波佐見の狆

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目が痒すぎ・・・

2015-03-19 08:31:39 | 食べ物・健康

花粉真っただ中ですね・・・花粉症のみなさん、いかがですか?

私はとりわけ目のかゆみがすごくて、掻きすぎで・・・今気づいたんですが、こんどは瞼が赤くなってしまい、ひりひり・・・お化粧もできません。

痛痒いよ~~ 眼科か皮膚科どっちに行けばいいんだろ。眼科が先かな、やっぱり。

いずれにせよ、今日は木曜で休診です。

明日は、乗馬の予約を2鞍入れてるんだけどなぁ・・・

でも早く治さないと、来週はまた水曜から帰省で、大事な仕事があるのです。

大事な仕事というのは、相続の問題。今年から、相続税が大幅に改正され、相続税のかかるボーダーラインが一気に引き下げられているので、庶民でも大変なんですわぁ。大増税時代ですね。

乗馬を1鞍だけにして、午前中眼科に行ったほうがいいかな。やれやれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ぐらんぱ、ありがとう

2015-03-09 16:02:31 | 狆 (栗之介・恵之介・光之介・十兵衛)

僕がぱぱとままの子になって、初めて佐世保のおうちに行ったとき、、、すでにぐらんぱはいなかった。

その半年前に「特養」っていうところに引っ越していたんだって。

そして、、、ついに、ぐらんぱは、お空に引っ越して完全に引退したそうです。2月18日夜のことでした。

今頃は、お空で栗恵兄ちゃんたちと、楽しく遊んでいることでしょう。

ぼく、結局一度も会えなかったけれど、しっかり、ぐらんぱのあったかい心と愛を感じていたよ!

ぐらんぱ~~~~ありがとうね~~~~~!!

以下、ままのお話聞いてやってね・・・・

特養に入所したのが、2013年5月。その前からショートステイをちょくちょく利用していたので、家からいなくなってほぼ2年で亡くなったわけです。

最期は、母すら間に合いませんでしたが、看取ってくれた特養の職員さんらの話により、苦しまず、蝋燭の火が消えるようにすうっと逝ったに違いないと思われました。そのことを裏付けるように、棺の中の父は、とても穏やかで可愛いい顔をしていました。84歳ですから、父なりの人生をしっかり全うし、大往生したと言っていいと思います。

父は、「晴司」(はるし)というのですが、その名のごとく、お通夜の日も葬儀の日も、ポカポカと春のような晴天でした。いつも朗らかでマイペース、人を楽しませるのが大好きだった父らしく、明るく賑やかに見送られていきました。もう何十年も会っていなかった親戚や、初めて会う父の友人などを含め、大勢駆けつけてくださり、うれしかったです。おかげで、それほど悲しみに打ちひしがれずにすみました。むしろ、ぱぱと二人だけでぽつんと、恵之介を送った時の方が悲しみが深かったのではないかと思われました。

というか、すでに2年も前から家にいなかったわけですし、さらにそれより前にもう、父は私のことがわからなくなっていましたから、そういう意味では、私の中で2年以上も前にすでに父との別れは起こっていたと言えます。帰省するたびに、けいこ~~!帰ってきたね~~!!と大喜びで迎えてくれていたのが、、だんだん、無表情になり、恵子と呼んでくれなくなりました。それでも、名前が出てこないだけだろうと思っていました。一人娘の名前すら忘れてしまうなんて、可愛そうに、これが認知症だから仕方がないか、と受け止めることができました。

しかし、それから間もなくして、名前が覚えられないだけでなく、ついに目の前にいるのが自分の娘だと認識すること自体ができなくなっている、とはっきりわかってしまった時の衝撃!!悲しくて寂しくて涙が止まりませんでした(こちらの記事にも書きましたが、病院の待合室で一目もはばからず泣きました)。そのときすでに父は私の手の届かないところに行ってしまったのです。そのころ、恵之介の状態も深刻になっていましたから、私は一気に鬱になり、何もする気になれませんでした。

2013年3月に恵が逝き、5月下旬には父が入所になりました。母も私もあんなに待ち望んでいた入所だったはずなのに...ショートステイ先の特養から「このまま入所になりますので」と、いきなり電話があったとき、喜ぶどころか、茫然としてしまいました。恵も父もいっぺんに連れていかれてしまったようで、私の鬱はマックスだったと思います。8月には義父も逝ってしまい、2013年は、別離の年になると思われましたが・・・

11月に光之介が来てくれて、ようやく私の心の穴も埋まり、特養の父も手厚いケアを受けて穏やかに暮らしていました。入所になったときショックだったのがウソのように、私も母も心から、この特養でお世話になれてありがたいと思い、このまま、この平穏な日々がずっと続きますように、と祈り続けたのです。

最初のうちは、支えがあれば自分で歩けたし、お箸で普通の食事もできました。私のことはわからなくとも、母のことはちゃんと分かっているようでしたから、それだけでも救いでした。その頃、特養内で写した1枚です。

しかし、2014年5月に脳梗塞の発作を起こして以来、どんどん弱っていきました。

胃瘻などの延命処置は一切しないと決めて、そういう書類に印鑑を押して間もなくでした。「そいでよかよか。そいぎんた、さいなら~~」能天気な父らしく、あっけらかんとお空へ昇っていったんですね。。。

棺には、愛用の尺八が1本。

旧国鉄に勤めながら、趣味も結構多彩で、若いころは、ギター。プレスリーに憧れ、佐世保の米軍基地でバンドをやっていたそうですが、バンドを辞めないと母との結婚を認めないと祖父から言われて、しぶしぶ止めたのですって。その後邦楽に転向して尺八を長年やっていて、準師範のお免状も持っていました。いつも民謡教室の伴奏を熱心にやっていました。

あと、水墨画。一度長崎県展で入賞したこともありました。(地元の民間放送局のNBC賞というのをいただいて)

手先が器用で、大工仕事もプロ並みでした。国鉄の後務めた職場の社長さんのために、お盆の精霊船を一人でこさえてあげて、大変喜ばれたりもしていましたっけ。 

認知症になってからも、最初のころは、音楽や手仕事はできていましたから、デイサービス先でハーモニカを吹いて皆さんを楽しませたりもしていたのですが・・・

2008年に発病して以来、進行は予想以上に速かった。

ただ、認知症患者が幸せな点は・・・自分が死ぬということを理解しえないため、死に対する恐怖から解き放たれているということです。

父も、最期の瞬間まで、赤ん坊の無垢な心でいられたに違いありません。

お父さん、ありがとう。お疲れ様でした。

いつもいつも励ましのお言葉をいただきました皆様にも、厚くお礼申し上げます。

やっと書けたね。まま。

ままが、この記事にとりかかったのは1週間前。親を亡くすという、ままの人生にとって初めてのことを綴っておきたいと、書き始めたのですが・・・なかなか進まないみたいだった。「重くなるから、やっぱりやめようか…光くぅん」って言ったよね。でも、ぼくが、ままに、「自分のブログなんだし、、いいじゃん、ぐじぐじ重くなったって!書きたいだけ書いたらいいんじゃない?!」って言ったの。

ちなみに、、、ぼくね、結局10日間も佐世保のおうちにいたんだけど、とってもお利口さんだったんだからぁ~~~ 

みんなが葬儀場に行ってる間は、ちゃんとお留守番してたし。。。

みんながおうちにいるときは、しっかり癒し&笑わせ隊長がんばりましたっ。

誰かドアチャイムを鳴らすと、まずは吠えて、一応番犬のお仕事。でもね、、、お坊さんが見えたときはちゃんとわかっているんだから、吠えないのさ。えらいでしょ。

ぐらんまとすっかり仲良しになって、「光ちゃ~ん、ずっとここにおんなさい。帰らんちゃよかたい」って言われるほど。

トイレだってね、雨の日もあったけどちゃんとお部屋のシーツにできたんだよ。1回だけちょっとばかりシーツから外しちゃったことあったけど、大したことないない。

行き帰りの新幹線では、例によって爆睡。

まま、、、ぼちぼちでいいから、作りかけのぼくのおべべ第二弾、、再開してね。