波佐見の狆

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四十九日・・・

2013-10-10 21:40:16 | Miscellaneous

栗恵のおじぃちゃんの四十九日でまた明日から帰省します。

ぱぱは日曜夕方には戻ってきますが、私は実家にしばらく居て母と過ごし、金曜(18日)に戻ります。

その後。。。。久々に仕事が入っているので、当分ブログの更新はありません。乗馬にも行けないよ~~

来週からやっと秋らしくなるとのこと。がくっと冷え込むかもしれませんので

皆さんもどうぞご自愛のほど・・・

 


「耳なし芳一」再考(後編)

2013-10-06 14:06:07 | 平清盛ほか歴史関連

旅行記のこちらの記事で、下関の赤間神宮が「耳なし芳一」の舞台となったところだと書きました。

平家一門の墓(供養塔)や安徳天皇の御陵のすぐそばに鎮座する、芳一像(木像)の写真もお見せしましたね。

この像は、昔からあったのではなく、昭和に入ってから建立されたものではあるのですが・・・・・・(注1)実際、平家の墓碑群のすぐ脇に芳一像を安置したというのは、極めて意味深いことなのです。というのも・・・芳一が夜な夜な亡霊たちに琵琶を聞かせていた場所、つまり彼が高貴な身分のお方のお屋敷の大広間だと思っていたところが、まさにこの墓碑群の目の前だったのですよ!!

左手の石塀の向こうが安徳天皇御陵です。一門のお墓と隣接しているのですが、天皇陵の方は普段は見えないようになっています。芳一は、御陵の方を向きここに座っていたのです!幼帝をはじめとする一門の人々の魂が、鬼火となって、この天才的琵琶法師を取り囲み演奏に聴き入っていた様子を想像すると、恐ろしいというよりやはり切ない・・・

「赤間神宮」は、もともと「阿弥陀寺」という仏教寺院だったのですが、明治時代初頭に、いわゆる「廃仏毀釈」運動のあおりを受けて、神道の神社へと転換されたという歴史的経緯があります(注2)(「赤間」という名称は、下関が昔「赤間ヶ関」と呼ばれていたことによります)。ともかく、赤間神宮=阿弥陀寺、ということで、『耳なし芳一のはなし』の冒頭を少しみてみましょう。いかにも翻訳調ですが、あえて戸川訳そのままで。

 七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。<中略> その海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。

 平家の人達は以前は今よりも遥かに焦慮(もが)いていた。夜、漕ぎ行く船のほとりに立ち顕れ、それを沈めようとし、また水泳する人をたえず待ち受けていては、それを引きずり込もうとするのである。これ等の死者を慰めるために建立されたのが、すなわち赤間ヶ関の仏教の御寺なる阿彌陀寺であったが、その墓地もまた、それに接して海岸に設けられた。そしてその墓地の内には入水された皇帝と、その歴歴の臣下との名を刻みつけた幾箇かの石碑が立てられ、かつそれ等の人々の霊のために、仏教の法会がそこで整然(ちゃん)と行われていたのである。この寺が建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。しかしそれでもなお引き続いておりおり、怪しい事をするのではあった――彼等が完き平和を得ていなかった事の証拠として。

阿弥陀寺が建立されたのは、壇の浦合戦の6年後でした。また、一門の墓碑は、慶長年間(1600年代にはいるちょっと前)に、太閤秀吉の命により建てられたのです。こうして平家の鎮魂を祈ったものの、完全には静まらなかったということがここまででよくわかりますね。

最後の「彼らが完き平和を得ていなかったことの証拠として」(proving that they had not found the perfect peace. ) という一文はとりわけ強い重みをもっています。ハーンは、そんなに簡単に静まれるほど、平家の無念さは軽いものではなかったのだよ!と言いたかったのです。できるだけインパクトの強い恐ろしい話を描くことで、平家の哀しみをいつまでも伝えたい。語り部ハーンの熱い心を感じます。

そういうハーンの志は、下関市民によりちゃんと引き継がれています。毎年7月15日に、赤間神宮において「耳なし芳一まつり」という供養祭が行われていて、この時は、芳一像をお堂から出し、明るい本殿に座らせ、そしてこの芳一の前で琵琶演奏が奉納され、芳一と平家一門の慰霊が行われるのです。

それから、この慰霊祭に加えて、下関市民が大切に守り続けているのが、「歴史体感紙芝居」です。「耳なし芳一」「壇ノ浦合戦絵巻」「高杉晋作」という3つの紙芝居が、時期をずらして、ボランティアの語り部さんたちによって演じられています。私が下関を訪れた5月は、あいにく「高杉晋作」上演の時期だったため、観られませんでしたが、Nさんが、7月の「耳なし芳一」をビデオ撮影してくださいました。

赤間神宮の駐車場で行われた女性語り部さんによる、圧巻の17分間です!

どうでしょう、語り部さんの、迫真に迫る語り口!武者の足音などの効果音の巧みな演出(何かを叩いて出しておられるようですね)!盛り上げ方が上手いっ~~~!絵がまた良いですねぇ・・・・武者がどくろですよ!! Nさん、どくろのどアップ、かたじけないです!)

この、迎えの武者って・・・誰だと思いますか?私は当初、きっと知盛だと思っていましたが、もしかしたら教経(のりつね)だったかもしれないという思いも湧いてきました。教経は、知盛の従兄弟で、知盛と並ぶ勇将として一門を最期まで率いた人ですが、知盛よりもずっと猛々しく暴れまわって、鬼神のごとく薙刀でばっさばっさと敵を斬り捨て、知盛から「もう勝敗は決まったのだから、あまり罪作りなことはするな」と、たしなめられるほどでした。有名な義経の八艘跳びも、この教経の猛攻から逃げようとしてのことだったと、『(古典)平家物語』に描かれています。語弊があるかもしれませんが、耳をちぎり取る時のすさまじい形相と腕力は、教経のほうが似合うように思うのです。

ところで・・・・平家の怨霊たちを海底より呼び覚ましこれほどまでにも泣かしむる琵琶の名手の弾き語りというのは、どんな感じなのか、聞いてみたいでしょう?!皆さんにそれを聞かせずして、この記事を終われましょうや!

べんべんべんべん・・・・・・・ 素晴らしいビデオめっけ~~~

西原鶴真(にしはらかくしん)さんという女性の琵琶演奏家による「壇ノ浦」ですこちらより公式サイトに入ると、トップの写真の次に、ビデオがアップされていますので、クリックしてみてください(17分ほど)。まだ若い方のようですが、実に味わい深い美声に乗せて掻き鳴らされる薩摩琵琶のなんと力強いことか・・・巧みな撥さばきにより、シュルシュルと矢が飛び交う音、舟が突き進む音、などなど細かく表現されています。しかもこのビデオは撮影方法も素晴らしくて、演奏家の表情や手元が大変クリアに見え、まるで目の前で現代の芳一の弾き語りを見ているようです....難しいことはさておき、雰囲気だけでもこうして味わうことができて、有難いことですね。

 

 注1) 芳一像は、山口県周防市出身の彫刻家押田政夫氏が昭和32年に制作したもの。

注2) 「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)とは、私も清盛掲示板でsswさんから教えていただくまで全然知らなかったのですが、明治新政府の「神仏分離」の方針により、全国的に仏教を徹底して排除する動きが起こり、各地の仏寺が神道の神社に転換させられ大混乱を招いた状況を言います。

 注3) この西原さんの「壇ノ浦」は、YouTubeにウイーン公演の舞台の録画がアップされているのですが、そちらは、遠くから写しているらしく動きがほとんど見えないので、公式サイトのビデオのほうがずっと面白いです。

【お詫び】 「前編」の記事の最後に追記した件ですが・・・

 「開門」をローマ字書きするのに、kaimon ではなくwを入れて、kwaimonとすることで重々しい感じをつけて恐怖感を増した。。と書いたことは、大変恥ずかしながら、私の記憶違いというか、タイトルのkwaidanと一緒に思い込んでいたようです。英語原文を見て気づきました。。。なお、日本語の「開門」をローマ字書きで入れたこと自体は事実でして(それはセツが回想録で語っています)、こちらのアマゾンのレビューに、原文ではpath onと書いてあり、それは「死ぬ」という意味もかけてあるという主旨の発言がありますが、私に負けず劣らず記憶違いをしている人がいる模様・・・・  それとも、別のバージョンの原文があるのでしょうか???