★ 宮島水族館で、ついに平家蟹と対話!
さて、水族館が大好きな私は、宮島水族館「みやじマリン」もまた楽しみでした。厳島神社から歩いて5分ちょっとのところです。
それほど大きくない水族館ですが、2年前にリニューアルしたとのことで、とてもきれいで、瀬戸内なりの珍しいものがいろいろありました。
たとえば、牡蠣の水槽。深さ6mの水槽に、牡蠣のいかだがびっしり密集して再現されている様は圧巻でした(こちらに写真が)。それから、タチウオの水槽。真っ青な壁に、藻とか岩石とか何もいれてなくて、タチウオだけがまっすぐに上を向いて列をなし、縦になって泳いでいるのですが、まるでキラキラと銀色に輝くリボンです。タチウオってこんなに美しいものだったのかと、しばらく見とれてしまいました。
そして・・・・下関の水族館で、よく見えなかった平家蟹にこちらで会えたのです!小さいですが、私が水槽の前に立つと、水槽の側面にへばりついていたのが、さささっと私の目の前にやってきて、ずーっとそのまま動かず、私に何か言いたげなのです。模様のある甲羅ではなくお腹をこちらに見せているのですが、お腹のシワでさえ、なんだか悲しそうなお顔に見えて、まるで宗盛のへたれ顔みたいなのです。彼が「よお参いってくれたのぅ・・・我らのことを忘れないでおくれ。」と言っているような気がして、なんだか切ない。思わずひざまづいて手を合わせてしまいました・・・。(思いっきり変なおばさんしちゃったかなぁ・・・)
ちなみに、写真は原則NGで、写してもよい水槽が限られていたようです。
★ 清盛、後白河、二位の尼を偲ぶモニュメント
ところで、、みやじマリンへ行く途中、右手にある急な石段を登っていくと、小高い丘にひっそりと、清盛ゆかりの小さなモニュメントがあります。
「経の尾」というその丘には、素朴な石灯籠が祀られていて、「清盛塚」とか「経塚」とか言われています。
清盛が平家一門の繁栄を祈願して一字一石経を埋めたところで、昭和19(1944年)年にこのあたりを開墾した際、その一部が発掘されたそうです。「一字一石経(いちじいっせききょう」とは、1個の石に、経文の1字を書いて奉納したもので、清盛は、大輪田泊の改修工事を行った際も、一字一石経を海に沈めて、港の普請の成功を祈ったのでしたね。
で、この燈籠の下の方に見える文字...これがまさに清盛公が800年前に彫りつけたものなんだ!と、胸が熱くなった私ですが・・・この石灯籠は後世のもの、とも書いてありますので、いまいちよくわからないのです。でもともかく、素朴な石塔ながらも、清盛の祈りが強く伝わってくるのです。
この清盛塚のことは、事前に『平清盛』を引き続き楽しむ集い掲示板の常連さんsswさんから教えていただいていて、こちらのサイトなど見て下調べをしておいたので、すぐに見つけることができましたが、そうでなければ、きっとわからなかったと思うくらい、本当にひっそりとした一区画です(入口の石段のところには案内板もないので、よほど注意していないと見逃しそうなのです・・・『平清盛』放送期間は案内板があったそうですね)。
この丘からは、眼下遠くに社殿と大鳥居が見えますが、そちらの賑わいと比べると、ほとんど訪れる人もまばら。しかし、こういう素朴な石であっても、重要な歴史の証人であることは間違いありません。
歴史の証人といえば、、、こんな凄いものも発見!あの後白河法皇お手植の松の木です!
『平清盛』40回「はかなき歌」でもクローズアップされた通り、1174年、清盛が先導して、後白河法皇と滋子を宋船に乗せて、厳島への参詣に招待しました。 すっかり空洞になり、枯れ果ててはいますが、800年の時をこえて、こうして遺木として大切に保存されている・・・これこそ、清盛と後白河との間に確かに蜜月時期があった証拠です。
一見、単なる残骸なので、立ち止まる人も少ないです。私の前を歩いていたリッチな感じのご夫婦の奥さんが「なあにこれ、、、松だって。。」と怪訝そうに一瞥をくれて、行ってしまいました・・・これはもちろんガイドブックにも載っていませんし、私も神社裏手の道を歩いていて、偶然見つけたのですから、、、というか偶然とはいえ、これも平家一門のお引き合わせだと思いましたね。。。
ちなみに、、、、別の箇所には、重盛お手植えの遺木というのもあるのだそうで、『平清盛』集い掲示板のまた別の常連さん(インコさん)が実際に行って撮影されたのがこの写真。
インコさんの解説によれば、、、「重盛公お手植えの松は、厳島神社の西側にある「大願寺」というお寺の境内(だったかな?)にありました。私は松の写真だけドーンと撮って、看板などすっかり撮るのを忘れておりました。もう倒れてしまった松だけど、こうして大切にされているのって素敵だなと思って撮りました。」 これもまたガイドブックに乗らないスポットですが、インコさんよくぞ残してくださいました!
それにしても、、重盛遺木がこのように何にも入れられずお行儀よくしているのに比べて、後白河のは、檻にきっちり入れられて鍵までかかっていて、まるで猛獣扱いですね!皆が寝静まった夜に、この木が後白河そのものに化けて檻から抜け出し、「遊びをぉ~~せんとやぁ~~ケラケラケラ!」とか歌いながら、のっしのっしと廻廊を歩いているのではないでしょうか。
立ち止まる人も少ないといえば、、、これもそうでしょう。「二位殿燈籠」です。安徳天皇を抱いて入水した二位の尼のご遺体が、壇の浦から流れてきて、この浜辺(有の浦)に打ち上げられたという伝説があり、彼女を弔うため後世に建てられた石灯籠です。背後に大鳥居を眺め、見守るように建っています。
こちらの記事に書いたように、二位の尼のお墓は一門とともに下関の赤間神宮にあります、ここに漂着した御遺体を、一人ぼっちでは寂しいだろうと最終的には下関に埋葬したと考えることができないでしょうか。
この燈籠は、清盛塚や後白河遺木と比べると、ずいぶん人目につく位置にあるのですが、それにも拘わらず、手を合わせる人は勿論、立ち止まる人すら殆どいないのです。
★ 下関と宮島、どちらかといえば・・・
旅行の目的は、人それぞれです。宮島に世界中から集まる人々の大半が、大鳥居と社殿の美しさを堪能することや、弥山のハイキングや、商店街でのグルメ三昧や、あるいは秀吉公ゆかりの神社とか五重塔とかの見学などがメインの目的であっても、勿論それはそれで良いのです。
ですが・・・修学旅行の生徒さんたちは夜になってもあちこちではしゃいでいるし、私が廻廊を厳かな気持ちで歩いていると、後ろできゃあああ!!と奇声をあげて笑うギャル集団があったり、桟橋では、お酒が入っているらしいお兄さんたちが騒いでいるし・・・・いかにも物見遊山観光地と化している現代の宮島を、もし平家一門が見たならば・・・・苦笑するかもしれませんね?!まあ、宮島は平家が最も栄華を謳歌した時代の象徴ですから、この平和さ、豊かさが似合っているということでしょうか。
(私が泊まった「錦水館」の前の通りも、修学旅行生がしょっちゅう通っていました。)
それに対して、下関は、一門没落と滅亡の地。観光客も宮島ほど多くはないですし、静かでした。どこへ行っても何かしら胸にきゅんと迫るものがあり、私はどちらかというと下関の方が好きでしたし、どちらも1泊しかしていないのに、下関の方が何倍もの時間を過ごしたような気がしています。
と言いながらも、お土産はやっぱり宮島の方のが断然多いのですけどねっ・・・
もみまん(カスタードクリームあんが一番好き)、ホテルでサービスの宮島天然水、社殿で売っている大鳥居クリアファイル、因島のはっさくゼリー、大鳥居がプリントされたてぬぐい、お香。
可愛い風呂敷。これは栗と恵へのお土産です。
じゃーん!清盛の日招き扇じゃあ!(弥山の獅子岩駅売店でゲット~)
まだまだありますが、このへんにしときましょう。
以上で、旅行記はおしまいといたします。毎回の長い記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。
なお、今回、平家と厳島との関わりの歴史も語るつもりだったのですが、
それについては、慎重にリサーチ中ですので、また独立した記事として後日じっくり書きます。
恵家は、11日から16日まで帰省です。皆様もどうぞ有意義なお盆休みをお過ごしください。