波佐見の狆

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高倉帝や源頼政の気持ちを考える(45回)

2012-11-19 16:44:07 | 平清盛ほか歴史関連

第45回「以仁王の令旨」。あらすじ、ダイジェストムービーなどはこちら

前の記事でお知らせしたとおり、さっそく出ましたね・・・・

「ここは、わしの世じゃ・・・・・・!」

老醜、老猾、老獪・・・ううーー怖いですねぇ~~ 清盛の強欲じじぃへの変貌ぶりについては、あちこちのブログにありますので、ここでは、別の視点から、清盛を取り巻く人々の人間模様を書いてみたいと思います。

今回のストーリーも、『新・平家物語』との違いが面白いのです!!

以下3つのポイントに絞って、『平清盛』と『新・平家物語』を対比させてみます。新平家の記述中イタリックの部分は、吉川英治氏の言葉そのままの箇所を表します。

1.高倉帝の譲位と厳島御幸は、誰の考えだったのか(注1)。

『平清盛』

清盛は、20歳の高倉帝に譲位させ、わずか3歳の我が孫言仁を、安徳天皇として即位させることに成功します。さらに、高倉上皇の厳島参詣計画を進めますが、これも慣例を破る異例のことだったため(帝の退位直後の参詣先としては、賀茂、八幡、春日、あるいは叡山と決まっていた。)。寺社勢力などの反発を招きますが、清盛はゴリ押しします。つまり、譲位も厳島御幸も、清盛が朝廷に圧力をかけて高倉帝に無理やり?させたことであり、高倉帝は自分の考えもなく、清盛の人形のようになってしまって黙って従うしかないのです

『新・平家物語』

譲位も厳島御幸も、高倉帝自身の希望で行われました。そしてその理由が・・・高倉帝は、父後白河と舅清盛との間の板挟みになり、なんとかして仲直りしてほしいと願っていたから、というのです!つまり、自分が早く言仁に譲位したり、わざわざ厳島に御幸することで、清盛が喜び心を和ませてくれれば、後白河に対する感情も変えてくれるのではないか・・・そして二人が円満な関係に戻れば、世の平和につながるだろうと、そこまで願っていたのです。

しかも新院の御誠意は、ただ神にそれを頼むというだけのことではなかった。神に参前に、人事を尽くしておいでになった。親たちの争いをなだめようとするいじらしい人間の子の努力に、第一夜から心を砕いておられた」(『新・平家物語』(七)「幽宮訪鶯記」pp.36-37)

「第一夜」というのは。。。。厳島への旅程の一日目として、高倉上皇は西八条に一泊して、清盛夫妻と「いと睦まじげに」過ごします。そしてその夜の明け方、清盛にひどく気兼ねしながら、鳥羽離宮へ行って後白河と会い、親子の時間を持ちます。

→ 『平清盛』では、老猾な清盛に利用されるだけの若い天皇という感じですが、『新・平家物語』では、高倉帝がどんなに心優しく高潔な人物だったかということを随所で力説している感じです。そして、そういう高倉帝を清盛も尊敬しており、2人はいい感じなのです。高倉帝は、後白河と清盛がうまく行くことを願っていた母滋子の優しいこころを、そのまま受け継いでいたのですね。

2.宗盛は、源仲綱の愛馬をどうしたのか。

 『平清盛』

源頼政の子、仲綱が、自慢の名馬「木下」(このした)を連れて、宗盛の館での宴に参加するためやって来ます。宗盛は、木下を欲しくなり、貸せというのですが、仲綱は命より大事な愛馬だからといって断ります。むっとした宗盛は、「私に逆ろうてただで済むと思うてか!」と言って仲綱の肩を押さえつけ、結局木下を横取りして、返しませんでした。

仲綱は、木下が「仲綱」という名に変えられ、その尻に「仲綱」という焼印まで押されるという、ひどい辱めを受けている・・・・と、激しい怒りと悲しみを父頼政にぶつけます。頼政は、平家に逆らってはこの世では生きていけないのだから、ひたすらこらえるように言いますが、彼の心にも平家に対する離反の気持ちがふつふつと湧てくるのです。そしてこれが以仁王とともに反乱を起こす大きなきっかけとなります。

→ ひどい話ではありませんか!しかも、このシーンは、宗盛が、宴三昧で早くもおバカ棟梁ぶりを露呈し始めたところの後に入れられているので、 平家崩壊の一つの大きな原因が、宗盛のリーダーシップのなさと貧しい人間性にあったことを痛感させられるわけです・・・

ところで、このシーンの直前に挿入されている、宗盛の息子清宗が、壊れた竹馬の切れ端をみつけて宗盛に持ってきて、直してくれないかと頼むシーンに胸締め付けられました。それは、保元の乱で、一門を守るため死罪が決まった大叔父忠正が、宗盛(清三郎)のために作ってくれていた竹馬でした。清宗とちょうど同じ年頃(11歳)だった宗盛は、年齢の割には子供っぽくて、大叔父がどうなろうとしているか意味もわからずにいました。そのことを思い出し、懐かしむどころか、顔をゆがめてその壊れた竹馬から逃げるようにその場を立ち去る宗盛の心中は??一門のためなら進んで命をも差し出す大叔父らの血によって築き上げられたこの巨大な一門を背負うことの重荷に、すでに押しつぶされそうになっている自分に気づいたのか?あるいは、この竹馬は、宗盛親子がいずれ、大叔父のように斬首されるという運命にあることを示唆する伏線なのでしょうか。

『新・平家物語』 

仲綱の木下(ただし、こちらでは「木の下」)に宗盛が目をつけるのは同じです。しかし、顛末はちょっと異なっていて、けっこう笑えます。おおよそ次の通り。

宗盛が「一度見せてもらえないか」と仲綱の館に家来をよこすので、いったんは「この頃痩せてきたので、伊豆へ放牧にやっていている。」と嘘をついてごまかしたが、しつこく来て、「まだ伊豆から戻らないのか?」とニヤニヤするので、とうとう、家来に木の下を引かせて宗盛の館に届けさせた。なかなか返してくれず、家来達が、「木の下を仲綱と呼んで辱めているらしい。」と言う。やっと返してもらうと、よほど荒っぽい扱いを受けたとみえ、毛艶が悪く、尻毛が焼かれその痕が「なかつな」と読める。仲綱は、「おぼえておれーー」と、湯のような涙をためて、六波羅方面を睨んだ。

そこへ頼政が飛んできて、われら親子が六波羅からどんなに恩義を受けているかを思えば、馬一匹がなんだ。そんなに宗盛殿がご所望なら、なぜすぐに差し上げなかったのだ、とひどく仲綱を叱りつけ、宗盛に会いに行き仲綱の吝嗇を詫びた(注2)。ところが、宗盛は、家来がすぐに返したと思い込んでいたため、驚き、「家来どもの悪戯であろう。いや、人の迷惑などものともせぬ物好きな武者どもには困るぞよ。戦もなくて、退屈なまま、悪遊びのみいたしおってのう」と大いに笑い、「悪く思うな」と頼政をもてなして、帰したほどだった

→ 少なくとも、以仁王と反乱を引きおこすきっかけになるほどの、深刻なエピソードではありませんね。『新・平家物語』では、今のところ(私が今読んでいる第七巻の途中までの時点では)、宗盛の愚劣さ高慢さを表す描写は特にありません。上記『平清盛』での木の下に関する宗盛の言動は、『(古典)平家物語』とおおよそ同じだそうで、この頃の平家の驕り高ぶりの象徴として必要だったのでしょう。

3.頼政は、八条院子にたきつけられて、以仁王に協力?

『平清盛』

後白河の第三皇子でありながら、大変不遇な身の上で、平家のためにさらに絶望的な状況に落とされてしまった以仁王。そして、鳥羽院と美福門院の皇女(後白河の異母妹)で、やんごとなき血筋でありながら、光があたらず面白くない八条院子。彼女は頼政を呼び出し、以仁王を救いたいので、平家を打倒しようともちかけます(つまり、安徳帝を退けて以仁王を即位させようということ)。77歳という高齢の頼政は、余生を心穏やかに暮らしたいといって、あっさり断ります。「いずれあの世で義朝様にお目通りがかないましたら、そこで改めてこの首、刎ねていただくつもりでござります。」八条院の「買いかぶっておったようじゃの。源氏の魂とやらを」という侮蔑の言葉を甘んじて受け引き下がりますが、結局その後すぐに仲綱とともに、八条院と以仁王のもとに戻ります。以仁王は、八条院に言われるまま平家追討の令旨を書きます(注3)。

令旨の文言が読み上げられるとき、音楽は「アクアタルカス」でしたねーーー!

『新・平家物語』

こちらでは、以仁王を説得して反乱を企てたのは、あくまで頼政であり、八条院の関与については触れていません。その代り、頼政がなぜ77歳の今になって、このような重大な謀反の張本人になるという大それた行動に出たのか、という点について、深く掘り下げています。つまり・・・清盛に大変優遇され、本当に恩義を感じているが、平家の犬としてひたすら耐えるのみの人生だった。そういう生涯もそろそろ終わりに近づいていることを考えると、やはり自分は源氏の人間として死にたいと思う。平治の乱でこぼれ落ちた種が芽吹き、若葉が育とうとしている今、それを助け新しい時代につなぐことで、自分も最期に一花咲かせたい、そういう結論に至ったのです。

平家二十年。春は熟れきった。人生七十七年。わしも生き過ぎたといえるほど生きた。若葉せずにいられぬ木々の芽は催促しておる。季節は来た。もうそろそろよいぞと」 ・・・『新・平家物語』は、美しい日本語が満ちています。

大恩ある清盛に反旗を翻すことについては、本当に葛藤する頼政です(注4)。

ああいう寛大と温かい心の持ち主を、人生七十七年のうちで頼政は知らないほどである。『もし頼政が、武門の人間でないならば。そして、源氏の系統でないならば・・・・ああ、わしは歌詠みの頼政法師として死ねたであろうに』と、心から思う。あんな抜け目だらけの、寛大の度も超えた好人物である入道殿にどうして弓が弾けようか。本来叛けるものではない。それを自分は、かれの弱点とみすかし、能うかぎり利用してきた。(中略)もし人を善悪二色に分けるならば、まちがいなく、あのおひとは善。わしは悪。」

アマゾンのレビューにも、吉川英治氏は、相当の清盛びいきだったのでは、と書いている人がいましたが・・・清盛好きだからというより、もっと大きな人間愛のようなものが、 この作品全体に感じられます。それが吉川平家の世界観なのでしょう。

清盛は、義朝から離反してきた頼政を無条件に温かく迎え入れました。そして、伊豆の領地を頼政に与え、子の仲綱までをも伊豆守として登用して、頼朝ら東国の源氏の監視役を頼政一族に任せたことだけでも、清盛が頼政をいかに信頼していたかがわかります。頼政は、そういう清盛の前でずっと仮面をかぶっていた自分を、ひどい人間だと責めながらも、死ぬときはやはり源氏の人間でありたい、さらに言えば、源氏の人間として自らの人生に幕を下ろしたい、という気持ちを貫いたのですね。

以仁王と頼政の決死の反乱は、あっけなく平家に鎮圧され、頼政一族は自害して果てますが、その成果は大きかったのです。そのあたりは次回へ・・・。

注1)「御幸」(みゆき): 天皇が外出すること。「行幸」(ぎょうこう、みゆき)ともいい、目的地が複数ある場合は巡幸という。(Wikipediaより)

注2)「吝嗇」(りんしょく): [名・形動]ひどく物惜しみをすること。また、そのさま。けち。「―な人」 (Yahoo辞書より)

注3)令旨(りょうじ): 皇太子ら皇族により出される命令書のこと。天皇の命令書は、宣旨・綸旨(りんじ)、上皇または法皇の命令書は、院宣という。(『経営者・平清盛の失敗』p.127より)

注4)頼政は、「三位」(さんみ、さんい)という大変高い位(すなわち公卿の地位)を、清盛の推挙により手に入れたのですが、源氏で三位まで昇ったのは彼だけでした。

 


とことん悪そして救いが(44回)

2012-11-16 12:58:26 | 平清盛ほか歴史関連

後白河が、初めてこのドラマに出てきたのは、第9回「ふたりのはみ出し者」でした。彼(当時は雅仁親王)は、まだ北面の武士にすぎなかった清盛と初めて出会った夜、さっそく双六の相手をさせるのですが、そこに、たまたま2歳になったばかりのあどけない重盛(清太)がよちよちとやってきます。自分が勝ったらこの子をもらうと言う雅仁の威圧的な態度・・・緊張のあまり負けそうになる清盛の横で、清太が手を出し、コロコロ・・・・その結果清盛側の勝ちとなりますが、雅仁は逆上して清太を睨み付け、清太めがけて双六盤を投げつけようとします。清盛は清太を体でかばい、宋剣を抜き、雅仁よりさらに恐ろしい形相になりこう言うのでした。

「清太を傷つけることだけは、おやめくださりませ!勝った者の願いはきっと聞き届けるとのお約束です。この先、清太に害なそうとされることあらば、雅仁様のお命、ちょうだいつかまつる!」

これを見ていた時から、私は何か清太の将来に向けての重要な伏線のような気がしていたのですが・・・・やっぱり!40年にわたる大きな伏線の回収だったことが、今回で判明しましたね。

瀕死の重盛をいたぶり、賽を振らせようとする後白河の冷酷さ、狂気は、9回で清太を傷つけようとしたときとなんら変わりません。そしてそれは、清盛を怒らせるためですが、平家一門の団結、清盛の家族愛、とりわけ、重盛と清盛の親子の絆の強さが、後白河にはとても妬ましく、重盛が清盛に深く愛されていることがわかるからこそ、「そちはひとりで生き、ひとりで死んでいくのじゃ!」などと叫んでしまう・・・・あるいはそれは、自分自身に向けてつきつけていたのか・・・後白河の屈折した孤独がにじみ出ていたように思います。

そして、清盛も、40年前剣を抜いたときと同じように、目の前の後白河を殺してやりたい、せめて殴りつけ、蹴りつけてやりたい、という気持ちが沸き起こったでしょう。しかしそれもできずに、「立ち去れ!」と命令口調で叫ぶのがやっと・・・

このときじっとこらえた怒りは、重盛の遺領を後白河が勝手に没収してしまったことで、遂に爆発。治承3年(1179)、後白河を本当に幽閉し院政を停止して全面的に実権を掌握。ついに後白河との双六に勝ったぞ!と思ったのです(ところがどっこいですけどね)。

有頂天になる清盛の前に、ふうっと祇園女御が現れ、「いかがにござりますか?そこからの眺めは・・・」 おそらく、このとき彼女はすでに亡くなっていて、その魂が現れたということでしょう。清盛が白河院と同じようになりはしないかと、心から案じていたから・・・。

実際、これから清盛は、白河院の言っていた「ここはわしの世じゃ!」という言葉を発するようになり、ますますダークになっていくそうです!『平清盛』の時代考証を担当している本郷和人氏が、BSフジ「世界の正義(ジャスティス)を探求するテレビ」というトーク番組中で、かなり興奮気味に次のように話していたのです・・・

藤本有紀さんは、清盛の悪という問題を徹底して描くことに大変こだわっていて、「ここはわしの世じゃ!」という清盛は、まさに白河院の悪の権化のような相貌をそのまま引き受ける。今後5回における悪魔堕ちとも言える清盛の変貌ぶりは大変なもの。8時のお茶の間のヒーローである大河の主人公がここまで悪に染まるというのは画期的である。批判も受けるのは覚悟のうえで、藤本さんも制作スタッフも敢えて挑戦をしている。権力者になっていけば、正義の味方でいられなくて、善と悪両面を併せ持つ人物として描いてこそリアリティがある。そして、最期に清盛にある救いがもたらされ、初回からの「俺は一体誰なんだーーー」という問いに対する答えを彼はみつける。」(おおよそ本郷氏の言葉通りです。)

えええっ・・・・!!そんな恐ろしい展開に???!!!

私は、だいたい藤本脚本の狙いは、『(古典)平家物語』などで驕る暴君として描かれてきた清盛を、実はいい人だったんだよーーー、と伝えることにあると、思い込んでいたのです・・・・しかし、そういうレベルのことではなかったのですね・・・・!!! もしかしたら古典平家を上回る悪人ぶりになるのかもしれませんね。

ということは、吉川英治『新・平家物語』の清盛像のほうは、ずっと「善」、さらに言えば「脆さ」の面に光を当てたものと言えますか?

たとえば、治承3年のクーデターのことに話を戻します。『平清盛』中では、清盛の上洛から後白河の鳥羽離宮入りまでナレーションでさらりと進めてしまっていましたが、『新・平家物語』のほうでは、このあたりも細かく描かれていて、清盛のこのときの様子が『平清盛』とは大きく違います・・・

清盛は、3千の軍勢を自ら率いて上洛し、京中は騒然となったが、彼はすぐには動こうとせず、しばらく不気味な沈黙が続いた。それで、後白河は、「私は常に国を憂い、相国を頼みとしているのに、みだりに鎧甲冑の軍平を率いて世を騒がすとは、どういうことか。望みがあるなら書状を送れ。」という趣旨の勅諚を清盛に届けた。その際、勅使となったのが、信西の子である静憲法印。ところが、西八条に着くと長時間待たされて膝が痛くなり腹が立ってきたので、父信西が生きていたらこんな非礼は受けまいぞ、と聞こえよがしに嫌味?!を言って帰ろうとすると、知盛が出てきて慇懃に詫び、だいたい次のようなことを言います。

父も老衰をきたしており、福原から寒い中長時間馬や輿に揺られて体を損ねたようで、今日は終日薬湯よ灸治よと、暮れていた次第で。」  

これは意外!決して清盛が後白河側を油断させる作戦として知盛に言わせているのではありません!本当にこの頃既に彼は相当に老化が進み、心身に変化が起きていたと言うのです。法皇を武力で鎮圧しようと勇んで福原からやってきたものの、みんなちょっと待ってくれんかーー体が痛うてのぉ・・お灸をしなくちゃ動けなんだ~~ぜいぜい~とか言っている、ちびまる子ちゃんの友蔵おじいちゃんみたいな清盛は、可愛いですね。でも、そういう普通の老人としての清盛はちょっと想像したくないような

宗盛を遣わして、後白河を連行し鳥羽離宮に遷すのは『平清盛』と同じですが、遷したあと、なんと清盛は良心の呵責に苦しみ始めるのです。「法皇を幽閉し給わったという行為に、かれの良心はやはり咎められずにはいなかった。どういう理由を持ち、どういう、正しさを自信してみても、寝覚めの悪さが打ち消せない。人臣としてこのうえない不忠、暴挙を犯してしまったという罪悪感がぬぐいえないのである。(中略)かれは弱いのである」(『新・平家物語』(七)「炎」p.12) 

いくら老化が進んできたとはいえ、こんな脆い清盛は、やっぱりいやです・・・白河院そっくりになろうが悪魔堕ちしようが、どこまでも自信たっぷり、負けず嫌いの強いたくましい清盛のほうがいいです!

31回で、後白河が我が子二条帝の葬儀で乱行におよんだとき、大勢の前で「あなたさまは手のかかる厄介な赤子。赤子にこの国を託すわけにはゆかぬ!」と一喝した清盛。

41回で、明雲が、後白河は平家の力をそごうとしている、と言ったとき、「われらの力をそごうなどとは、片腹痛いわ!」と、かんらからから~~~と笑ったときの清盛。

ずっとそんな強い清盛を見続けたい。

遂に後白河に勝ったと思ったとたん堕ちていこうと、罪悪感なんて彼には似合わないような気がします。

はい、覚悟はできました・・・・藤本さん、とことんやってください!!!

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

 

 

 

 

 

 

 


重盛の忠孝美談は、史実にあらず?!(43回)

2012-11-06 13:50:53 | 平清盛ほか歴史関連

清盛は、鹿ケ谷の関係者をことごとく厳しく断罪し、死罪または流罪にしたわけですが、肝心の後白河だけは処分をしなかったのが気になり、「また誰かがいらぬことを法皇様に吹き込むといけないから」という理由(名目?)で、後白河を武力で六波羅に幽閉しようと考えます。ところが・・・修羅の道を突き進む父の暴走に付いていけなくなっている重盛が、涙ながらにこれを諌めます。

「法皇様に忠義を尽くそうとすれば、須弥山の頂よりもなお高き父上の恩をたちまち忘れることになります。痛ましきかな。父上への不孝から逃れんとすれば、海よりも深き慈悲をくだされた法皇様への不忠となります。ああ。忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず。進退これきわまれり。」「かくなるうえはーーーこの重盛が首を召され候え・・・!さすれば御所を攻め奉る父上のお供もできず、法皇様をお守りする事もできますまい。」(ノベライズ本より転載)

(はぁ・・・格調高い文語日本語のお手本ですね・・・・)

重盛さん、おおーん、おおーーんと大泣きで、もうボロボロ。。。

あちこちのブログや「みんなの感想」でも、あっぱれ重盛(そして窪田さんの歴史的名演)とやんやの拍手喝采のようです。

私も、もちろん、涙、涙。。。そして「この重盛の一途な忠義・こそが、後白河のつけいる隙であった」とのナレーション。来週の予告では、今度は後白河が清盛を抑えるために重盛を追い詰め、遂に重盛が潰れてしまうようです・・・哀れ重盛!!!そして、一門は滅亡へ真っ逆さま!!!

・・・・とまあ、このドラマとしてはそれでいいのですが・・・・私は、涙ながらに43回の録画を見たのは、最初だけで、今はもうすっかり醒めてしまい、大泣き重盛さんの向こうに映る皆の表情を観察したりしてしまうのです。宗盛なんて、もろに「うへーーー!!」という顔をしています。盛国さんはいつもながら感情を押し殺しまっすぐに見つめていますが、おおっ、彼の鎧着姿を初めて見たっ!カッコいいーー。保元平治の乱でも出陣せず留守番組だったし、これからもずっと彼は事務方専門?なのかなと思っていたので、武士盛国が見られてなんだかうれしい。。

で・・・私がすぐ醒めたというのはですね、、、ちょうど吉川英治『新・平家物語』の鹿ケ谷のあたりを読んでいまして、こちらにおける重盛の人物像が、本作『平清盛』のそれとはかなり異なっているのを知ったからなのですが・・・そして、大変興味深いことに、この、清盛が鹿ケ谷の直後に後白河を幽閉しようと企てた、ということも、それからそのように暴走する父を重盛が諌めた、という事も、『平家物語』における単なる創作であり、史実ではなかったと、吉川氏は力説しています。

もちろん、『(古典)平家物語』、『新・平家物語』、『平清盛』のそれぞれで解釈が異なっているのは当然ですし(異なっているからこそ、面白いのだし)、ましてや、このブログの記事は、史実との違いを指摘することが目的ではないのですが・・・吉川氏の考えに、へーーそうなんだーーと驚いてしまったもので、ちょっと書きたくなりました。

つまりですね、『(古典)平家物語』こそ、われわれが従来持ってきた、驕る暴君としての清盛のイメージを定着させた作品であると。その中でも、鹿ケ谷直後の後白河幽閉計画と、それを諌める重盛の部分(「教訓」という章段です)は、そういうイメージが強く表れている話のうちのひとつであり、重盛の忠孝二道の苦衷は美談として語り継がれているが、それはそれで佳いお話ではあっても、真の清盛・重盛親子ではない・・・・と。

以下吉川氏の文章を少しだけそのまま転載させていただきます。(『新・平家物語』(五)「教訓」の事より) 

「教訓」のくだりは、以前から学会に否定説があるにはあった。しかし、国民教育の視点から、「そのままにしておいたほうが」という倫理観に支持されてきたのである。だが、今日ではもう教育の資料にもならない。まして、史実でないものをである。可能な限り、真実をさぐり、正しく書き、正しい清盛と重盛の対比を見、父は父なりに、子は子なりに見直すべきでないか。」

「常識からいっても、一族列座の中で、自分ひとりが古今の学や道徳を能弁にほこり立て、父親の清盛があぶら汗を流すまでぎゅうぎゅう締めつけたりしたなどとは考えられない。そんな高慢くさい親不孝者が、どうして、忠臣孝子の代表みたいに讃えられてきたのか、ふしぎである。これでは、重盛がかわいそうだ。清盛にはなお気のどくである。」

そして、幽閉計画自体が、なかった、という根拠として、九条兼実「玉葉」などの公卿日記に、そういうことが書かれておらず、むしろ、「事件(鹿ケ谷のこと)以来、院中の奉仕者がみな難を恐れ、たれも御所へ出仕しない。清盛はそれを聞いて大いに怒った。」という趣旨のことが記されているそうです!実際清盛は、鎧着で後白河に一人で会いに行ったのですが、それは2人の腹を割った話し合いで、後白河はそれでむしろほっとしたのではないか、と吉川氏は言っています。

まあ、吉川氏がここまで、『(古典)平家物語』のスタンスを非難するには、それなりの理由があります。『(古典)平家物語』では、重盛の諫言の態度と内容がもっと、長くしつこくて、諌めたというより、さんざん説教をして叱りつけたのです。だいたい太政大臣にまでなり、出家した身でありながら、鎧甲冑を着るとはなにごとですか、恥知らずな・・仏教においてだけでなく儒教においても法に背くことで、、、聖徳太子の17条の憲法には、自分の過失を顧みて慎め、、、と書いてあるではないですか・・・・とえんえんと父をやりこめたようです。(詳細はこちらのサイトなどで読めます。)重盛がやってきた時点で、清盛は、またこの出来すぎた長男に小言を言われそうだとびくびくして?鎧をあわてて隠そうと上から法衣をまとったものの、下から鎧がチラ見えしているのであわてた、という描写も有名らしいですね。

『平清盛』44回の予告編を見る限り、今回の大河では、重盛があまりに一途で、父への孝行と同じくらい強く後白河に純粋な忠義心をいだいていたことが、裏目に出た、ということを強調するために、この43回で幽閉計画と涙の諫言シーンが必要だったと思われます。ですから、こちらでは、上記の『(古典)平家物語』のような、上から目線のお説教ではなくて、あくまで命がけの懇願として描いたのでしょう。

もしかして・・・後白河が乙前を見舞った際、ふともらした「わしにはまだ手駒がある」というのは・・・・重盛のことではないでしょうね??!!

 追記) 私がにわか勉強による無知のため、混乱していたのですが・・・今回のドラマ中における重盛の言葉「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」うんぬんは、『(古典)平家物語』にある言葉ではなく、瀬山陽『日本外史』中のもの(もちろん創作)だそうですね。ともかく、『(古典)平家物語』には彼がそのように父孝行の気持ちと法皇への忠義のはざまで自分を責める、という表現はなく、ともかく徹底的に清盛を批判して説教する場面なのです。だから、吉川氏が上記のような指摘をしたのですね。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Aquatarkus(アクアタルカス)(42回)

2012-11-02 11:16:18 | 平清盛ほか歴史関連

これまで『平清盛』に使われてきたTarkusの楽章は、第1楽章のEruption(「噴火」)と、第5楽章のManticore(「マンティコア」)でしたが、今回第42話「鹿ケ谷の陰謀」では、あらたに第7楽章Aquatarkus(「アクアタルカス」)が鳴りましたよーーーー!!

TarkusにAquaという接頭辞がついているのは・・・・この楽章は、タルカスが陸での戦いをやめて水(海)に戻るさまを表しているからです。こちらの記事でもお話したように、タルカスは地球上のすべてを破壊尽くした後、マンティコアの尾尻の毒針で目を突かれ、すごすごと海へ帰っていきます。

ただし!それは、タルカスが海へ戻って死んでしまうということではありません。タルカスのズン、ズン、という足音を表す行進曲調のシンセサイザーとドラムがフェードアウトしたあとに、ジャーーーン!とドラの音が鳴り響き、再びとてもパワフルなシンセサイザーが聞こえてくるとおり、タルカスは海に沈んでも、またよみがえるのです!!

ともかく、聴いてください。

まずは、ELPのオリジナルから。

Emerson, Lake & Palmer - Tarkus Medley (Part 2)

後半1/3くらいのところから始まります。6:20あたりにカーソルを合わせてみてください。)

次に、ドラマ中に流れた吉松氏オーケストラバージョン。

3曲目:吉松隆(編) 『TARKUS(Orch. ver.)』より「Aquatarkus」

さて・・・以前の記事を書いた時点では、私は、マンティコアは源氏を象徴するものと捉え、この毒針の一撃というのは、頼朝の挙兵のイメージと考えていたわけです。今回42話では、また別のイメージを膨らませました。

というのも、、、、この曲が流れてきたのが、清盛が西光を鬼畜のごとく蹴りつけ、自分もふらふらになり、斬首を言い渡したところだったからです。西光に突然このような形で反撃されるとは、清盛にとっては予想だにしなかったことでしょう。西光の「そなたの国づくりは志ではない。復讐だからじゃ!」この一言だけでも、清盛にとっては針でいきなり目を刺されるくらいの衝撃となったのですね。おのれを犬と扱う王家への恨みつらみに、突き動かされているだけ。。。うわあーーー言っちゃったねえ・・・・西光さん。。「・・突き動かされているだけ」とまでいえなくとも、今の清盛の中でそういうダークでネガティブな面が沸々としているのは確か。

もし平治の乱で信西が義朝軍に討たれなかったとしても、いずれは、清盛が信西を討つことになっていたであろう、というのは、私もそう思っていました。信西だって、あのときは、自分が頂に立つための画策の一つとして、清盛に叔父を斬らせるという苦悩を与えました。つまり平家を利用していたわけです。平治の乱で清盛が信西を救出していたとしても・・・・あるいは平治の乱そのものが起こらなったと仮定しても、、、いつまでも、清盛と信西が仲良くやるということはできなかったでしょう。少なくとも、信西が後白河の力を使ってのし上がろうとする限りは・・・。

ちなみに、吉川英治『新・平家物語』にももちろん西光が清盛を罵倒するシーンがありますが、ただ、そちらでの西光の論理は『平清盛』に比べるともっと無難??です。もともと貧乏人の忠盛の子せがれで、殿上の交わりを人に嫌われた者の子である平太ごときが、権力を得て、天下を私物化しているくせに・・・という感じで、清盛に「主謀はなんじと成親よな」と問われると「たれでもない。主謀は自然の理だ。平家の専横を憎み、一門栄華の驕りをのろう諸人の怒りこそ主謀よ。」などと言います((五)p.389 「西光斬られ」)。それは至極もっともで品格ある言葉ですが、やはり、「復讐」とまで西光に言わせる藤本脚本の解釈は、衝撃的で心えぐられます。

で、話は『平清盛』に戻ってと・・・ 

西光が引き立てられていった後、その懐から、何かが地面に落ちます。はっとする清盛。

それは・・・信西が大切にしていた算木(そろばんのように使用する計算棒)でした。信西の志の象徴、そして彼そのものの想い出であるこの算木を拾い上げた清盛は、真っ二つに割って投げ捨て、焼き捨てよと命じ、あえぎながら廊下を去って行きます。信西の形見を捨て、愛弟子を処刑することで、信西と決別する清盛。実は、私はこの場面が一番心に響きました。何度も何度も見返しています。

誰かとコラボではダメなのですね。清盛が、自分の思い描く夢(貨幣経済による豊かな国づくり)を実現させるには、彼が最高権力者にならなければならない。同じ地位にほかの誰かがいては邪魔なのですね。ましてや、自分の行く道を遮ろうとする者は、誰であろうと蹴落とさねばならない。一人で歩んでいく決意を新たにしながらも、かつてなかった苦悩が始まり、明日を見失いかける清盛。

ここで大事なことは、彼にとって、決して最高権力者になること自体が目的ではなかったということです。だいたい、王家の犬となり、公卿化するということも、彼にとっては手段でしかなかった。最高権力者となるための手段として、犬となり公卿となった。そして、自らの理想国家を創るための手段として、最高権力者にならなければならなかった。

このことを証明する一つの興味深い例が、こちらの記事でも紹介した『経営者・平清盛の失敗』に書いてありました。

今や後白河に匹敵する権勢を誇っていた清盛が、なぜ自分で貨幣をつくらず、敢えて宋銭という外国貨幣にこだわったのか、という説明の部分です。(p.114) つまり、歴史的に見ても、秀吉や家康のように、時の権力者なら誰しも自ら貨幣を発行することを望むものなのに・・・通貨発行益を得られるし、自らの威信を天下に示すことができるから・・・・清盛はそういうことには興味がなく、宋銭を流通させるメリットに目を向けてひたすら宋銭を輸入し続けた。

それに対して、後白河はやはり、白河院と同じで、権力そのものに執着があったのではないでしょうか。彼も最初は、清盛の日宋貿易を喜んでいたわけですが、清盛の究極の目的が、単に、宋の優れた実用品(薬など)や珍品を輸入して流布させることではなくて、それ以上に国家そのもののを変えることにある、と気付くと、その良し悪しを考える前に、清盛を追い落とそうとするのですからね・・・注1)

ノベライズ本の第四巻、すなわち最終巻が届きました。残すはあと8回。目次を眺めると・・・49回が「双六が終わるとき」となっているのですが・・・これって49回で清盛が死に、そのあとは駆け足で壇ノ浦までということですかね??えーーーー源平合戦もっと見たいよーーー

ところで、清盛感想を書いているブログのなかでも、頼朝と政子のことに全然触れないって、ここだけかもしれませんね?!まあ、その辺まで書いていると延々長くなるからではありますが・・・・今は平家の人々にいっぱい想いを寄せたいのです。

注1)

もっと言うならば、後白河でさえも、清盛が何をしようとしているのかわからないのです。厳島の意匠に象徴されるように横に横に広がる国家というけれど、具体的にどういうことか、思い描けない。後白河としては清盛とコラボを続けたいと思ってはいたわけですが、あくまで自分が上でありたいのに、清盛だけがいつのまにか先へ先へと行ってしまっている。滋子が亡くなったとたんに、そういう鬱憤が爆発したのですね。

清盛の貨幣経済構想は、あまりに時代の先を行き過ぎて(急進的すぎて)、誰にも理解されなかった、というのが真相だったようです。