くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

綸言汗の如し・・・: 昭和天皇の大御心

2006年07月27日 | Weblog
大いなる衝撃を受けたのは、筆者だけではあるまい。

報道によれば、昭和50年11月以来、靖国神社への御親拝が途絶えたのは、バルカン政治家三木の「公人/私人」発言でも、内閣法制局の国会答弁に原因があるのでもなく、先帝昭和天皇御自らの「A級戦犯」合祀に対する「お心」ゆえであったことを記す故富田朝彦宮内庁長官のメモが発見されたという。

「お心」とは、昭和53年に当時の松平永芳宮司(春嶽の孫)のもと「A級戦犯」合祀への先帝の不快感、である。

筆者には、「衝撃」としか他の言い表しようがない・・。なぜならば、筆者は、「A級戦犯」分祀不要論者である。それに、昭和天皇が昭和50年を最後にお隠れになるまでついぞ靖国を御親拝されなかったのは、状況証拠的に見て、「A級戦犯」の合祀よりも、三木内閣下での(馬鹿げた)「公人・私人」論争や上述御親拝直前の内閣法制局の国会答弁が原因と考えてきたからである。

現憲法下で、天皇あるいはそのお言葉なり思し召しが、政治向きに利用されるようなことがあっては、断じてならない。もっとも、天皇と政治が不可分のものなどというのは、現実に目をつむった空論に過ぎず、実際問題、政治と宗教の問題同様、完璧に分けるといこと事態が不可能なのだ。不可避に灰色の部分があれば、天皇・皇室の存在が、天皇陛下・皇族の方々の意思とは無関係に、政治に何らかのかかわりを持つなり、あるいは影響を及ぼすことがあるということは、皇室外交を例に取るまでもなかろう。天皇・皇族の政治への不可避のかかわりをもって、天皇制度に疑義を差し挟むことは可能であろうが、同時に、天皇・皇族が政治に、たとえ一般国民と同じようなレベルですらも、関与できない現状こそがおかしいとの批判もこれまた可能なはずだ。いずれにせよ、現行憲法の第4条が、天皇の政治的権能を否定している以上、天皇は自らの意思で政治にかかわることはできないし、また、政治家も天皇の内々のお考えを、政治に利用するようなことがあってはならない。故に、今回のメモ(以下富田メモ)にしても、かりにそこに記された昭和天皇の「お心」が真実であったとしても、政治家がそれを国家による戦没者追悼の問題と絡めることは断じてってはらぬことなのだ。

同時に憲法第20条により、政治が靖国神社による「A級戦犯」合祀の問題をどうこうすることは、違憲行為である。例えば古賀誠や小沢一郎などは、バッジをはずして分祀論と論ずるべきなのだが、そんな筋の通し方もクソッ食らえの御仁なのだ。富田メモが出てきたことで、これをたのみに分祀論をぶつ不心得な政治家が更に出てこぬことを願うばかりだ。

しかし、現実にはそうはいくまい。靖国問題は既に内政外交の問題となってしまっているわけで、天皇の「お心」が公になった以上、それが政治問題としての靖国問題に影響を与えぬなどということは、到底考えられぬ。しかも、マスコミが小泉首相をはじめとする政治家に富田メモについてのコメントを求め、それをメディアに載せて発信することにより、政治と宗教、そして天皇との憲法上あるべきではない状況を醸成している以上、もはや、靖国問題は富田メモの存在を無視しては語れなくなった、といことであろう。換言すれば、富田メモによって、政界に限らず、分祀論が今後更に勢いを増すことになるであろう。

もう一つの焦点は、靖国神社の今後の対応であろう。富田メモによれば、昭和天皇は、「A級戦犯」14名の合祀を断行した前出松平宮司に批判的であった。にもかかわらず、靖国神社は「分祀は教義上不可能」という従来通りの主張を堅持していくのか、それとも先帝の「お心」に沿うかたちでの対応を選択するのか。靖国は現在朝敵藩の殿様を南部宮司にいただいている。賊軍の殿様宮司としても、合祀維持か分祀かの選択によっては、再び叡慮に矛を向けるか否かの選択にもなろう。先帝が敬慕した明治天皇の思し召しにより建立され、その多くが先帝を祭主とする大祭において合祀された「神」を祀る靖国神社が、先帝の「お心」にどこまで従うのか従わぬのか、すなわち分祀不可が大御心に優越する教義であるのか否か・・・。

靖国がかつて祭主をされた昭和天皇の「お心」にもかかわらず、分祀不可を堅持した場合、天皇御親拝の復活は夢の又夢になるばかりか、現在行われている勅旨代参にも影響を及ぼさぬとも言い切れまい。この点に関しては、遅くとも今年の秋の例大祭にその答えを見ることができよう。また、首相をはじめとする政府関係者は言うに及ばす、これまで8月15日の参拝を続けてきた超党派の国会議員の今後の出方にも影響が出る可能性は大いにあるだろう。現に、最近の朝日新聞の電話世論調査によれば、昭和天皇の「お心」を重視するとした回答者は、「大いに」と「ある程度」をあわせて60%を超えている。退陣間もない小泉氏はいざ知らず、世論を無視できぬ他の政府関係者や政治家にとっては、重い数字ではないのか。そればかりか、この数字は、靖国への一般参拝者の「足」にも影響が出ることを示唆しているのではないか。昨年の終戦記念日にはおよそ20万人の参拝を見たが、今年は果たしてどのような数字が出るのであろうか。昨年度を下回ることの予測は容易かもしれないが、昨年度どころか例年をも大きく下回るなどということになれば、一宗教法人としての靖国の先行きをも懸念せざるをえなくなるのではなかろうか。

靖国神社もいつまでも沈黙を続けるわけにはゆかずば、何らかの意思表示をせずばなるまい。8月15日まで残すところあと3週間である。

はたして富田メモは、退任前にもう一度あると予測されている小泉首相の靖国参拝に影響をあたえるのだろうか? 小泉首相自身は、記者の質問に対して、参拝は自らの心の問題であり、したがってメモが影響を与えることはないとの反応を示したが、筋論としては正しい。もっとも、心の問題である以上、昭和天皇への尊崇の念(小泉氏の「心」にそれがあればの話だが)ゆえに、参拝を取りやめるとい選択もなくはない。これもこれで、一個人の「心の問題」としては、筋の通った選択だ。しかし小泉首相にしてみれば、首相としての有終の美を飾ろうとするのであれば、富田メモ後の参拝の決断は必ずしも記者団に明快に語ったほど容易なことではあるまい。参拝取りやめとなれば、最後の最後まで8月15日参拝の公約を実行しなかったとのそしりを受けるばかりか、最後の最後での腰砕けは有終の美とは程遠い政権の締めくくりである。一方、首相が参拝を断行すれば、皇室典範改正問題で一部からその拙速さが批判され天皇・皇室観を詮索された氏の「尊皇」度が再びそして更に疑われることになり、これもこれで有終の美とは決して言いがたいものになろう。

ポスト小泉の総理総裁候補、特に以前から靖国への参拝を明言している安部普三k官房長官にとって、ことはより重大にちがいない。富田メモは不可避に「縛り」となることは間違いあるまい。先帝の「お心」が政治とは無関係なものであるべきであろうがなかろうが、小泉後継の総理総裁が自らの参拝をどのように位置づけようが、天皇のお考えを無視したかたちでの参拝断行は、その首相にとって政権運営を容易ならざるものにすることは容易に予測できよう。


綸言汗の如しという。昭和天皇の意図されたところではなくとも、こうして大御心が明らかにされた以上、それに一顧だにせぬわけにはいくまい、という。靖国参拝と国家としての慰霊のあり方を考えるならば、尚更のことである。

但し、先帝の大御心を尊重するというのであれば、その意味するところを正確を規して汲み取らねばなるまい。先帝の松岡嫌いは、以前からよく知られるところではあり、それ自体今更驚くべきことでもない。それに、先帝が具体的に言及されたのは松岡、白鳥であり、すべての「A級戦犯」を指してその合祀に不快感を持たれていたとは富田メモからは読み取れない。この点に関しては、メモへの更なる検証が必要であり、性急なすべてに「A級戦犯」分祀要求につなげるべきではあるまい。
すなわち、先帝の大御心の意訳や歪曲は、不敬非道のあるまじき行為は断じてなるまい。

また、先帝の「お心」を自らの政治的思惑や、思想心情の具現化のために利用することも、これまた断然あるまじきことである。その点、読売、朝日の社説などは、まさにそのあるまじき好例である。両紙ともこぞって、富田メモをもって、従来から唱えるところの靖国ではない戦没者追悼の必要性を主張する。昨年以来の靖国問題をめぐる読売、朝日の共闘には筆者も驚かされるとともに、あきれている。もっとも、読売新聞主筆ナベツネは元は共産党の「転向者」である。一度転向したものが再び転向しないとは限らない。転向とはいわずとも、「転ばない」とも限らぬことを、ナベツネ氏は身をもって証明してくれたわけだ。所詮、転向者などという類の生き物は信用できないのだ。

以前、筆者はあらゆる宗教と無宗教を想定した国家による戦没者追悼のあり方を提唱した。そうすれば、靖国は独自の宗教色を失うことなく国家追悼施設のひとつとしての地位を得ることができるのだ。そうなれば、首相の参拝のみならず天皇陛下の御親拝を仰ぐことも可能になる。富田メモは確かに分祀反対論者の筆者に少なからぬ衝撃だが、筆者の構想をいささかも揺るがすことはない。一部政治家は靖国の国家管理を主張するが、靖国だけがその対象ならば、無宗教化はさけられず、靖国は首を立てには振る舞い。そうなれば、昭和49年の繰り返しに過ぎなくなる。靖国を靖国のままに、憲法にも抵触せずに、国家追悼施設化するには、改憲なくば、我が案にかわるものはあるまい。


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