波佐見の狆

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高倉帝や源頼政の気持ちを考える(45回)

2012-11-19 16:44:07 | 平清盛ほか歴史関連

第45回「以仁王の令旨」。あらすじ、ダイジェストムービーなどはこちら

前の記事でお知らせしたとおり、さっそく出ましたね・・・・

「ここは、わしの世じゃ・・・・・・!」

老醜、老猾、老獪・・・ううーー怖いですねぇ~~ 清盛の強欲じじぃへの変貌ぶりについては、あちこちのブログにありますので、ここでは、別の視点から、清盛を取り巻く人々の人間模様を書いてみたいと思います。

今回のストーリーも、『新・平家物語』との違いが面白いのです!!

以下3つのポイントに絞って、『平清盛』と『新・平家物語』を対比させてみます。新平家の記述中イタリックの部分は、吉川英治氏の言葉そのままの箇所を表します。

1.高倉帝の譲位と厳島御幸は、誰の考えだったのか(注1)。

『平清盛』

清盛は、20歳の高倉帝に譲位させ、わずか3歳の我が孫言仁を、安徳天皇として即位させることに成功します。さらに、高倉上皇の厳島参詣計画を進めますが、これも慣例を破る異例のことだったため(帝の退位直後の参詣先としては、賀茂、八幡、春日、あるいは叡山と決まっていた。)。寺社勢力などの反発を招きますが、清盛はゴリ押しします。つまり、譲位も厳島御幸も、清盛が朝廷に圧力をかけて高倉帝に無理やり?させたことであり、高倉帝は自分の考えもなく、清盛の人形のようになってしまって黙って従うしかないのです

『新・平家物語』

譲位も厳島御幸も、高倉帝自身の希望で行われました。そしてその理由が・・・高倉帝は、父後白河と舅清盛との間の板挟みになり、なんとかして仲直りしてほしいと願っていたから、というのです!つまり、自分が早く言仁に譲位したり、わざわざ厳島に御幸することで、清盛が喜び心を和ませてくれれば、後白河に対する感情も変えてくれるのではないか・・・そして二人が円満な関係に戻れば、世の平和につながるだろうと、そこまで願っていたのです。

しかも新院の御誠意は、ただ神にそれを頼むというだけのことではなかった。神に参前に、人事を尽くしておいでになった。親たちの争いをなだめようとするいじらしい人間の子の努力に、第一夜から心を砕いておられた」(『新・平家物語』(七)「幽宮訪鶯記」pp.36-37)

「第一夜」というのは。。。。厳島への旅程の一日目として、高倉上皇は西八条に一泊して、清盛夫妻と「いと睦まじげに」過ごします。そしてその夜の明け方、清盛にひどく気兼ねしながら、鳥羽離宮へ行って後白河と会い、親子の時間を持ちます。

→ 『平清盛』では、老猾な清盛に利用されるだけの若い天皇という感じですが、『新・平家物語』では、高倉帝がどんなに心優しく高潔な人物だったかということを随所で力説している感じです。そして、そういう高倉帝を清盛も尊敬しており、2人はいい感じなのです。高倉帝は、後白河と清盛がうまく行くことを願っていた母滋子の優しいこころを、そのまま受け継いでいたのですね。

2.宗盛は、源仲綱の愛馬をどうしたのか。

 『平清盛』

源頼政の子、仲綱が、自慢の名馬「木下」(このした)を連れて、宗盛の館での宴に参加するためやって来ます。宗盛は、木下を欲しくなり、貸せというのですが、仲綱は命より大事な愛馬だからといって断ります。むっとした宗盛は、「私に逆ろうてただで済むと思うてか!」と言って仲綱の肩を押さえつけ、結局木下を横取りして、返しませんでした。

仲綱は、木下が「仲綱」という名に変えられ、その尻に「仲綱」という焼印まで押されるという、ひどい辱めを受けている・・・・と、激しい怒りと悲しみを父頼政にぶつけます。頼政は、平家に逆らってはこの世では生きていけないのだから、ひたすらこらえるように言いますが、彼の心にも平家に対する離反の気持ちがふつふつと湧てくるのです。そしてこれが以仁王とともに反乱を起こす大きなきっかけとなります。

→ ひどい話ではありませんか!しかも、このシーンは、宗盛が、宴三昧で早くもおバカ棟梁ぶりを露呈し始めたところの後に入れられているので、 平家崩壊の一つの大きな原因が、宗盛のリーダーシップのなさと貧しい人間性にあったことを痛感させられるわけです・・・

ところで、このシーンの直前に挿入されている、宗盛の息子清宗が、壊れた竹馬の切れ端をみつけて宗盛に持ってきて、直してくれないかと頼むシーンに胸締め付けられました。それは、保元の乱で、一門を守るため死罪が決まった大叔父忠正が、宗盛(清三郎)のために作ってくれていた竹馬でした。清宗とちょうど同じ年頃(11歳)だった宗盛は、年齢の割には子供っぽくて、大叔父がどうなろうとしているか意味もわからずにいました。そのことを思い出し、懐かしむどころか、顔をゆがめてその壊れた竹馬から逃げるようにその場を立ち去る宗盛の心中は??一門のためなら進んで命をも差し出す大叔父らの血によって築き上げられたこの巨大な一門を背負うことの重荷に、すでに押しつぶされそうになっている自分に気づいたのか?あるいは、この竹馬は、宗盛親子がいずれ、大叔父のように斬首されるという運命にあることを示唆する伏線なのでしょうか。

『新・平家物語』 

仲綱の木下(ただし、こちらでは「木の下」)に宗盛が目をつけるのは同じです。しかし、顛末はちょっと異なっていて、けっこう笑えます。おおよそ次の通り。

宗盛が「一度見せてもらえないか」と仲綱の館に家来をよこすので、いったんは「この頃痩せてきたので、伊豆へ放牧にやっていている。」と嘘をついてごまかしたが、しつこく来て、「まだ伊豆から戻らないのか?」とニヤニヤするので、とうとう、家来に木の下を引かせて宗盛の館に届けさせた。なかなか返してくれず、家来達が、「木の下を仲綱と呼んで辱めているらしい。」と言う。やっと返してもらうと、よほど荒っぽい扱いを受けたとみえ、毛艶が悪く、尻毛が焼かれその痕が「なかつな」と読める。仲綱は、「おぼえておれーー」と、湯のような涙をためて、六波羅方面を睨んだ。

そこへ頼政が飛んできて、われら親子が六波羅からどんなに恩義を受けているかを思えば、馬一匹がなんだ。そんなに宗盛殿がご所望なら、なぜすぐに差し上げなかったのだ、とひどく仲綱を叱りつけ、宗盛に会いに行き仲綱の吝嗇を詫びた(注2)。ところが、宗盛は、家来がすぐに返したと思い込んでいたため、驚き、「家来どもの悪戯であろう。いや、人の迷惑などものともせぬ物好きな武者どもには困るぞよ。戦もなくて、退屈なまま、悪遊びのみいたしおってのう」と大いに笑い、「悪く思うな」と頼政をもてなして、帰したほどだった

→ 少なくとも、以仁王と反乱を引きおこすきっかけになるほどの、深刻なエピソードではありませんね。『新・平家物語』では、今のところ(私が今読んでいる第七巻の途中までの時点では)、宗盛の愚劣さ高慢さを表す描写は特にありません。上記『平清盛』での木の下に関する宗盛の言動は、『(古典)平家物語』とおおよそ同じだそうで、この頃の平家の驕り高ぶりの象徴として必要だったのでしょう。

3.頼政は、八条院子にたきつけられて、以仁王に協力?

『平清盛』

後白河の第三皇子でありながら、大変不遇な身の上で、平家のためにさらに絶望的な状況に落とされてしまった以仁王。そして、鳥羽院と美福門院の皇女(後白河の異母妹)で、やんごとなき血筋でありながら、光があたらず面白くない八条院子。彼女は頼政を呼び出し、以仁王を救いたいので、平家を打倒しようともちかけます(つまり、安徳帝を退けて以仁王を即位させようということ)。77歳という高齢の頼政は、余生を心穏やかに暮らしたいといって、あっさり断ります。「いずれあの世で義朝様にお目通りがかないましたら、そこで改めてこの首、刎ねていただくつもりでござります。」八条院の「買いかぶっておったようじゃの。源氏の魂とやらを」という侮蔑の言葉を甘んじて受け引き下がりますが、結局その後すぐに仲綱とともに、八条院と以仁王のもとに戻ります。以仁王は、八条院に言われるまま平家追討の令旨を書きます(注3)。

令旨の文言が読み上げられるとき、音楽は「アクアタルカス」でしたねーーー!

『新・平家物語』

こちらでは、以仁王を説得して反乱を企てたのは、あくまで頼政であり、八条院の関与については触れていません。その代り、頼政がなぜ77歳の今になって、このような重大な謀反の張本人になるという大それた行動に出たのか、という点について、深く掘り下げています。つまり・・・清盛に大変優遇され、本当に恩義を感じているが、平家の犬としてひたすら耐えるのみの人生だった。そういう生涯もそろそろ終わりに近づいていることを考えると、やはり自分は源氏の人間として死にたいと思う。平治の乱でこぼれ落ちた種が芽吹き、若葉が育とうとしている今、それを助け新しい時代につなぐことで、自分も最期に一花咲かせたい、そういう結論に至ったのです。

平家二十年。春は熟れきった。人生七十七年。わしも生き過ぎたといえるほど生きた。若葉せずにいられぬ木々の芽は催促しておる。季節は来た。もうそろそろよいぞと」 ・・・『新・平家物語』は、美しい日本語が満ちています。

大恩ある清盛に反旗を翻すことについては、本当に葛藤する頼政です(注4)。

ああいう寛大と温かい心の持ち主を、人生七十七年のうちで頼政は知らないほどである。『もし頼政が、武門の人間でないならば。そして、源氏の系統でないならば・・・・ああ、わしは歌詠みの頼政法師として死ねたであろうに』と、心から思う。あんな抜け目だらけの、寛大の度も超えた好人物である入道殿にどうして弓が弾けようか。本来叛けるものではない。それを自分は、かれの弱点とみすかし、能うかぎり利用してきた。(中略)もし人を善悪二色に分けるならば、まちがいなく、あのおひとは善。わしは悪。」

アマゾンのレビューにも、吉川英治氏は、相当の清盛びいきだったのでは、と書いている人がいましたが・・・清盛好きだからというより、もっと大きな人間愛のようなものが、 この作品全体に感じられます。それが吉川平家の世界観なのでしょう。

清盛は、義朝から離反してきた頼政を無条件に温かく迎え入れました。そして、伊豆の領地を頼政に与え、子の仲綱までをも伊豆守として登用して、頼朝ら東国の源氏の監視役を頼政一族に任せたことだけでも、清盛が頼政をいかに信頼していたかがわかります。頼政は、そういう清盛の前でずっと仮面をかぶっていた自分を、ひどい人間だと責めながらも、死ぬときはやはり源氏の人間でありたい、さらに言えば、源氏の人間として自らの人生に幕を下ろしたい、という気持ちを貫いたのですね。

以仁王と頼政の決死の反乱は、あっけなく平家に鎮圧され、頼政一族は自害して果てますが、その成果は大きかったのです。そのあたりは次回へ・・・。

注1)「御幸」(みゆき): 天皇が外出すること。「行幸」(ぎょうこう、みゆき)ともいい、目的地が複数ある場合は巡幸という。(Wikipediaより)

注2)「吝嗇」(りんしょく): [名・形動]ひどく物惜しみをすること。また、そのさま。けち。「―な人」 (Yahoo辞書より)

注3)令旨(りょうじ): 皇太子ら皇族により出される命令書のこと。天皇の命令書は、宣旨・綸旨(りんじ)、上皇または法皇の命令書は、院宣という。(『経営者・平清盛の失敗』p.127より)

注4)頼政は、「三位」(さんみ、さんい)という大変高い位(すなわち公卿の地位)を、清盛の推挙により手に入れたのですが、源氏で三位まで昇ったのは彼だけでした。