栗野的視点(No.682) 2020年4月27日
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「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問
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新型コロナウイルス感染症(以下COVID-19)が猛威を振るい、どんどん広がっている--。
いや、猛威を振るい、広がっているのは人間界の対応の方だが。
このところの報道に接していると、いくつもの疑問が湧いてくる。
以下、それらの疑問を列挙してみたい。
1.「政府専門家会議」の提言に対する疑問
大体「オンライン」が多すぎる。
全国民がとまでは言わないが大半の国民がオンラインを使える環境にあると思っているのだろうか。
そうそう恵まれた環境にいる人達ばかりではないということに頭が廻らないのだろうか。
たしかに1つ1つは正しいかもしれない。しかしマクロの視点で見れば「合成の誤謬」ではないか。
いずれにしろ「10のポイント」などはわざわざ「専門家会議」が言うことなのか。
「専門家」なのだから、もう少し気の利いたことを言って欲しいものだ。
2.「3密」会議の「専門家会議」への疑問
「3密」を避けろ、人との接触を8割削減しろ、と言っている専門家会議の様子をTVで見ていると、
参加者達の席は2m開いているどころか1mも開いているかどうかの「密接」状態。
会議をしている部屋にはメンバー以外に記録係等の官僚達も机と椅子を並べていて室内は「密集」状態。
窓だって開いている風には見えなかったから換気もいいとは言えないだろう。
これって「3密」ではないのだろうか。言っていることと、やっていることが違う気がするけど、なぜ。
3.スーパー入場制限に対する疑問
(中 略)
4.屋外運動自粛に対する疑問
不思議なのは各地の公園などが閉鎖していること。例えば岡山の後楽園や香川の栗林公園。
さらに言えば岡山県森林公園までGW明けまで閉鎖になっている。
イベント開催時を除けば、これらの公園が「密集」したのを私は知らない。屋外だから密閉空間ではない。
「3密」ではないのに閉園する必要があるのか。
それより屋内に籠もっている方が危険だ。戸外に出ず、家に籠もってばかりいればストレスがたまる。
ストレスは免疫力を下げると言われている。免疫力が下がればウイルス等へも感染しやすくなる。
それを防ぐためには屋外での適度な運動が求められる。
それなのにわざわざ「ジョギングは少人数で」と言うのは皇居周辺のことを指しているのか。
いずれにしろ屋内に閉じ籠もっているとストレスが高まり、死に結び付くと言われているが、
「専門家会議」の医師達がそのことを知らないはずはない。
また高齢者の場合、認知症になる、認知症が進む確率が高くなるということも言われている。
5.免疫力アップを言わない疑問
(中 略)
6.政府のカネの使い方に対する疑問
今回、政府の対応でもっとも疑問を感じ、納得いかないのはカネの使い方。
「アベノマスク」に要した466億円は壮大な無駄遣いと言っていいが、
なにより問題だと感じるのは対策がすべて受け身の防戦なことだ。
防戦には受け身一方の防戦と積極的防戦がある。
前者の防戦は退却一辺倒で、最後には尻に帆を掛けて総崩れになる。どうも今それに近い状態になりつつあるように思う。
一方、後者の積極的な防戦は戦いながら退く戦法。
この場合、重要なのは殿(しんがり)を務める部隊の存在で、ここが強いか弱いかで全軍の帰趨が決まる。
今回に即して言うなら最前線に踏み止まり戦っているのは医療関係機関、医療関係者である。
ここへの支援を優先的、重点的にすることにより相手の攻撃を防ぎ、国民はひとまず安全な場所まで退き、
残った医学関係者等は総力を挙げて反撃の準備をしなければならない。
反撃の準備とはSARS-CoV-2の正体を探ることである。
彼を知り己を知らば百戦するも危うからず、という孫子の兵法を持ち出すまでもないだろうが、
まず相手のことを知らなければ有効な対策が打てない。
データを集め、分析し、情報を共有する。そうしながら抗ウイルス薬、ワクチンの開発に全力で取り組む。
その後押しを国が全力でする。
要は最前線で戦っている医療機関・関係者への人的、金銭的支援である。
ここに輜重を注ぎ込まなければならないのに、逆に彼らを孤立させている。
やっと遅まきながらも少しそちらに動き始めたが、焼け石に水というか、砂漠に水一滴程の効果もない。
466億円を初期段階で医療機関・関係者に回し、彼らの活動を支えていれば、ここまで国民が怯え、
退却一辺倒になることもなかったのではないだろうか。
もう一つ国民が安心できないのは感染者数と死者数の発表ばかりで、内訳の分析がないこと、
後方の医療機関の動きに対する情報が出されないからではないだろうか。
(以下 略)
全文はHPに収録、「まぐまぐ」からも配信しているので、そちらでどうぞ
栗野的視点(No.682):「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問
栗野的視点(No.680) 2020年4月14日
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「コロナ」一色世界は「合成の誤謬」を生まないか
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外出禁止でDVの増加
(中 略)
合成の誤謬が起きる
集団が危機に直面している時、外に敵を求めるのは、いつの時代にも取られてきた手法である。
「巨大な敵が攻めてきており、我々が存亡の危機に瀕している。こんな時に内輪で揉めている場合ではない。
全国民が一致団結して事に当たるべきだ」
「そうだ我々も多少の不自由は我慢すべきだ」
「こんな時に贅沢を言ってはいけない」
「我々にできることがあれば言って欲しい。協力する」
「感染者は隔離しなければならない」
「陽性反応が出ても症状が軽い人間は自宅待機で様子を見て欲しい」
「感染者が全員、病院に来ると医療崩壊を起こす」
これら1つ1つは正しいし、その通りだと思うに違いない。だが、手放しで喜べないのも事実だ。
1つは最初の小さな善意も声が集まり大きくなると、どんどんエスカレートしていくことはよく見られる現象で、
やがて自発的な善意が他者への強制へと変化していく。
非協力者は「非国民」と言われ、有形無形の圧力、差別を受けだす構図はなにも日本だけに限ったことではない。
2つ目は限定的な権力集中が、危機が去った後も居残り続け、それが既成事実として定着していくことだ。
そして、それらは既に現実のものとなりつつある。
全文はHPに収録しているので、そちらでどうぞ