波佐見の狆

A private fansite for Elliot Minor, the Heike, etc.

福岡・下関・宮島の旅(その5)

2013-07-31 16:30:47 | 平清盛ほか歴史関連

5月22日(水)・・・一人旅最後の宿泊地、広島県廿日市市宮島に着いたのは、もう夕方でした。

下関からの接続がスムーズでなくて、広島駅でだいぶ時間のロスがあったからですが・・・・それでも、引き続き天気に恵まれたおかげで、急ぎ足ながらも、満ち潮、引き潮、そして夜の満ち潮時のライトアップと、様々な表情の厳島を一通り楽しむことができ、翌日午後3時ころまで有意義な時間を過ごしました。

さっそく、写真からじゃんじゃんいきますか!

お宿(「錦水館」後述)の玄関口から5分ほど砂浜を歩いていくと、すぐに見えてくる憧れの大鳥居!ああ、ついに厳島にやってきた!と実感する眺めですね。

この大鳥居を右手に見ながらさらに左手に歩いていくと、社殿への入り口へ来ます。ここから拝観料(300円)を払って入場。

 廻廊の途中で、 !!

さてこの世界的にも類をみない海上神殿は、建築様式としては、平安時代の貴族の邸宅に用いられていた「寝殿造り」と言われるものですが、客(まろうど)神社、本殿、高舞台、能舞台などの建築物が廻廊(幅4m、長さ275m)で結ばれ、壁のないオープンな造りのため、大変広々と解放感があり、自然と見事に調和しています。これをデザインした清盛がいかに芸術的、美的センスに優れた人であったかを示すものですね。

なお、『平清盛』では、清盛が、設計図を広げながら、「これまでの公卿方は寺社のしつらえと申せば、上へ上へとのぼる意匠ばかりを凝らしてこられた。されど私はこれを、横へ横へと広げてゆきとう存じます。・・・それが私の思い描く国の姿にござります。」と説明していましたが(33回「清盛、五十の宴」)、そういう彼の志をしみじみ感じながら、私も廻廊を巡りました。注1)

足元の床板は、すべてこんなに2cmの隙間(「目透し」という)が空いています。

私のスマホなど油断するとするりと落っこちてしまいそうですが・・・高潮時に、床板の間から海水を海へ流し戻すことにより、床板に押し上げてくる海水の浮力を弱めるためですね。床板が水圧で浮いてしまわないように、わざと「あそび」を作ったわけです。実際、大潮のときは、lこの隙間から海水が水柱となって吹き出し、床板から10cm以上も海水が上がってきて、回廊全体が冠水するそうです(こちら)。見てみたいものです・・・

さて、、、廻廊を進みながら(なぜか一方通行で、一たん回廊に入ると後戻りはできません)海と反対側の地面に目をやると、こんなスポットが。

中央のホームベース状の岩は、「卒塔婆石」(そとばいし)といわれ、1177年の「鹿ケ谷の陰謀」に関わるものです。後白河法皇を囲んで平家打倒の密談が行われ、西光、藤原成親ら院の側近たちが死罪や流罪になりましたね

あのときの加担者のひとり平判官康頼(たいらのはんがんやすより)が、鬼界島に流されたとき、母恋しさに和歌を千本の卒塔婆に書きつけて流し、そのうちの1枚がこの岩のところまで流れ着き、そのことに気付いたある僧が、都に行って、この話を確か清盛の耳にも入れたのだと思います(すみません、まだにわかリサーチで。)。それで、康頼は放免になったのですね。鬼界が島って・・・鹿児島県沖の離島(今の硫黄島?)ですが・・・よくぞここまで。注2)

じゃーん、干潮時の大鳥居です(翌23日昼ごろ撮影)!海側から、神殿の方を向いて撮ったもの(一人旅人も多いので、みんな互いにシャッター押しあいっこ気軽にします)。

神殿から、200m沖合にそびえるこの巨大な鳥居(高さ16m・・・奈良の大仏と同じくらい)は、実は清盛のデザインではありません。注3) 清盛の時代のものは、もっと簡素なものだったらしく、「大鳥居」と呼ばれる様式になったのは、鎌倉時代でした。それから幾度か台風などで倒壊・焼失に遭い再建が繰り返され、現在の大鳥居は、明治8年(1875年)のものです

海底に固定されているように見えますが、自らの重さ(60t)で自立しているだけで、中央の「本柱」をそれぞれ前後2本の「袖柱」で支えて安定させるという「四脚鳥居」という様式です。

本柱は、こんなにデカい!(平均的な中学生の大きさと見比べてみてください。) 満潮時に浸かるところまで藤壺が沢山くっついています。

 

 鳥居の近くにこんな立て看板が・・・・

確かに、大鳥居より沖合で潮干狩りしている人は何人かいますが、鳥居の内側(神殿側)では誰も。

これはどういうことかというと・・・・古代より、この島そのものが神と崇められていたので、この鳥居は、「俗界」と「神域」との境界を明確に示すと考えられており、鳥居より内側、すなわち神域の物を取ってはならないという意味です。ですから、厳島神社を参拝するのも、側から舟でこの大鳥居をくぐり、神殿に渡るというのが、本来の正式な参拝方法なのです。私みたいに、旅館街のほうからスタスタ歩いてきて、いきなり本殿に入って、鳥居をパチパチ写すというのは、典型的な観光客なのです。

そこで!気持ちばかりの正式な参詣気分を味わう方法があります。それが、屋形舟でのナイトクルージング。ライトアップされた幻想的な大鳥居の中を屋形舟に乗ったまま、海側からくぐっていくのですアクアネット広島というところでやっていて、宿からオプショナルツアーとして予約してくれます。ガイドさんが付いて30分で1500円。日没以降6便出ていて、7:55からの第4便に乗ってみましたが、ちょうど満潮で、真っ暗な海のうえに浮かぶ朱の大鳥居のなんと神秘的なこと!

私の写真ではイマイチなので、屋形舟が進む感じをこちらの動画で見てみてください。

[Full HD]厳島神社大鳥居をくぐる船2

こちらの広島県制作のビデオの冒頭では、昼間の大鳥居くぐりの感じがわかります。

[美しき日本] 広島 厳島神社

お宿のことですが、厳島界隈で、一人旅でも受け入れてくれるところが、「錦水館」というところしかなくて、選択の余地がなかったのですが、なかなかよかったです。桟橋と神社の中間地点で、しかも表参道商店街に直結という好立地ということもあったのですが、女性の一人旅でも安心して快適に楽しめるように、いろいろと気配りが行き届いたホテルでした。

お料理も、本当に美味しいものが少しずつ、次々と出てくるという嬉しい懐石料理。バッテリ不足でスマホ充電していたので写真撮れませんでしたが、宮島産の牡蠣や穴子、広島牛その他シャコ海老(長崎では「シャッパ」といいますが)など、さまざまな瀬戸内の魚介類と野菜・・・薄味でなんとも上品な味付けで、まことにけっこうでござりました。

お品書もってきちゃいました。

全部は食べきれませんでした・・・)

食べ物がらみの話でついでながら、広島の定番スイーツ「もみじ饅頭」は、昔はアンコしか入っていなかったらしいですが、今はカスタードクリーム、チョコ、抹茶、チーズ、紅イモ、リンゴとかいろいろあって、焼き立てを食べさせてくれるお店が、表参道商店街にいくつもあります。ところが、私はそういうお店にたどり着くまでに、スイーツ渇望症になってしまい(翌23日午後の話ですが)、近くのカフェに入りました。商店街の賑わいからちょっと外れた裏通りにある、Sarasvati(サラスヴァティ)という、趣のあるカフェでした。

リンゴのバターケーキと、アイスカフェオーレ。自家焙煎のコーヒー専門店というだけあって、このカフェオーレが絶品!

さて23日朝に話を戻してと・・・8時にはチェックアウトして、まず弥山(みせん)へ。

宮島の主峰「弥山」は、古くから神が降臨する霊山として崇敬されており、806年に弘法大師(空海)がここを弥山と名付けて開基して真言宗の修行をしたそうです。登山は、中腹の「獅子岩駅」まで2台のロープウエイで上がり、そこから山頂までは徒歩というのが主なルート。山頂付近には、空海に関わるパワースポットがいろいろあって、恰好のハイキングコースらしいです。しかし、山頂付近まで行く時間的・体力的余裕がなくて、獅子岩駅で引き返してしまいました。

というわけで、弥山での収穫は何もなしかというと・・・・あったのです。そのロープウエイで、とても感じのいいイギリス人ご夫妻と一緒になり、獅子岩までの30分近く、楽しく英会話してました・・・。マンチェスターの方で、2週間の日本旅行の最後だそうです。私の英語もなんとか通じて、ほっとしました。これも弘法大師のお導きか?!

弥山から戻って宝物館へ。

宝物館は、大鳥居と社殿の次に私が楽しみにしていたところです。というのは、、、『平清盛』30回でも大きくクローズアップされた「平家納経」の展示が見られるからです!(こちらの記事にも書きましたが、平家納経とは何かについては、こちらを)。

ただし、、、レプリカ(複製)です。

清盛や盛国らの自筆による本物は、奥深いところに隠してあり(年2回公開)、レプリカの、しかもそのほんの一部を常設展示しているというわけです。このレプリカは、平安美術研究家の田中親美氏により大正時代に作成されたもので、『平清盛』の撮影でも使用されました。松山ケンイチさんが、著書の中で、「レプリカといっても国宝級のもので、そのあまりの見事さに(傷つけなりしてはならないと思って)緊張してしまい演技に集中できないくらいだった。」といった趣旨のことを書いていました。ともかく、これがドラマ中で実際に映し出された作品だと思うと、心震えました・・・。注4)

経典を収める三段重ねの経箱(金銀荘雲龍文銅製経箱)もまたなんという気品。。。表面に五重塔と双龍、側面に雲龍の文様が施されていますが、龍は海の守り神として、清盛がとりわけ好んだ意匠らしいです。 

展示物は写真NGなので、『平清盛』30回のDVDを写してみました。こちらがその経箱と松ケンさんの手です~

清盛が一門の主だった者を引き連れて、この「善美を尽くした」経典一揃いを厳島神社に納めたのは、1164年と言われていますが、その頃厳島の社はまだ創建当時のままで放置されており、大変さびれた神社だったのです。清盛が神主佐伯景弘に援助を申し出て社殿の大改築を進めるのはこの後なのです。

というところで、今日はここまで!

今回は、単純に観光客の視点で見物したことを書いてみましたが、次回は、旅行記最終回として、平家と厳島との関わりの歴史など交えながら、今の私の想いをもう少しだけ書きたいと思っています。帰省前に書かねばね~~

なお、今回および次回の記事を通して、「図説 平清盛がよくわかる!厳島神社と平家納経」(日下力監修 青春出版社)を参考資料として書いております。

 

注1) 神殿を海に造ったのは、宗教上の理由もあったようです。厳島は本来島全体が聖域としてあがめられており、土地を削ったりしてはならないとされていたそうです。そういう意味で、神の領域を傷つけない配慮として、海側に建てたのではないか、と考えられています。

注2) 『平家物語』に書かれていることで、史実かどうかはわかりませんが、そう信じられています。

注3) 清盛のデザインではないと断言的に書いてしまいましたが、今またちょっと別の本を読んでいて、私の間違いかもしれないと思っています。次回記事でフォローしますね。<3日追記>」

注4) 『平清盛』放送終了後に出版された、松山さんの自伝「敗者」(新潮社)p.179 から少しだけ転載させていただきますと・・・

「実際の平家納経の箱のレプリカを使っての撮影で、現場はものものしい雰囲気となった。なぜならそのレプリカも江戸時代に作られたもので、国宝級の価値があるからだ。」

大変僭越ですが、「江戸時代」は「大正時代」の間違いで、おそらく松山さんの記憶違いだと思いますが・・・撮影で用いたものが、大正時代の田中氏作成のレプリカであるということは、プロデューサーの磯氏もツイッターで、それから、崇徳上皇役の井浦新さんもインタビューで語っていました。田中氏のもの以外にもレプリカがあるということは考えられないのですが・・・

ともかく、松山さんほどの一流俳優でも演技に集中できなくなるほどに、レプリカとはいえ素晴らしい芸術品で強いオーラを発しているということですね。 

 

 


南房総・東京湾アクアラインの旅

2013-07-28 15:12:28 | 狆 (栗之介・恵之介・光之介・十兵衛)

<福岡・下関・宮島の旅の続きもまだなのですが、、、、こちらの記事はじっくり書いていますので今しばらくお待ちください。>

ここでちょっと、今戻ってきたばかりの「南房総・東京湾アクアライン」お出かけについて、読んでやってくださいね。

実は、ぱぱの会社の方が、南房総に別荘を持っておられて、そこでのバーベキューパーティに招待していただき、そのまま近隣のホテルに泊まったのです。予報では雨とのことでしたが、晴れ時々曇りで、それほど暑くもなく、楽しい時間を過ごすことができました。

パーティ参加者は、赤ちゃん含めて11人です。こだわりのバーベキュー道具一式を持ち込んでバーベキュー奉行してくださる方がいて、2台のコンロで牛肉、豚スペアリブ、鶏毛羽先、ウインナー、ホタテにサザエに海老、野菜、焼きそば、、、と、どの食材たちも次々と見事な焼かれっぷりです!

こちらの丸い外国製コンロが、バーベキュー奉行さんがとりわけご愛用のものだそうで、これまたこだわりの美味スペアリブソースを奥様が作ってきてくださって、焼いちゃ塗り、焼いちゃ塗り。ご夫婦の見事なコラボで、うまさ倍増!!

 

そのうえ、おにぎりに、トマト丸かじりに、スイーツに、スイカにと、サイドメニューも沢山あって、昼間っから食べるわ、食べるわ。。

私は普段のお昼は、たいてい前日の残りもの片づけ主婦ですし、この暑い中戸外でこってりしたものをたくさん食べるって、お腹だいじょうぶかな、また熱中症にならないかしらと多少不安だったのですが。。。何でもあまりにも美味しいので、食べるのに夢中になって調子悪くなるヒマなし?!炭火焼きすると油が落ちるので、意外とヘルシーなのでしょうね。それに、海からの風が心地よくて、それほど暑さは感じなかったのです。

ぱぱの会社の方々も、私は初対面か、20年、10年ぶりにお会いした方たちばかりでしたが、皆さんとても気さくで、おしゃべりも弾みました。

4時ころまでお世話になり、その後皆さんとお別れして、安房白浜(あわしらはま)のホテル「南海荘に向かいました。部屋から、房総半島の最南端「野島崎灯台」が左手に見える絶好のオーシャンビュー

南房総編「海はいいのぅ~~」!!

トビウオのオブジェがありました。

何だろうなと思ってよく見ると・・・・銘板に「源頼朝」の文字が!

あらまあ、そうだったのか~~

他にも、頼朝が石橋山の戦いに敗れて逃亡中この地に上陸した際、雨宿りをしたとされる岩戸だとかがありました。このあたり一帯は、頼朝ゆかりの地だったのですね!ガイドブックなどには載っていない、源氏ファン垂涎のスポットなのでしょう。

今朝は、早めにホテルをチェックアウトして、東京湾アクアラインに向かいました。注目の海ほたるパーキングに寄るためです(まだ行ったことがなかったのです)。夏休みに入ったばかりの晴れの日曜なので、大混雑で駐車場で長蛇の列では・・・と思っていましたが、10時前には着いたからでしょうか、意外と空いていて、ゆっくり買い物と食事ができました。

海ほたるとは・・・東京湾の真ん中にある600m×650mの長方形の人工島に建設された5階建てのパーキングエリアで、5階の展望デッキからは360度パノラマビューで東京湾が見渡せます。ちなみに、展望デッキはわんこOKですが、屋内のお店はすべてNGみたいでした。

お昼は、アサリ入り塩ラーメン。あさりぷりぷりで、おだしも美味だよ~~

帰りは、関門トンネルみたいな海底トンネルを通ったのです・・・へえっ、東京湾にも海底トンネルがっ、と思って今調べてみたら・・・

東京湾アクアラインというのは、千葉の木更津と川崎を結ぶ東京湾を横断する高速道路のことで、大まかに分けると、全体の2/3(川崎側)が海底トンネルで、残りの1/3(木更津側)が橋になっていて、このトンネルと橋をつなぐところに海ほたるがある・・・ということなのだそうです。なるほど!(こちらにわかりやすく説明してあります。) ただし、関門トンネルが車も人も通行できるのに対して、アクアラインのトンネルは車だけですね。

早めに帰路についたので、渋滞にも遭わず、1時半ころには家に帰りました。

いつもながら、ぱぱ、運転お疲れ様でした。私は、ほとんど熟睡・・・

天気も上々、お腹も絶好調で素敵な週末になったのも、栗と恵のプレゼントだったのでしょう。 レジーナでの親ばかバーベキューパーティを、懐かしく思い出していました。

 最近やっと迷惑コメントが無くなってきたようなので、承認機能をいったん外してみますね。今までお手数をおかけしました。

 

 

 

 


選挙に行けば行ったで

2013-07-21 18:16:15 | 狆 (栗之介・恵之介・光之介・十兵衛)

投票所は歩いて10分くらいのところです。

行けば行ったで、、、いつも、恵をカートに乗せて散歩がてら行っていたのを思い出してひどく辛くなる。

単なる投票所への行き帰りも、恵がいっしょだと楽しかった。

今日は・・・ぱぱも私も一言もしゃべらず、、黙々と歩いて投票してさっさと帰ってきました。

 


福岡・下関・宮島の旅(その4)

2013-07-05 17:39:58 | 平清盛ほか歴史関連

5/21日(火)朝です。もう4時半頃目が覚めてしまい、またバルコニーから海峡を眺めたり、ガイドブックを読んだりしていました。

7時から、4階にあるオーシャンビューのレストランでゆっくりと朝食(後からヨーグルトも来ました)。

1.関門トンネル人道 ― 壇の浦海底ウオーキング

8時頃にはチェックアウトし(荷物は預かってもらえます)、昨日来た知盛・義経像のある「みもすそ川公園」へ再びやってきました。

知盛と義経が見守る壇ノ浦の海の底には、「関門トンネル」が横たわっています。

本日朝一番の目的は、このトンネルの中を歩いて、対岸の門司まで渡ることです!

関門トンネルというのは、関門海峡の海面から56m下に掘られた、福岡県北九州市門司区と山口県下関市椋野町とを結ぶ海底トンネルです(海中トンネルではなくて、海底の土泥の中に掘られた海底トンネル)注1)。関門海峡の最も狭いところにトンネルを渡して、北九州市と下関市をたやすく行き来できるようにしたわけです。面白いのは、上下二重構造になっており、上は車が走るための車道、下は、人が歩くための「人道」となっていることです。全長780mですから、徒歩15分で渡れてしまいます。海峡の底を徒歩で渡れるトンネルというのは、世界唯一とのこと。

最峡部の海上には、橋を(車専用の高速道路で、人は通れない)、そして海底には、トンネル(車と人が別々に通れる)を作った、というわけです。注2)

それでは、壇ノ浦の海底散歩に参るといたしましょう。注3)

人道入口です(義経・知盛像とは、国道を挟んで反対側に位置しています)。ここからエレベーターで降りていき・・・・

30秒ほどで、人道の下関側出発点に降り立ちます。 8時半ころでしたが、既に何人もの人たちが歩いていました。適度に空調も利いているので、地域の人々の恰好のウオーキングコースになっているそうです

ほぼ半分まで歩くと、県境が!

張り切って早歩きになったからかな、10分ほどで渡り切り、門司側に着きました。再びエレベーターで地上に上がります。中で一緒になった地元の初老の紳士と話していたのですが、この方ももう30年近く下関⇔門司往復ウオーキングが毎朝の日課になっているとのこと。茨城からの旅行というと、自分も茨城に住んでいたことがあるとおっしゃっていました。昨日のNさんといい、ほんとに皆さん旅行者に親切です。この方に道案内していただき、次に訪れたのが、和布刈神社です。

2.和布刈神社(めかりじんじゃ) ― 門司側から壇ノ浦を見守る神社

壇の浦合戦の前夜、平家一門が集まり勝利祈願の酒宴を行ったと伝えられている、大変由緒ある神社です。注4)

創建は西暦200年でしたが、この社は1767年に建てられたもの。一門が祈願した時(1185年)の社はどんな感じだったんだろうなぁ・・・・

高浜虚子が昭和16年に訪れた際、平家を偲び読んだ句の句碑。「夏潮の今退く平家滅ぶ時も」

関門橋の真下に、まさに壇の浦の海を見渡すように鎮座している神社で、寂寥感あふれる海中燈籠がシンボルになっています。

(下関の対岸が見えます。みもすそ川公園の義経・知盛像があるところをピンクの矢印で示してみました)

この燈籠が平安時代からここにあって、一門の最期を見届けていたのかなあ・・・と胸に迫りましたが、後から調べてみると、 長崎県対馬の戦国時代の大名であった宗氏が航海の安全を祈願して寄進したものと言われているそうで、源平合戦当時はなかったのでした。

それにしても、とても心にしみるこの海中燈籠・・・

そもそもなぜわざわざ長崎県の藩主がここに寄進を??

さらに調べて驚いたことに・・・実はこの「宗氏(宗家)」、知盛の孫で重尚(しげひさ)という人物が、鎌倉時代に対馬を平定して開いた武家である、とする記録が残っているのです!残念ながら、現代の研究では、それは史実ではないとの見方が有力だそうですが、それでも、きっと宗家の歴代当主はその言い伝えを大切にしていて、だからこそ、わざわざこの壇ノ浦を見渡す神社に祈りの燈籠を立ててくれたに違いありません。長崎と知盛との幻の接点!おお、なんというロマン!!

平家とは関係ないことですが、社名となっている和布刈(めかり)とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える和布刈神事(めかりしんじ)が行われます(「福岡県徹底探検隊」というサイトから転載)。引き潮になると、この燈籠のところまで歩いて降りられるのですが、まだ夜明け前の真っ暗な海の、ちょうどこの燈籠のそばで、大きな松明を燃やしながらワカメを刈るのです。

いつまでもこの燈籠を見ていたい気持ちでいたが・・・・もう一か所、どうしても立ち寄りたい神社がありました。

3.甲宗八幡神社 ― 知盛のお墓

心地よい5月の陽ざしの中、和布刈神社から30分ほどのウオーキングで甲宗八幡神社にたどり着きました。ここに、知盛のお墓があるとNさんから教えていただき、はやる気持ちでやってきたのです。

そのお墓が、社殿の脇にひっそりとありました!

手前は、木の柵があり、そばまで寄れません・・・・

2つ前の記事でもお話ししましたが、赤間神宮の一門の墓地には、各自の遺体そのものが埋められているわけではなく、ご遺体はそれぞれ別の土地で見つかって葬られたか、あるいは見つかることなく壇の浦の海底の一部となってしまったか(こちらの方が遥かに多いでしょう)・・・なのですが、知盛の遺体は、Nさんのお話によると、壇の浦合戦直後に小倉の漁師たちの網にかかり、この神社の裏手の筆立山に葬られてお墓が建てられたそうです。

ところが、昭和28年の大水害で、お墓はこの神社の裏手まで流されてきたため、それを手厚く再祀したとのこと(このお墓については、「花橘亭~なぎの旅行記」というサイトに詳細が綴られています)。

ちなみに、この神社も西暦860年創建と古く、一連の源平合戦で荒廃してしまったので、壇の浦合戦後、義経と兄範頼により再建されたとのこと。平家追討を祈願していたのが成就した御礼に、という理由だったそうですが、そういう理由で源氏の手によりきれいになったお社に、知盛が一人ひっそりと眠っているというのも、切ないものですね・・・

なお、知盛のお墓と言われるものは、高知県の越知町横倉山や、福岡県久留米市などにも存在します。すべては歴史のミステリーです・・・注5)

はあ。。。それにしても、トンネル人道からずっとよく歩いたなあ!!時間もだいぶ過ぎたことだし、ここからタクシーに乗り、いよいよ関門海峡最後の見学スポットとなる「海峡ミュージアム」へ向かいました。

4.海峡ミュージアム ー 人形劇「平家物語」のお人形たちに会えた。

海峡ミュージアム(海峡ドラマシップ)」は、門司の桟橋の近く(門司港レトロ地区)にある5階建てのユニークな楕円形の建物です(建物そのものが船の形とのことで、それで「ドラマシップ」とも呼ぶらしいです)。関門海峡にまつわる歴史・文化・自然を紹介する施設で、私がとりわけ楽しみにしていたのが、3Fの海峡歴史回廊

古代から中世、近世、近代へと、時代の転換期ごとに大きな歴史ドラマが展開された関門海峡。その印象的シーンを、日本とチェコの人形美術家(10名)の人形アートによってたどる歴史絵巻」と、サイトの紹介文にもある通り、素晴らしいお人形たちにより名場面が繰り広げられていて、見応えたっぷりです!

そして、ここで私が一番見たかったものが!

それは、1993年~95年にかけてNHKで放送された、人形劇『人形歴史スペクタクル 平家物語』のお人形さんたちの実物です。作家は川本喜八郎。私は(これも!)まったく見ていなかったので、思い切って完全版DVDボックスを買ったのです(こちら)。この作品は、人形劇の域をはるかに超えた壮大な人形芸術で、それぞれの登場人物の表情、所作、衣装、セットのリアルさ等本当に豊かで繊細!NHKが大河ドラマに匹敵する製作費をかけたというのも頷けるのです。

(20分ほどのダイジェスト版が見られるサイトがありました。http://www.nicozon.net/watch/sm18963947

上記のダイジェスト版には知盛は出てません。私がDVDから写した写真をちらっと。これが人形バージョン知盛さまですよん~~かっけ~♪

(一の谷の合戦で長男知章を失うシーンより。。髪が乱れているところなど、細かいでしょう)

このミュージアムに、実際に放送に用いられたお人形の一部が展示されている、というのはホテルのインフォメーションで前日の夜に知り、とっても楽しみにしていました。写真はNGだったので、言葉で説明するのももどかしいのですが・・・平家方、源氏方からそれぞれ、9体ずつ(確か...もう記憶が。。。))姿勢を正して整列していました。身長1mほどでしょうか、予想より大きくて、みんな凛々しいこと!その中で、一人、いかにもお人よしでへたれなお顔の宗盛くんも愛しい。。。平家のみんなも源氏のみんなも、、、会えて嬉しかったよ!

さあて。。。そろそろ広島に向かわねばなるまいなぁ。。。今度またいつ来れるかわからないから、もういちどしっかりとこの海を目と心に焼付けようと、5階展望デッキに登りました。キラキラ光る海峡の水面、そして対岸の下関までよく見渡せます。5月の風が心地よい。。。

デッキと並んでいるレストランのテラスで、「ふくバーガー」のランチ!フグのフライがサンドイッチされていて、美味しかったです。

たった1泊だったのに、1週間くらいいたように多くを見て、深く感じ、思いを馳せ、出会い、満喫した下関、そして門司を含む関門海峡一帯。それでもまだ見逃したものもあり、大変名残惜しいけれど・・・きっといつかまた来よう!

連絡船で唐戸桟橋まで戻り、お昼過ぎに、下関駅を出発しました。

「その5」宮島編に続く。。。。

注1) 関門海峡の水深は、最も深いところで47mです。なので、海底から9mくらい下を掘ったわけです。このトンネルの工事が始まったのは、1937年で、太平洋戦争で中断しながらも、21年をかけて1958年に開通し、総工費は当時の金額で57億円!!じぇじぇじぇjjjjjj!!!

注2) 関門海峡の最狭部・・・・この区域こそが、壇ノ浦の戦の火ぶたが落とされた地点であり、一門の入水もここだったと言われています。早鞆(はやとも)の瀬戸とも呼ばれ、潮流がきわめて速く(最大で約10ノット=時速18km)、しかも1日に4回も潮流の向きが変わり、このことが、両者の運命に大きく影響したと考えられています詳細はまたあらためて別の記事を書くつもりです。

なお、正確に言えば、関門橋の真下の海底にトンネルが位置しているのではなく、トンネルは橋よりやや東ですが、おおよそ同じところだとイメージしていただいてOKだと思います。それから、もうひとつ、列車が通るための「関門鉄道トンネル」がもっと西側にあります。

注3) 「壇ノ浦」はまた、関門橋のすぐそばあたりの町名でもあり、壇ノ浦というバス停もありますし、火の山公園へのロープウェイの駅も「壇ノ浦駅」といいます。

注4) 酒宴といっても、どんちゃん騒ぎの酒盛りを想像しないでくださいね!皆、勝っても負けてもこれが最後の戦いだと分かっていて、悲痛の思いで静かにお神酒を頂き、互いに酌み交わしたのだと思うのです。いついかなる時も、雅であることを忘れなかった平家一門のことなので、もし誰かまだ笛などもっている者がいたら、管弦もできたかもしれませんが・・・笛の名手たち(敦盛など)はこの時すでに亡く、おそらくとても寂しい酒宴だったと想像されます。

注5) 歴史のミステリーといえば・・・草薙の剣が、結局どうなったかということについても、Nさんがそっと教えてくださいましたよ・・・壇ノ浦の合戦後、地元の漁師などが懸命に捜索し、見つかったのです!・・・・そして、宗教団体に納められたらしい、という言い伝えがこのあたりでは大切に語り継がれているとのことです。