17 | 視点
 「二拠点生活」という言葉をご存知だろうか。最近、比較的若い世代を中心に広がりつつある
ライフスタイルで、主に都会と地方の両方を行き来しながら生活するスタイルのことである。

 地方(田舎)に拠点を構える(移住する)と言えば、ちょっと前まではシルバー世代と相場が決まっていた。
定年退職後、地方でノンビリと自給自足に近い生活をしたいと移り住むわけで、いまでも一定の需要はある。
特に団塊の世代が定年退職しだした現在、「老後は地方でノンビリ」と考える人が増えるのは間違いない。

 また少し前は「田舎暮らし」という移住ブームがあった。
こちらは地方自治体も大歓迎で、雑誌等のメディアでも「田舎暮らし」を美化する傾向にあったが、
その後、移住はしたものの、夢と現実の違いを思い知り、再び都会へ「Uターン」する人が続出したりも
したものだから、以降は田舎暮らしのメリットと同時にデメリットもきちんと伝えたり、
1か月前後の仮移住で事前に田舎暮らしを体験してもらう取り組みも行われている。

 シルバー世代の田舎暮らしは多少の不自由を受け入れさえすれば、それなりに静かな生活を楽しむことが
できるだろうが、現役世代で一番問題になるのが仕事(収入)の場の確保である。

 地方から人口流出が続く最大の理由は職場がない、あっても職種が少なくて選べないからで、
逆に言えばそれさえ確保できれば若者の都会への流出もある程度防ぐことができる。

 それが分かっているから地方自治体も企業の地方進出を熱心に働きかけるわけだが、
進出企業と地方自治体の思惑がそれぞれに異なるものだから、誘いに応じて進出したものの
若年労働者は不足していて、外国人労働者を雇用せざるを得ないとか、
必要とされているのは工場勤務の女性ばかりで男性雇用に繋がらず、
人口流出に歯止めがかからないというのが現状だ。

 対して、二拠点生活は都会と田舎暮らしのいいとこ取りのような所があり、
収入を得る生活基盤は主として都会で行い、地方では別の人生を楽しみたい、楽しんでいる。

 これが移住生活と大きく異なるのはすべてを捨てて(犠牲にして)新たな土地に移り住み、
そこで一から生活を始める「オール・オア・ナッシング」ではない点である。
収入の全てか大半はいままでの仕事を続けることで確保し、田舎ではリモートオフィスのような感覚で
仕事を多少こなしたり、リフレッシュの時間という過ごし方をしている人が多い。
 都会と田舎の時間配分は週末田舎暮らしだったり、月の1/3~半分が田舎暮らしだったりと、それぞれに異なる。

 それにしてもなぜ、若い現役世代の間で二拠点生活を選ぶ人達が増えているのだろうか。
 一つにはインターネットの普及に負うところが多い。
いまはネット環境さえあれば場所を選ばず仕事ができる。
どうしても人と会わなければならない仕事は都会(従来の職場)で行い、それ以外の仕事は田舎でする
というやり方もできるし、デスクワーク的な仕事はかえって田舎の静かな環境のほうが捗るかもしれない。

 そのほかにも次のような背景が考えられる。
1.ストレス社会からの脱出
 都会の現代生活はストレスが溜まる。人が多いと(人との距離が近ければ)ストレスが溜まる
というのはネズミや魚の実験でも実証されている。
そのため週末だけでもストレスから逃れて田舎で生活したいと考えるのは案外若い世代の方かもしれない。

2.変身願望
 違う自分になりたいという変身願望は誰しも持っている。
コスプレもその一つだが、同じ環境のもとで「変身」するのはなかなか難しい。
現在の職場環境や人間関係の中で「変身」したいと思っても、周囲の見る目が変わらなければ
かえって妙に思われるだけで、真の「変身」、違う自分の才能の発掘、発見、発揮はしずらいだろう。

 周囲の環境を変えることで、違う自分になる、なれるということはある。
その場をどこに求めるかという時に、一時的なコスプレ等ではなく、違う土地での生活を選んでいるわけで、
現実的な「変身」と言ってもいいだろう。

 田舎生活で違う自分を見出したり、リフレッシュできるなら、
流行りの言葉で言えば「リアル」でも元気になれるだろう。

地方で新たな人間関係ができれば自分の幅も広がる。
最初はストレス脱出でも都会からの逃避でも、ちょっと田舎気分を味わうつもりでもなんでもいい。
そのうち田舎生活が気に入り、田舎で人脈ができれば都会と田舎の生活が逆転し、
田舎暮らしの期間が長くなるかも分からないし、田舎へ移住することになるかも分からない。

 都会の現代生活に疲れた人達にとって二拠点生活は救いになるだろうし、
新たな自分を発見できるライフスタイルともいえる。

 とはいえリスクもある。
最大の問題はカネが二重にかかるということだ。
拠点を2つ持つということはそれぞれの場所に住まいを確保する必要があり、
家賃は最大で2倍の出費を覚悟しなければならない。

もちろん田舎の方は家賃が安いだろうし、都会の方をウィークリーマンションを利用したり
シェアハウスを借りたりしている人もいるようだ。
都会の住宅が自己(家族)所有なら家賃出費はもっと抑えられるだろう。

 出費はそれだけではない。
行き来する交通費もバカにならないし、移動に要する時間もある。

 例えば私の場合も二拠点生活と言えるが、両方共に持ち家だから家賃はかからないが
移動費と移動時間が結構かかる。
片道7、8時間の移動はあらゆる面で負担だ。
負担が大きいと長続きしない。

 そういうことを考えると現在地から2時間程度で行ける場所を
もう一つの拠点に選ぶのがベターといえる。

 それで田舎暮らしに慣れ、コツも掴んでくると今度は本格的に地方移住という手もある。

 近年、田舎に移住する若者が少しずつだが増えてきている。
西日本では岡山県西粟倉村や鳥取県智頭町などがよく知られている。
両方ともかつては林業で栄えた所で西粟倉村は京都や関西方面から若者が少しずつ移住してきて、
この村の材木を使い木工製作や木工デザインを行い、作品を販売している。

 田舎暮らしは都会に比べて生活費全般が安いことだ。
カネが全てという考え方を捨て、ストレスのない、自然環境のもとで、
ゆっくり生活したいと考えるなら(実際、最近の若者の中にはそう考える人達が案外いる)
二拠点生活を始めてみるのはいいことだと思う。

 二拠点生活の最大のメリットは複眼的なものの見方、考え方ができるようになることだろう。

 ところで地方移住を妨げる最大の問題はなにかご存知だろうか。
夫あるいは妻などの伴侶や家族の反対である。
「田舎暮らしがしたいなら一人で行って」と反対に遭う例が多い。

実は昨秋、兵庫県のある地方で大きな民家の庭に咲いている花を撮影させてもらっている時
「息子がもうそろそろ定年退職を迎える歳で、こちらに帰ってこようかなと言っているんですが、
嫁が反対しているようで、ぼく一人だけでも帰ってこようかと言っているんですよ」と、
半ば自嘲気味に話されていたが、二拠点生活ならそうした反対の声もなくなるというものだ。

 そして少しずつ田舎生活のよさをアピールし、時に旅行で呼び寄せ、
次第に引き込んで行ったとは現在、九州のある地域に移住した40代男性の声。

 いま我々は一方的な思考に縛られている。
都会と技術、社会の発展が善という思考に。
そこからは弱者に対して思いやる思考は生まれてこない。

今後ますます必要になるのは違う角度からものを見、考える複眼的思考ではないだろうか。
それを養う二拠点生活に期待したい。


  (本文は2018年12月27日に「まぐまぐ」の「栗野的視点」から配信したものです)


文明が滅びる時

2019-02-06 12:23:51 | 視点
「文明が滅びる時」をHPにアップしました。

  以下は抜粋と見出しです。

 全文はリエゾン九州のHP内の「栗野的視点」でお読み下さい。

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 「我々はどこへ行くのか」「時代は進んでいるのか、後退しているのか」--。
私は近年そのことを考え続けてきた。
人類の未来は明るいのか、それとも暗いのか。
技術革新は我々に明るい未来を約束し、それを実現してきたのか、と。

時代は前に進んでいるのか

 未来は過去の歴史を見れば分かる(過去の歴史から未来が推察される)と言われるように、
過去を振り返ることで、かなりの部分推察できる。

 当時、私が得た結論は「時代は一直線ではなく、らせん形に進む」ということだった。
時には前に大きく進んでいるかと思えば、次には後退しているようにしか見えない。
前進と後退を繰り返しながら、それでも少しずつ進化している(と見られた)時代を「らせん形の前進」と捉えたのだ。

 だが、それは間違いだったのではないかと最近、考えている

インターナショナルからネーションへ

違いを認めない日本人

環境異変という外的要因

文明の帝国化が滅亡を招く

破れつつあるベクトルの均衡




相変わらず危険運転、雪の日、歩道を走った車。

2019-02-04 10:51:10 | 視点


 危険運転がメディアで何度報道されても減少するどころか

相変わらず我が物顔で運転するドライバーが後を絶たない。

上の写真は日本全国が雪で包まれた1月下旬のある朝の光景。

写真右端の雪道は車道ではなく歩道である。

そこにくっきりと付いたタイヤの後。

自動車が歩道を走っていたのだ。

雪で覆われ車道と歩道の区別がつかず、誤って歩道に入ったのかと最初思った。

しかし、よく見ると画面上の方から突然、歩道にハンドルを切り歩道を走っていることが分かった。

意図的に歩道を走っているのだ。

どこまで走ったのかタイヤ痕を辿ってみると、写真では切れて写ってないが

画面手前の方で向かって左側へとタイヤ痕が続いていた。

画面左側は作東中学校である。

幸いこの日は土曜日。登校する生徒はいないからよかったが、もし平日の朝だったらと思うとゾッとする。

一体誰が何の目的でこのような危険運転をするのか。




 作東中学の生徒は道で会えば「おはようございます」「こんにちは」と挨拶をよくする礼儀正しい子ばかりだ。

一方、先生の方はと言えば道で会っても挨拶されたことはない。

それどころか道を横切ろうとしても一時停止せず、車が先とばかりにスピードを緩めず走る。

始業時間に遅れるからか、学校の前の道路を、だ。

登校中の生徒がいればどうなるのだと思ってしまう。

 家の前の道を雪かきしていた老婆に出会ったので、「道が凍っているから気を付けてくださいよ」

と声を掛けしばしよもやま話。

老婆曰く。「この道は結構車が通るから危ないんです。橋から下り坂になっているから

スピードを出して学校の先生なんかも通るんですよ」

ここは生活道路。それを生徒の見本にならなければいけない先生がスピードを出して走るとは言語道断。

都会より田舎に住んでいる人の方が車のスピードは出すし、徐行運転しない傾向にある。

一体この国のモラルはどこへ消えたのか。