型破りな坊さんという認識しかなかった。
が、どうやらこの御坊、型にはまっていないのは僧侶としてだけではないらしい。
産経新聞に毎週一で連載される「人生相談あすへのヒント」での彼の相談者に対するほぼ一方的ともいうべき批判のしようには、少なからず驚きをおぼえるとともに、いや驚きを超えて不快感すらおぼえるとともに、この方が今まで歩んできた人生、生き方だけではなく、ものの考え方自体が社会通念を逸脱しているという意味で、「型破り」なのだと感じた。
まず、相談内容なのだが、相談者は神奈川県在住で結婚10年目の30代女性で、再婚からあ間もなくして不倫・妊娠の末に再再婚した義兄に対する義父母の「ゴキゲン」ぶりや、彼らが我が息子の不倫の末に捨てられた元嫁を悪く言うさまに不快感をおぼえ、気持ちの整理がつかないというもの。
これに対して小池氏は、冒頭から以下のように相談者に対して批判的な文言を浴びせかけるのである。
「世の中の善悪は、わが輩が決める。他人はわが輩の基準に従うべきである!!」とでもパラフレーズできそうな、支配欲が見え隠れしているようです。
確かに、相談者の行動には、やりすぎ、行き過ぎな面もなくはないと思う。というのは、自身の不快感を「主人を通じて(義父母)に伝えている」というのだ。義父母との関係というよりは、夫とも関係に配慮して、あるいは夫の気持ちに配慮して、そうするべきではないと思うのは私だけであろうか。夫婦といえども、やはり元は他人である。配偶者の親兄弟について、ましてや配偶者に面と向かっての批判は、かりに理屈のうえで正しくとも、よくよく慎重であらねばならない。さもなくば、感情的に配偶者との間に摩擦を生み、しこりを残すことにもなりかねない。良好だった夫婦関係が双方の家族をめぐってぎくしゃくし出すという例は、必ずしも珍しいことではない。そもそもが感情と肉体(と打算?)でつながるに過ぎない人間関係が到底かなわない「血」でつながった人間関係を軽く見てはいけないのである。
女房に我が親をとやかく言われた相談者の夫の反応は知る由もない。その通りの思ったのか、それとも不快ではあってもそれを表に出さず妻の言い分に耳を傾けたのか、あるいは感情的に反発したものか。その点に触れていないということは、小池氏の指摘の通り、相談者には独善の癖があって、夫がどう感じているかという点にまで気がまわらないのか、それとも、夫は同意あるいは聞き流しのいずれかの反応を示したものと推察する。
しかしながら、「世の中の善悪は、吾輩が決める」かのようとまで断じたり、義父母への思いや姿勢を「攻撃性」とまで断じる、小池氏にこそ言い過ぎの感が否めない。
ではなぜ、小池氏の相談者に対する姿勢はそこまで「苛烈」なのか。その答えは次のくだりにあるように思う。
ご主人の両親が、自分の長男を幾分ひいき目に見て過ちに目をつむってしまうことや、孫さえできればうれしい、なんていうことは、ごくごく普通の、よくある人間
心理です。(「ごくごく普通」を強調したいらしく、、、、と付されている)
また、両親の対応を「普通のゆがみ」とも言っている。
が、そもそも相談者の義兄のしでかしたことは、簡単に目をつむってしまって良いような過ちなのだろうか。不倫の末に不倫相手を妊娠させたことが、そんなに他愛もない過ちだといえるのだろうか。しかも再婚して間もなくしての不倫だというではないか。司法は不倫を社会通念にもとる行為とみなす。損害賠償の対象にもなる。つまり、うっとに裏切られた義兄の再婚相手は、義兄とその不倫相手すなわち再々婚相手に対して、それぞれ数百万の損害賠償を求めることができるのである。もちろん、そのためには不貞行為の明確な証拠が必要であるが、判例主義を取る我国の司法ではそのような判断がなされるのである。
そして、そうした判断は、文字通り社会通念に照らしていささかも奇異なものではあるまい。麻木某という不倫をしていた女性タレントがテレビから姿を消してしまったように、世間にはいまだ不倫を良しとしない風潮が強い。
不倫によって、それをした当事者二人が気づつけるのは、何も不倫された側だけではない。その家族、親兄弟。不倫をした側の家族すら傷つくこともある。
義兄の両親も、我が子の不行跡が不倫された再婚相手のみならずその家族、親族、そして彼らが結婚した際に祝福してくれたであろう方々にご迷惑やご心配をおかけしたという気持ちがあるならば、孫が生まれたとはいえ不倫の末のいわば「不義の子」である。うれしくとも、それを表に出すことを控えるのが、常識ある人間のとるべき行動ではないのだろうか。
ましてや、我が息子が裏切った元嫁の悪口を公言するなど、言語道断ではないのか。いかに元嫁との間にいざこざ等があったとはいえ、我が子の社会通念にもとる行為をむしろ肯定するかのような行為は、「破廉恥」のそしりを免れまい。
義兄や義父母の行動に相談者が嫌悪を抱くのは、相談者の行動に行き過ぎがrにしても、至極当然、つまり、相談者は常識人ということではないのだろうか。
それに対して、「支配欲」だの「攻撃性」だのと、それこそ攻撃的な言葉をあびせ、不倫した息子をとがめる義父母に対しては、「幾分ひいき目」、「ごくごく普通」と実に寛容なのである。
なんともまあバランスの悪いというかズレた判断、感覚としか、私には思えない。
まあ、もともと「普通」のお坊さんではないようなのだが・・・。
あえて、「まだ33歳」とは言いたくないが、人生相談に乗れるような年齢ではないと思うのだが・・・。確かに、いたずらに歳を重ねればよいというのではない。が、やはり重ねないと見えてこないもの、わからないことというのもある。
小池氏の相談者に見せた「攻撃性」は、彼の若さゆえなのか、人格のんさせるわざか、それとも仏道修行の結果得た結論なのか・・・。
いや、実に、実に、何とも「普通」ではない、と思えてならない。
が、どうやらこの御坊、型にはまっていないのは僧侶としてだけではないらしい。
産経新聞に毎週一で連載される「人生相談あすへのヒント」での彼の相談者に対するほぼ一方的ともいうべき批判のしようには、少なからず驚きをおぼえるとともに、いや驚きを超えて不快感すらおぼえるとともに、この方が今まで歩んできた人生、生き方だけではなく、ものの考え方自体が社会通念を逸脱しているという意味で、「型破り」なのだと感じた。
まず、相談内容なのだが、相談者は神奈川県在住で結婚10年目の30代女性で、再婚からあ間もなくして不倫・妊娠の末に再再婚した義兄に対する義父母の「ゴキゲン」ぶりや、彼らが我が息子の不倫の末に捨てられた元嫁を悪く言うさまに不快感をおぼえ、気持ちの整理がつかないというもの。
これに対して小池氏は、冒頭から以下のように相談者に対して批判的な文言を浴びせかけるのである。
「世の中の善悪は、わが輩が決める。他人はわが輩の基準に従うべきである!!」とでもパラフレーズできそうな、支配欲が見え隠れしているようです。
確かに、相談者の行動には、やりすぎ、行き過ぎな面もなくはないと思う。というのは、自身の不快感を「主人を通じて(義父母)に伝えている」というのだ。義父母との関係というよりは、夫とも関係に配慮して、あるいは夫の気持ちに配慮して、そうするべきではないと思うのは私だけであろうか。夫婦といえども、やはり元は他人である。配偶者の親兄弟について、ましてや配偶者に面と向かっての批判は、かりに理屈のうえで正しくとも、よくよく慎重であらねばならない。さもなくば、感情的に配偶者との間に摩擦を生み、しこりを残すことにもなりかねない。良好だった夫婦関係が双方の家族をめぐってぎくしゃくし出すという例は、必ずしも珍しいことではない。そもそもが感情と肉体(と打算?)でつながるに過ぎない人間関係が到底かなわない「血」でつながった人間関係を軽く見てはいけないのである。
女房に我が親をとやかく言われた相談者の夫の反応は知る由もない。その通りの思ったのか、それとも不快ではあってもそれを表に出さず妻の言い分に耳を傾けたのか、あるいは感情的に反発したものか。その点に触れていないということは、小池氏の指摘の通り、相談者には独善の癖があって、夫がどう感じているかという点にまで気がまわらないのか、それとも、夫は同意あるいは聞き流しのいずれかの反応を示したものと推察する。
しかしながら、「世の中の善悪は、吾輩が決める」かのようとまで断じたり、義父母への思いや姿勢を「攻撃性」とまで断じる、小池氏にこそ言い過ぎの感が否めない。
ではなぜ、小池氏の相談者に対する姿勢はそこまで「苛烈」なのか。その答えは次のくだりにあるように思う。
ご主人の両親が、自分の長男を幾分ひいき目に見て過ちに目をつむってしまうことや、孫さえできればうれしい、なんていうことは、ごくごく普通の、よくある人間
心理です。(「ごくごく普通」を強調したいらしく、、、、と付されている)
また、両親の対応を「普通のゆがみ」とも言っている。
が、そもそも相談者の義兄のしでかしたことは、簡単に目をつむってしまって良いような過ちなのだろうか。不倫の末に不倫相手を妊娠させたことが、そんなに他愛もない過ちだといえるのだろうか。しかも再婚して間もなくしての不倫だというではないか。司法は不倫を社会通念にもとる行為とみなす。損害賠償の対象にもなる。つまり、うっとに裏切られた義兄の再婚相手は、義兄とその不倫相手すなわち再々婚相手に対して、それぞれ数百万の損害賠償を求めることができるのである。もちろん、そのためには不貞行為の明確な証拠が必要であるが、判例主義を取る我国の司法ではそのような判断がなされるのである。
そして、そうした判断は、文字通り社会通念に照らしていささかも奇異なものではあるまい。麻木某という不倫をしていた女性タレントがテレビから姿を消してしまったように、世間にはいまだ不倫を良しとしない風潮が強い。
不倫によって、それをした当事者二人が気づつけるのは、何も不倫された側だけではない。その家族、親兄弟。不倫をした側の家族すら傷つくこともある。
義兄の両親も、我が子の不行跡が不倫された再婚相手のみならずその家族、親族、そして彼らが結婚した際に祝福してくれたであろう方々にご迷惑やご心配をおかけしたという気持ちがあるならば、孫が生まれたとはいえ不倫の末のいわば「不義の子」である。うれしくとも、それを表に出すことを控えるのが、常識ある人間のとるべき行動ではないのだろうか。
ましてや、我が息子が裏切った元嫁の悪口を公言するなど、言語道断ではないのか。いかに元嫁との間にいざこざ等があったとはいえ、我が子の社会通念にもとる行為をむしろ肯定するかのような行為は、「破廉恥」のそしりを免れまい。
義兄や義父母の行動に相談者が嫌悪を抱くのは、相談者の行動に行き過ぎがrにしても、至極当然、つまり、相談者は常識人ということではないのだろうか。
それに対して、「支配欲」だの「攻撃性」だのと、それこそ攻撃的な言葉をあびせ、不倫した息子をとがめる義父母に対しては、「幾分ひいき目」、「ごくごく普通」と実に寛容なのである。
なんともまあバランスの悪いというかズレた判断、感覚としか、私には思えない。
まあ、もともと「普通」のお坊さんではないようなのだが・・・。
あえて、「まだ33歳」とは言いたくないが、人生相談に乗れるような年齢ではないと思うのだが・・・。確かに、いたずらに歳を重ねればよいというのではない。が、やはり重ねないと見えてこないもの、わからないことというのもある。
小池氏の相談者に見せた「攻撃性」は、彼の若さゆえなのか、人格のんさせるわざか、それとも仏道修行の結果得た結論なのか・・・。
いや、実に、実に、何とも「普通」ではない、と思えてならない。
過去を反省しているというのなら、都合の悪いことは書かないのはおかしい。
もう、遠い昔ですね。
しかし、あの本を読んであきれ返る。
全部ちゃんと書きなさいよ。って言いたいですね。
不倫、妊娠、中絶。
隠すならすべて言わないで隠すべきだと思う。
それによって、傷つく人間がいるのに、自分の商売にした。
差し障りのない都合の良いところだけ、書くのは卑怯だ。
もう関わる事もないでしょうけど。
学歴や名声で世の中の人が騙されないで欲しい。
仏教は 冷暖自知 が基本だそうです、 心が感じる直観を磨く道だと言われます。 当たり前のことを当たり前にする難しさ、 私の師は それが当たり前に行っている人でした。
みんな自分の意見 、自分の生き方が正しいと思いたい、 自分の知りえたことが正しいと思いたい。
人の間違いが許せない、 これらはすべて、自分自身の影を見て 自分自身を嫌っているのが原因なのに、
人が許せないのは 自分が本当は許せないんでしょうね。
自分の中にこそ 仏があるのを知らないで、 人と自分の基が 実は同根であることを 忘れていて、 人と自分と 区別が始まる、
文章全体からなんとなく攻撃性が匂い立っているのは
皆感じ取っているのですね、やはりその人それぞれの
ご性格やこれまでの生い立ちなどがかかわってくるの
でしょうが、読んでいてちょっと作り物っぽすぎるので、
どうせならもう少し本物っぽく書かれると一般読者も違
和感を感じずに読んでもらえるのではと個人的には思
いました。
いや失礼(笑)
文体がご都合保守みたいな独特の臭さがあるよね
もうブログ主がボケたか老衰で放置ブログの可能性あるな
ただそこで「一緒になって謝ろう」というか「お前は悪くないんだよ」というかは公と私のバランスの問題、つまり価値観やその子の性格を慮ってのものなので
公の意識が強いから人格的にできてるとか、私のことしか考えていないから子供っぽいとか、そういうことはないですよ。時代性も関係してくると思います。
ですので、自分と考えの違う方がいたからといってそれを若造だから経験が少ないとか過去がひどいから業が深いとかレッテルを貼って人格攻撃する前に、その価値観を理解した上で「私とは違うな」と感じる、それだけでいいと思います。
山下良道氏も同じ。
彼の著書を読むと、世間に対する経験知がないため、ものごとを単純化し、決めつけて底の浅い表現しかできない。
まるで学生のまま精神の成熟が止まってしまっているかのようだ。
小池氏も同じ。
彼が対談や討論に参加してる時の様子は滑稽ですらある。
物思いに耽るように目をつむって思わせぶりな態度を見せるなど『まるで子供のよう』に幼く見える。
精神的に未熟なのは隠しようがない。
人は何か仕事をして稼がないといけないのは理解できる。
ただ、他人をダマし、他人から搾取するのは、ただのサギ行為であることを理解した方がいい。
たぶんそんなセンスは彼らには、、ないだろう。
優秀な俳優、詐欺師って感じがする。
コンプレックスがひどいから持ち上げられてほいほい出てきた。
直感的に臭い
小池某と言う僧侶に関する記事を目にした者です。
私は数年前、この僧侶がマスゴミで持て囃されているのを目にし、小池某の悩み相談の本を立ち読みしましたが、
「小池某僧侶モドキの文体から、彼の人生経験が少なさ、視野が狭さ、ソレ故に独断と偏見が多く、綺麗事ばかり口にしている割に冷淡さと損得勘定に長け、他者への共感性の欠落した自己中心的な性格」が見受けられる気がしました。
ですが、マスゴミでは彼を持ち上げていますし、
彼を持ち上げているマスゴミの洗脳に洗脳されているとも気付かず、小池信者になっている人々も多くいて、空恐ろしいものを感じます。
東大教養学部を出た僧侶で、そこそこ整った草食系の容姿をしている部分に騙されている読者や小池信者も多いのでしょう。
ただ、彼の経歴を見ても「一般社会で働く等の社会経験が皆無である」事が安易にわかります。
また、年齢も若く人生経験も少ない事から本来ならとてもじゃないが人の道を説く立場にあるとは言えないのですが、
それでも、東大のネームバリューが幅を利かせるのでしょう。
小池某氏の文体にも「俺、頭いいでしょ(嗤い)」的な、謙虚ぶっている割に少し人を見下した感じと世俗に住む一般人よりも俗物的な感じがします。
それでも、肩書きに弱い人たちは唯々諾々と彼の意見を読み、信者となっている。
こういう人達は、モノの真贋を見極める目を持たず、マスゴミに安易に操られやすいので、
カルト宗教に入信したり、嘘つき占い師に騙されたりする人達とある種同類なのだと思います。
小池某氏の社会経験の無さが彼の新聞悩み相談での非常識で独りよがりな共感性の欠落した意見に繋がるのでしょう。
他人の悩み相談に寄稿する前に社会経験を爪と言いたいし、
このような輩に悩みを相談する人にも些か疑問を感じます。
(まだ読売新聞の悩み相談の方がマシ)
私が小池某を見た感想としては、我儘で非常に冷淡で自己中心的な変節感で平然と嘘をつけるし、嘘を吐く事に関して罪悪感が無い人という感じです。
今後彼は何某かの問題行動を起こす、若しくは過去の問題行動がマスゴミで取り上げられるでしょう。
小池龍之介は僧侶のコスプレをした人であり、本当の僧侶では無いと思います。
非常に不愉快です。
kumawann氏の煩悩に私の煩悩が反応して不愉快になっているのだ!と断じて心を静めておりますが。
世のコメンテーター(及びコメンテーター気どり氏)は己が見えないのであるかと・・嘆く次第です。
ちなみに「つけ刃「って、私は仏教そのものについては何も語っていません。もしかして、コメントで因果律に触れた部分ですか?でも、因果律なんて、少なくとも江戸時代なんかじゃあ、庶民の間でも一般的に知られていたのでは? 浄瑠璃なんかでも当たり前に出てくるじゃないですか。「鮨屋」なんかでも。
まさか、お寺にこもってシコシコ御仏に仕えている方ではないですよね?
>小池君、文系なのですが、良く知りもしないのに生物学を引用して自説を固めることがあるのですが、生物学を専門にしている私に言わせて見ると『タワゴト』なのですね。というか、デタラメですね。文系らしい『ディベート』って奴ですかね?。真実・事実より、論破のほうが大切なのですよね?文系さんは。。。
あんたも付け焼刃程度の仏教知識で批判するなよタワケが。
いつかは瀬戸内某が自らの犯した不倫を批判するように、彼も己の所業を吐露し、それを批判できるようになるのでしょうか。
もっとも、寂聴尼のものいいも、いささかあっけらかんとしていて、戸惑いを感じるんですけど。
自殺幇助
そう言う過去があるのです。
己の為なら、我が子も始末したいらしい
天は全てを知っている。
それなのに、孫ができて嬉しいのはふつうの間隔とは
あきれてものがいえない。
人には筋の通し方というものがあり、それをめぐっては人それぞれなんでしょうけど・・。
義父母に素直に喜ばれて、その息子に裏切られた嫁やその両親にとっては、たまったものではないでしょうね。そこのところを慮れる人間なら、孫ができたことへの喜びは徹頭徹尾押し隠そうとするのでは。
自分自身にとって「すっきり」しないことでも、決断せざる時にはせざるを得ないのだし、せざるをえないときにはする、って人間の世の常では? 「すっきり」するなんてことを期待するのは、少し子供じみていませんか?
そりゃ、どんな経緯があるにしても血を分けた孫ができたとなればうれしく感じるのは人間のどうしようもない感情でしょうけど、それが人倫にもとる行為の結果だとしたら、そこで人は選択をせねばならないのでは? そして、そこで人としての真価が問われるのでは? ちなみに、不倫は犯罪ではないとか言って矢口某をかばうコメンテーターいましたけど、犯罪ではなくとも、今日の我が国ではそれを社会的制裁に値するものとします、司法の場でも。そうした反社会的行為の末にできた存在を手放しで「すっきり」喜んで良いものなのでしょか、社会の一員として?
私の父親の親友一家の例ですが、御長男さんが浮気の果てに外に子をなして離婚ということになったそうです。
結果、親友のご両親は、御長男さんのお嫁さんとご家族に申しわけないといって、御長男さんと絶縁、生まれてきた孫にも決して最後まで会わなかったそうです。当然、不倫相手の女性も嫁として認めず、敷居もまたがせなかったとか。
でもだからといって、すっきりされていたわけではないではなく、家庭内の会話ではふと未だ見ぬ孫のことに触れることもあったとか。
それが、ご両親の筋の通し方だったんでしょうが、これって異常でしょうか? もっとも、そこまで筋を通せる人って少ないと思いますけど。情か義理かということになると、人はえてして前者に流されるものですから。
私個人としては、偉いなあと思いますよ。相容れぬもののはざまで決断されたことでしょうから。むしろ、そういう苦渋の決断をさせた長男の親不孝は許せないですね。
では、孫の立場は? 親の因果が子の因果、としかいうほかありません。親が他人から恨みを受け、その報いを子が受ける。当たり前にあることです。理不尽であっても、親を選べない以上、仕方のないことです。人は自分の知らない「過去」をも背負って生きていく生き物じゃないですか? そうしたものです。それを差別がなんだとか言って法的に縛ろうとしたって、法が人の世がコントロールできることなんてたかが知れています。達観とまではいいませんが、呑み込むしかないでしょう。人の倫をふみはずした
親の元に生まれたがために、と。
去年小池氏の相談コーナーを検索した際
貴方のブログ記事を拝見させて頂きまして
その内容に今日まで違和感を抱いておりました。
孫ができて嬉しい
という感情を否定なさっている点です。
祖父母からすれば、不倫の末だろうが再々婚だろうが孫の可愛い顔をみれば気にならなくなる。
というのは普通の感情ではないでしょうか。
それ程、孫というのは可愛いものではないでしょうか。
それにもし、子供が自らの出自で祖父母から冷たく扱われていたら、その子供にとって物凄く不幸だと思われるのですが、貴方は道理が通っているからと、すっきりされるのでしょうか。
残念ながら私の感覚では、その方がとても"異常"に思えてしまいました。
最後の「自然でしょう」ってのもね。若年者から気づきを得ることもあれば、気づきを得ないこともある。その方が「自然」なのでは?
もしも社会通念や「そうすべき論」で考えた場合の回答を求めるのであれば、僧侶である小池氏へ相談はしないでしょう。相談者ご自身で小池氏に相談を持ちかけたのですから。
そして「社会通念」や「そうすべき論」で解消されない、相談者が気づいていないであろう領域の事について、小池氏なりの指摘をされたのだと思います。
記事を見て不快になったのは止むを得ないにしても、小池氏の年齢で相談を受ける役割を務める点について言及している点についても、的外れだと感じました。
何故なら、相談者の目的はその相手から自身の人生に役立つヒントを得さえすればいい訳であり、それを相談者自身が得られれば相談を受ける方の年齢は全くもって無関係だからです。
息詰った年配の方が、自分より若い方から気づきを得ることは自然でしょうから。
誰もがみんな自分の知識が正しいんだって言い争ってて・・
仏教は実践しないと意味無いものですね。
阪神淡路大震災当時、どなたか失念しましたが「僧侶は炊き出しや、ボランティアなどに多く参加した。それはいいことだろうけれど、僧侶ではなくてもできる。はたして仏教徒でないとできない事をした僧侶がいたのか」と、おっしゃっていた方がいました。
鑑真であれば「諸行無常である」「この世は所詮、地獄」と説いたのではないか?と。
被災地に赴き、そういうことを語れば石持ち追われるかもしれません。
しかし仏教本来の教えとしては正しいと思いますし、その言葉に癒される人もいると思います。
その教えが、たまたま「殺生はいけない」という世俗の倫理観と一致しているに過ぎません。
仏の教えと世俗の倫理とは、元々無関係と、考えます。
小池氏はご自身の書物でも書かれている通り、仏教本来の教えを紹介しているだけにすぎない、と考えます。
すなわち「あなたの苦しみの原因は仏教的に言うと、項であって、こうすると苦しみはなくなると仏教は教えていますよ」と。
ブッディストとして有名な宮崎哲弥さんも著書の中で本来の仏教と倫理の関係について否定的に記されています。
あなたこそこの言葉を実践しているような思考の持ち主かと・・
一休さんが倫理的にはムチャクチャな人だったことくらい知っているでしょう?
(誤)あの回答の仕方では、相談者にも読者にも通じませんよ。
(正)そういう言い方をあえてしているのを分かっていて、しかしここで批判するために知らないふりをする
>ただ、己の為だけに、人を見下し、操り、真理を悟ったような不利をする者。
>まさしく魔の所業です
貴方の言葉には慈悲の心が無いように思えるのだけど・・・
ただ、自身の過去を擁護したいのでしょう。
不倫の挙げ句に妊娠させた男性。
ただ、この義理兄に自身の過去が重なるのでしょう。
彼が、いくらか美化した過去を告白した著書の内容、あれはあまりにも自分に都合良い部分しかチョイスしてないでしょう。
と思い記載させていただきました。
世の人々が、名声やマスコミの宣伝、形やスタイル流行に流され、知らずに心に影響を与えられ最後には自身の人生すら狂わされてしまうことはとても怖いことです。
先ずは、その言葉に相手に対する慈悲の心があるかどうかで判断しましょう。
ただ、己の為だけに、人を見下し、操り、真理を悟ったような不利をする者。
まさしく魔の所業です。
言葉が足りず理解されないというところが問題なんですね。
実際に相談者さんが納得したのかどうかはわかりませんが、私もこれは解りにくかったと思います。
その問題点も含めて仏教的だと申しているわけではないですよ。
発言自体を目的化しているならマスターベーションと言えるでしょうが、これはただ、発言が目的地までの道として正しくなかったというだけの事だと思いますね。
紙幅の制限がありますので、難しいところなんでしょうが、もし仏教徒さんのおっしゃる通りの考えを小池氏がおもちだったとして、言葉が足りません。回答とては不十分、不適切の誹りはまぬがれなあいでしょう。
それに「とても仏教的」はよいのですが、それは仏教徒としての自己満足にすぎないのでは。実にマスターベーション的な発想だと思いますし、そこに仏教の現代社会における限界を感じてしまいます。
この何ポイントというのは相談者を苦しめている度合いのことです。
「あなたは悪いことをしている悪い人です」といった言い方も、それは誰に対して悪いことをしている誰に対して悪い人だと言っているのかを知って頂くと印象が変わると思います。
小池さんは、相談者が自らに対して悪い事をしていると責めているんです。
この、「悪」や「罪」の捉え方という点でも確かに世間一般の考え方とはだいぶ違いますね。
とても仏教的です。
小池龍之介さんが問題視しているのは相談者の「苦」です。
どちらが悪いのかをジャッジしているわけではないのですよ。
もしも、主人の両親が相談者であれば、「あなたはごくごく普通です。問題ありません」とは言いません。同じように言います。
彼は相談者が自ら行っている「苦の生産」を止めさせようとしているに過ぎません。
「世の中の善悪は、わが輩が決める。他人は、わが輩の基準に従うべきである!!」これは言い過ぎと思われるのも仕方がないかも知れませんが、こういった甚だしい思い違いは誰もが心の奥底で思っていることです。
普段はそれに気付かずに「そんな事は思っていません」と言うでしょうがね。
何故なら「それは言い過ぎである。私はそんなに良識のない人間ではない」という思いも同時に持ち合わせていて蓋をしているからね。
仏教僧侶に対して残念だと思われる経験をされたお話し。きっと裏切られたような気持ちだったのではないでしょうか。
それでも「御坊様」という様な敬称を意識していただけること。
多くの僧侶は、自分たちがいかに日本社会で大事にされているかをもっと自覚するべきなのだと感じています。
こちらのサイトにたどり着いたのは、「僧侶 人生」と検索したらあたりました。
勉強のため、時々覗かせて下さい。
私は、我が家は比較的神仏を大切にする家庭に育ったのですが、多感な年頃に複数の”残念”な御坊様に出会い、彼らを定点観測する(せざるを得ない)環境を得たものですから、以来、我国の仏教に対してはある種ネガティブな感情がぬぐえていません。
が、これもそうした坊さんに向けられるべきものであって、日本仏教そのものに向けらえるべきではないのかもしれませんね。
個人的には、宗教というものにもう少ししっかりと向き合うべきと思っております。
今後ともご教示を賜りたく。
本家仏教として伝えられている事は「諸行無常」と「因果応報」という事で、他の事は伝わった地域の風土に合わせて変わっています。例えば「輪廻転生」というものも、バラモン教の厳しい身分差別の中を生きる背景から生まれている考え方です。
■諸行無常:
物事は変わっていく。
■因果応報:
全ての事物には計り知れない複雑な理由が重なって成り立っている。
釈迦は自分のために修行していた人でした。同時に、他者への思いやりもある人でした。(という事が伝わっています)
釈迦の死後数百年後に、日本語で龍樹と呼ばれているインド人と思われる人が、その「思いやり」の部分に着眼し、「諸行無常」だから法も変わるとして、仏教に他者を救う考え方がが生まれました。(大乗仏教)
その後は仰られる通り、中国フィルターを経て日本に入ってきますが、日本の風土、歴史とともに変化して今に至ります。
主様の仰る本家仏教はもうどこにもありません。日本の仏教は「日本仏教」として本家なのです。
ちなみに、般若心経は先祖供養にはなりませんが、仏教に帰依するという事=仏教に賛成する祈り=自分も他人も救う祈りとして、仏壇等の前で詠むのは正しい事です。
仏教に忌避感をお持ちかもしれないとの事ですが、どうか少しでも接しやすいものと感じていただければと思い投稿させていただきました。
失礼な発言がありましたら悪意はございませんのでお許し下さい。
「般若心経」偽書説について私は論いていませんので、なぜ「あなた方」なのか? 日本語大丈夫ですか?
もっとも、偽書か否かはさておき、毎日仏壇を前に詠むべきものではないということをおっしゃる宗教家にはお目にかかったことはございます。ただ、それだけです。
それにしても、偽書か否かがどうでもよいというのは暴論でしょうね。偽書に宗教的真理が存するのか、というと普通に考えて、疑ってしからるべきでしょうし。
「普通のお坊さん」って何でしょう?『般若心経』が偽経かどうかなんてどうでも良いことで、そこに書いてあることが理解できるかどうかです。
理解できない凡夫が何を言っても無意味です。
経験してから批判しましょう。
日本の仏教ですが、そうですね、本家というか釈尊のそれとはずいぶんとずれてしまっていますね。伝来の途中の”フィルター”の影響を受けてしまった部分もありますし。
宗教、神仏に対するアレルギーは少ない方と自負していますし、毎朝仏壇、神棚には手を合わせ、柏手うちますが、仏はどうもです。身近で生臭を多く見過ぎたせいもありますが、やはり、本家から変質してしまっていることによる忌避感もあるのかもしれません。
小池君、文系なのですが、良く知りもしないのに生物学を引用して自説を固めることがあるのですが、生物学を専門にしている私に言わせて見ると『タワゴト』なのですね。というか、デタラメですね。文系らしい『ディベート』って奴ですかね?。真実・事実より、論破のほうが大切なのですよね?文系さんは。。。
釈迦という人物自体、一般的には理解されていませんよね。日本の仏教は、貴族のものとして発展していますし、平安時代は荘園を作り民衆から搾取したり、そもそも僧侶に貴族の子弟がなるのが慣例って部分もありました。鎌倉仏教を見ても、釈迦の述べたことから逸脱した部分も多いですね。そういう意味で、日本は、仏教を正しく伝来されていない国の1つとも言えますね。
釈迦は宗教やりたかった人ではないのですね。死後は法に従って欲しいと述べていますが、基本的には、修行者ですね。つまり自分自身が『知行合一』が出来ないということを良くわかっていた存在なのだと思えますね。彼の言葉が記されているとされるお経を読めば、いかに彼が自分自身、思っているように生きられないのかが書かれていて、面白いですけれどね。
日本で有名な『般若心経』も、実は偽経である可能性が極めて高いのですね。まあ、そんな感じで・・・小池氏は、釈迦の世界観をもう一度!って感じで頑張っているようですが、正直、彼自身が、物凄くゆがんだ存在であることは言うまでもありません(笑)
この手の坊さんを支持する層ってのが・・・どのあたりなのか・・・ちょっと私にはわからないのですが、まあ、物凄くインチキ臭いのは言うまでもありません。ただね!今、人間について非常に深い考察が科学の世界で為されていることは事実で、脳科学だけではなく生物学関連でも、極めて面白いことになっていますが・・・このあたりの論文は、専門的な知識がある程度無いと読めないという意味で、『悩んでいる人』が手に取って納得できるようなシロモノではないとも言えますね。
個人的には・・・今時のマスコミは、本当に売上げに苦しんでいて、質ではなく、単に受ければ良いと考えているのだと思います。このお坊さんの回答って、過激でしょ?(笑)こうした刺激的なものを題材にしないと売れないのでしょう。正統派の本は、本当に売れてませんからね。