栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問

2020-05-29 12:45:07 | 視点

栗野的視点(No.682)                   2020年4月27日
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「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問
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 新型コロナウイルス感染症(以下COVID-19)が猛威を振るい、どんどん広がっている--。

いや、猛威を振るい、広がっているのは人間界の対応の方だが。
 このところの報道に接していると、いくつもの疑問が湧いてくる。

以下、それらの疑問を列挙してみたい。

1.「政府専門家会議」の提言に対する疑問

 大体「オンライン」が多すぎる。

全国民がとまでは言わないが大半の国民がオンラインを使える環境にあると思っているのだろうか。

そうそう恵まれた環境にいる人達ばかりではないということに頭が廻らないのだろうか。

 たしかに1つ1つは正しいかもしれない。しかしマクロの視点で見れば「合成の誤謬」ではないか。

 いずれにしろ「10のポイント」などはわざわざ「専門家会議」が言うことなのか。

「専門家」なのだから、もう少し気の利いたことを言って欲しいものだ。

2.「3密」会議の「専門家会議」への疑問

 「3密」を避けろ、人との接触を8割削減しろ、と言っている専門家会議の様子をTVで見ていると、

参加者達の席は2m開いているどころか1mも開いているかどうかの「密接」状態。

 会議をしている部屋にはメンバー以外に記録係等の官僚達も机と椅子を並べていて室内は「密集」状態。

窓だって開いている風には見えなかったから換気もいいとは言えないだろう。

 これって「3密」ではないのだろうか。言っていることと、やっていることが違う気がするけど、なぜ。

3.スーパー入場制限に対する疑問

     (中 略)

4.屋外運動自粛に対する疑問

 不思議なのは各地の公園などが閉鎖していること。例えば岡山の後楽園や香川の栗林公園。

さらに言えば岡山県森林公園までGW明けまで閉鎖になっている。

イベント開催時を除けば、これらの公園が「密集」したのを私は知らない。屋外だから密閉空間ではない。

 「3密」ではないのに閉園する必要があるのか。

それより屋内に籠もっている方が危険だ。戸外に出ず、家に籠もってばかりいればストレスがたまる。

ストレスは免疫力を下げると言われている。免疫力が下がればウイルス等へも感染しやすくなる。

 それを防ぐためには屋外での適度な運動が求められる。

それなのにわざわざ「ジョギングは少人数で」と言うのは皇居周辺のことを指しているのか。

 いずれにしろ屋内に閉じ籠もっているとストレスが高まり、死に結び付くと言われているが、

「専門家会議」の医師達がそのことを知らないはずはない。

 また高齢者の場合、認知症になる、認知症が進む確率が高くなるということも言われている。

5.免疫力アップを言わない疑問

     (中 略)

6.政府のカネの使い方に対する疑問

 今回、政府の対応でもっとも疑問を感じ、納得いかないのはカネの使い方。

「アベノマスク」に要した466億円は壮大な無駄遣いと言っていいが、

なにより問題だと感じるのは対策がすべて受け身の防戦なことだ。

 防戦には受け身一方の防戦と積極的防戦がある。

前者の防戦は退却一辺倒で、最後には尻に帆を掛けて総崩れになる。どうも今それに近い状態になりつつあるように思う。

 一方、後者の積極的な防戦は戦いながら退く戦法。

この場合、重要なのは殿(しんがり)を務める部隊の存在で、ここが強いか弱いかで全軍の帰趨が決まる。

 今回に即して言うなら最前線に踏み止まり戦っているのは医療関係機関、医療関係者である。

ここへの支援を優先的、重点的にすることにより相手の攻撃を防ぎ、国民はひとまず安全な場所まで退き、

残った医学関係者等は総力を挙げて反撃の準備をしなければならない。

 反撃の準備とはSARS-CoV-2の正体を探ることである。

彼を知り己を知らば百戦するも危うからず、という孫子の兵法を持ち出すまでもないだろうが、

まず相手のことを知らなければ有効な対策が打てない。

 データを集め、分析し、情報を共有する。そうしながら抗ウイルス薬、ワクチンの開発に全力で取り組む。

その後押しを国が全力でする。

 要は最前線で戦っている医療機関・関係者への人的、金銭的支援である。

ここに輜重を注ぎ込まなければならないのに、逆に彼らを孤立させている。

やっと遅まきながらも少しそちらに動き始めたが、焼け石に水というか、砂漠に水一滴程の効果もない。

 466億円を初期段階で医療機関・関係者に回し、彼らの活動を支えていれば、ここまで国民が怯え、

退却一辺倒になることもなかったのではないだろうか。

 もう一つ国民が安心できないのは感染者数と死者数の発表ばかりで、内訳の分析がないこと、

後方の医療機関の動きに対する情報が出されないからではないだろうか。

     (以下 略)

  全文はHPに収録、「まぐまぐ」からも配信しているので、そちらでどうぞ

栗野的視点(No.682):「COVID-19」報道に接して感ずるいくつかの疑問

 

 

栗野的視点(No.680)                   2020年4月14日
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「コロナ」一色世界は「合成の誤謬」を生まないか
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外出禁止でDVの増加

     (中 略)

合成の誤謬が起きる

 集団が危機に直面している時、外に敵を求めるのは、いつの時代にも取られてきた手法である。


「巨大な敵が攻めてきており、我々が存亡の危機に瀕している。こんな時に内輪で揉めている場合ではない。

全国民が一致団結して事に当たるべきだ」

「そうだ我々も多少の不自由は我慢すべきだ」

「こんな時に贅沢を言ってはいけない」

「我々にできることがあれば言って欲しい。協力する」

「感染者は隔離しなければならない」

「陽性反応が出ても症状が軽い人間は自宅待機で様子を見て欲しい」

「感染者が全員、病院に来ると医療崩壊を起こす」

 これら1つ1つは正しいし、その通りだと思うに違いない。だが、手放しで喜べないのも事実だ。

 1つは最初の小さな善意も声が集まり大きくなると、どんどんエスカレートしていくことはよく見られる現象で、

やがて自発的な善意が他者への強制へと変化していく。

非協力者は「非国民」と言われ、有形無形の圧力、差別を受けだす構図はなにも日本だけに限ったことではない。

 2つ目は限定的な権力集中が、危機が去った後も居残り続け、それが既成事実として定着していくことだ。

 そして、それらは既に現実のものとなりつつある。

 

  全文はHPに収録しているので、そちらでどうぞ

栗野的視点(No.680):「コロナ」一色世界は「合成の誤謬」を生まないか


法解釈を変更する危険性

2020-05-19 06:08:37 | 視点

栗野的視点(No.678)                   2020年3月18日
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権力者は災害を利用して独裁化を加速させる。
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変質したニッポン社会

  (略)

分断社会が独裁化の土壌

  (略)

 弱者への思いやりを欠いた社会はさらなる差別を生むことは様々な事実が示している。

弱者は他者にやさしくなると思われがちだが、実はその逆で、自分より弱者と

考えられる人を差別し、彼らより優位に立とうとする。

 人は平等な関係が維持されている時は強いリーダーを必要としないが、

社会が階層化されればされる程、強いリーダー=独裁者を受け入れる要素が強くなる。

自らが受けている服従、差別、社会的虐待といったものを、自分より下の階層へ

そのまま転化していくことで自らが受けている事態との間でバランスを取ろうとするからである。

  (略)

法解釈を変更する危険性

 「民主主義」国家では独裁化ははっきりと目に見える形では行われない。

それは一見ソフトな形で行われ、現在、一部の国で見られるような「ハードな独裁」

という形では現れないということは「栗野的視点(No.672)」で既述した通りである。

 ソフトな語り口で笑みを浮かべながら、様々な状況を捉えて巧妙に行われるから

よほど注意しないと騙される。

 世に独裁者と言われた人は最初から独裁者然として現れたわけではない。

最初は民衆の味方として、社会の難題を解決する救世主として、政治の混乱を収めた

名政治家として、新時代の革命児として現れている。

そして権力を掌中にした途端に仮面を脱ぎ捨て、軍を掌握し、国民を監視し、

私権を規制し、自分の思いのままに政治を操り出すのである。

 これは政治の世界に限らず、会社組織を含めたあらゆる組織で共通して見られることである。

 どのような人物であれ、権力の座に長く留まれば独裁化が始まる。

企業でも「中興の祖」と言われた経営者がいたが、ほぼ例外なく長期政権で、

トップの座に長く君臨し続け、人事を思うがままにし、組織を操つり、

陰では「老害」と言われている。

 近年、目に見えるハードな形の独裁を続けた経営者は日産自動車の

ゴーン元会長ぐらいで、これは逆に珍しい存在と言えるだろう。

 さて、この国の政治である。安倍政権は長期政権などと持ち上げられ、

その一方で政権に慢心と緊張感の緩みが目立つと批判されてもいる。

 これこそ独裁化への第一歩。長期政権=国民に支持という図式を作り、

故に何をしても許されると(意図的に)勘違いしてしまうのである。

 例えばこのところの閣僚の国会答弁には耳も目も覆いたくなる。

森法相に至っては本当に壊れたレコードかテープレコーダーのように、

同じことを繰り返し述べるばかりで、聞いていてイライラするが、

結局、言わんとするところは、その当時の解釈と今の解釈は違う。

法律の解釈を現政権に都合よく変え、検事長の定年延長をするということだ。

 法務大臣が法律の解釈を変える、ということを言っているわけで、

これがどれほど重要なことかを当の本人が理解していないところが怖い。

 さらに怖いのはマスメディアがそのことの危険性を声を大にして問題視し、

現政権はおかしいと指摘しないことだ。

 こんな重要なことを通り一遍の記事や報道で済まそうとするならメディアそのものもおかしい。

「ジャーナリズムは死んだ」とは以前にも書いたが、もはやマスメディアに

ジャーナリズムはないと言える。そして、そのことは二重に危険であり、恐ろしい。

 メディアの問題意識の希薄さは後述するとして、検事長の定年延長問題にもう少し触れてみよう。

 これは2つの問題を含んでいる。

1つは法の解釈変更の問題であり、もう1つは三権分立に関わる問題である。

 言うまでもないだろうが三権分立とは立法権、行政権、司法権を独立させ、

三権が1箇所(一人)に集中することによって起こる危険性(独裁化)を防ぐためである。

 司法権が行政を担う時の政権によって侵され、自由に操られるとどうなるか。

検察の独立性はなくなり、政権に不都合な事件は立件されず、与党議員はやりたい放題やれる。

 それは極端で、そんなことはない、と言われるかもしれないが、

司法の独立がなければ田中角栄はロッキード事件で逮捕されることはなかっただろう。

いや、そんな古い話はいい。もし検察トップの人事が政権の思うままに操られたら

「モリカケ」問題など問題にもされなかっただろう。今でさえ手心を加えたように見えるのに、だ。

 政権側が検察を味方に付けたいと思うのはどこも同じで、お隣の国、韓国では

代々、政権と検察の癒着が問題にされてきたため、検察改革を行う目的で

文在寅大統領が法務長官に任命したのがチョ・ググ氏。

ところが身内の不正で家族が逮捕され、チョ氏が就任間もなく辞任に追い込まれたのは

ご存知の通り。文大統領の検察改革は逆に検察組織に返り討ちに遭った形になったが、

見方を変えれば検察は三権分立を守り、政権に忖度しなかったとも言える。

 詰まるところ、三権分立が守られるかどうかは検察が政権と距離を置き、

独立性を保てるかどうかにかかっている。

日本の官僚組織は国を動かしているのは自分達だという自負があり、

政治家に動かされている風を装いながら実は政治家を動かしている面がある。

 それだけ自立心が強く、自分達の組織のルールは自分達が決めるとしてきたわけで、

それが長所でもあったが、安倍政権がそこに手を突っ込んできたから今後、

検察組織はどうするのか。黙って従うのか、それとも司法の独立を守る意地を見せるのか。

 それは組織としての検察の問題だが、これとは別に人の問題がある。

法の解釈を変更してまで定年を延長させられる方はどうするのか。

検察官の意地を見せ従来通りの定年で退官します、と辞める風はないし、

もともと安倍政権寄りと言われている人物だけに、むしろ定年延長に恩義を感じ、

より一層安倍政権に忖度した検察指揮を執るだろう。

 つまり今回の検事長の定年延長問題は

(1)法律は明文化された内容ではなく、政権が自分達に都合よく解釈でき(

2)人事も政権が好きにでき、三権分立は有名無実化されるということだ。

 これこそ独裁国家で見られる特徴である。

過剰に反応する各国リーダー

   (略)

災害が独裁化に利用される

   (略)

 

 

  全文はHPに収録しているので、そちらでどうぞ

栗野的視点(No.678):権力者は災害を利用して独裁化を加速させる。


この国の無責任体質が権力者の独裁化を許していく。

2020-05-16 18:23:45 | 視点

栗野的視点(No.675)                   2020年2月27日
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この国の無責任体質が権力者の独裁化を許していく。
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 一体この国はどうなったのだろうか。頭から腐るというが、まさにその通りで、

組織は上に倣えで、上のやり方を見て下は真似て行くから、上に立つものは

よほどしっかりと自らを律していく必要がある。

横行する公私混同、横領

 ところが、どうだ。国も企業も上が公私混同、私利私欲に走るから、当然のごとく

下は上を見倣い公私混同、公金の横領を行う。接待と称して会社の金で飲み食いする

ぐらいはカワイイもので、経理を任されているのをいいことに馬主になって馬に金を注ぎ込み、

ブランド物を買い漁り、挙句の果てには家まで買ったり豪遊するなど金を湯水のごとく使う。

 いまさら「公僕」という死語を持ち出すつもりはないが、官僚の矜持などどこ吹く風で、

政治家とつるんでスィートルームに泊まりながら、医学の進歩に必要な予算をバッサリ削り、

イケシャアシャアと国会で答弁する女性官僚の姿などを見せられていれば、

あんなのに比べれば自分の横領など大したことないと思っていたかもしれない。

薄っぺらな言葉ばかりが

 「国家の品格」という言葉が流行った時があったが、今、どこを探しても国家に品格などない。

それはこの国だけでなく、世界中どこも同じだろう。

国の「トップ」に品格がないのに、国家に品格が備わるはずがない。

 大体、言葉に重みと真実性がなくなった。

「スピード感を持って取り組む」「丁寧に説明していく」などという言葉は何度耳にしただろうか。

その度に、あっ、今まではスピード感を持って取り組んできてなかったのだとか、

「丁寧」とは「これ以上説明しない」ということと同義語なんだと思い知らされ、

理解させられている。

 最近は「丁寧に説明」すら言わず、「そのことは国会で報告した通りです」で済ませ、

それ以上の説明を拒否する姿勢が目立つ。

 国会で飛ばされるヤジが時々問題になるが、あろうことか政権トップの地位にいる者が

ヤジを飛ばす。それも一度や二度ならず。本来ならヤジを飛ばす与党議員を諫める立場だ。

それが率先してヤジを飛ばす。それも品がないヤジを。

 その彼が得意とするのは「ご飯論法」だそうだ。

「ご飯論法」とは「今朝、朝ご飯を食べましたか」と問われ、朝食にパンは食べたが、

ご飯(米の飯)は食べてないから「ご飯は食べてない」と答え、質問を都合よく

すり替えて答える答弁のことらしい。

 そういえば、かのご仁は質問に対する返答のすり替えが実にうまい。

いや褒めているのではない。皮肉っているというのはお分かりだと思う。

公文書破棄の次は法の身勝手な解釈

公文書の廃棄は独裁化への第一歩である。

記録文書がなければ過去の出来事や歴史は検証できなくなる。

検証は権力者の暴走を防ぐ砦なのだ。


 第一歩があれば、当然、第二歩が続く。では、第二歩は何か--。それは人事である。

 古今東西、人事こそが政権維持の絶対条件であり、自分が思うがままに振る舞える

必要条件である。故に周辺に意のままに動く人物、自らの意思を忖度して実行する人物、

それは多分に恩を着せた人物だったり、お友達だったりするわけだが、

そういう人間を配置しようとする。

 以前から最高裁判事は政権に好意的な人物を据えるということが当たり前のように

行われてきていたが、今回はさらに一歩進めて東京高検の検事長人事を

恣意的に行おうとしている。

 63歳と決められていた検察官の定年を延長し、安倍政権寄りの検事に検事総長就任の

道を開こうというわけだ。

 ここまで露骨な人事は過去に例を見ない。

そこまでして独裁化を進めようとしている理由は何なのか。

 ところが、それに待ったをかけたのが公文書の存在である。

政府の説明に反し、検察官の「定年、特例定年、勤務の延長及び再任用の適用は

除外される」と明記した公文書が残っていたのである。

 こうした文書が廃棄され、残されていなければ、いいように言い換えられ、

定年延長だろうが任用だろうが政権の都合で好き放題にできるということであり、

公文書の保存がいかに大事かということが分かるし、身勝手な法の解釈防止に

公文書の保存が一定の役割を果たしているといえる。

 逆に言えば、そうであるからこそ権力者は不都合な公文書を残したくないわけで、

保管期間を短縮しようと画策もしているわけだ。

 それ故、国民は公文書の保存や法律の改変に対し、もっと注視する必要があるだろう。

蔓延る無責任体質が独裁を許す

   (略)

 

  全文はHPに収録しているので、そちらでどうぞ

 栗野的視点(No.675):この国の無責任体質が権力者の独裁化を許していく。

 

 


2025年、2030年の社会は?~世界の製造業は半減する

2020-05-09 18:26:53 | 視点

栗野的視点(No.673)                   2020年2月12日
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2025年、2030年の社会は?~世界の製造業は半減する
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 製造業を取り巻く環境は厳しい。特に小零細企業は三重苦に喘ぎ、いつ倒産、廃業してもいい状態にまで追い詰められている。10年後の2030年の話ではない。いま中小企業が直面している状況である。
 では、10年後、20年後にはどうなっているだろうか。結論を先に言えば10年後に弱小零細企業は半数近くまで減少し、30年後には大企業を含めた製造業の約半数が世界から消えているだろう。

高齢化の波が中小製造業を襲う

 なぜ製造業の数は減少していくのか。それは製造業が直面している課題と、取り巻く環境の変化にある。
 まず国内の製造業、中でも中小企業が置かれている状況を見てみよう。彼らが今直面しているのは経営者と従業員の高齢化である。後者は技能の伝承をどうするかという問題にも関係してくるが、一部では熟練工の技術・技能を数値化し機械に置き換えることで熟練工の高齢化に対応しようとしている。

 たしかにこれは現実的だ。今のAIの進化からすれば、5年後には熟練工の技術・技能はAIで可能になるだろう。
 ただ、それで問題が解決されるかというと、そうでもない。AI導入コストの問題がある。AI化にかけた費用を何年でペイするのか、できるのかという費用対効果の問題がある。そのためには経営者の年齢も考慮しなければならないだろう。
 まだ若ければいいだろうが、シルバー世代になっているとAI化にコストをかけてもペイできないということにもなる。

 後継者がいれば話は少し違ってくるかもしれないが、大半の中小企業に未来はない。それが分かっていて後を継ぐ者はいないだろうし、仮に息子や娘がいたとしても彼らはすでに親とは違う道にほとんどが進んでいる。
 では社員の中から後継者をと考えても、負債を背負ってまで引き受ける者がいるかとなると、これまた疑問だ。第一、年齢的にもある程度若く、かつマネジメントができそうな社員がいるかどうか。
 となると残された道は廃業か売却しかない。ただ赤字企業や先の見通しがない企業を買うところはないから、結局、高齢化に直面した多くの中小企業は廃業するしかなくなる。

 中小の製造業が抱える問題はもう1つある。グローバル化で激化している価格競争である。もう浪花節的な義理人情が通用しないのは随分前から分かっていることだが、価格的な選別は年々厳しくなっている。

大手を待っているのは再編の波

   (略)

環境問題が製造業を追い詰める

   (略)

製造小売業も半減する

   (略)

 

  全文はHPに収録しているので、そちらでどうぞ

 栗野的視点(No.673):2025年、2030年の社会は?~世界の製造業は半減する