被害者感情で歴史が確定されては、たまったものではない。
それがまかり通るならば、中国様の言ったことはそれが白髪三千丈的な水増しの内容であろうとも、デッチ上げであろうとも、否定してはいけない「史実」として認定せねばならぬことになる。
「被害者」の「証言」が絶対の真実であるという前提がまかり通るのであれば、刑事裁判も、検察にとっては今よりは随分楽になるだろう。ただ、冤罪や不当な量刑が増えるだろうが。
被害者感情があたかも絶対のものであるかものような、沖縄県、沖縄県民の物言い、横暴にして傲慢、これほどの不愉快はない!何様のつもりなのだ!
それがまかり通るならば、中国様の言ったことはそれが白髪三千丈的な水増しの内容であろうとも、デッチ上げであろうとも、否定してはいけない「史実」として認定せねばならぬことになる。
「被害者」の「証言」が絶対の真実であるという前提がまかり通るのであれば、刑事裁判も、検察にとっては今よりは随分楽になるだろう。ただ、冤罪や不当な量刑が増えるだろうが。
被害者感情があたかも絶対のものであるかものような、沖縄県、沖縄県民の物言い、横暴にして傲慢、これほどの不愉快はない!何様のつもりなのだ!
ミャンマーで亡くなった記者さんのカメラを、日本はあると言っている。
ミャンマー政府は無いと言っている。
この場合も、ミャンマー政府は日本の言い分を聞かないべきだと言う事にるが
果たして本当にそれはあたっているのだろうか?
一方の言い分に耳を傾け、もう一方の言い分には耳を塞げとも言っていない。
集団自決に関して言えば、諸説あるのだから、教科書は不偏不党で行くべきではないかと、その意味で文科省の検定意見は正しい判断だと考えるのです。文科省は、軍の関与、強制など一切なかったのだとは言っていない。
それに対して、沖縄県民や、沖縄県の言い分は、まさに、その逆ではないですか。「我々の言い分以外は歴史の歪曲だ、事実を隠蔽するやり方だ!」と言わんばかりではないですか。座間味の係争も、渡嘉敷の関係者の証言もくそくらえ。「そんなの関係ねえ!」と言わんばかりの姿勢ではないですか。これを横暴、傲慢と言わずして何といいましょうや? 「ゴーマンかましてよかですか?」をまさに地で行く行為かと。
沖縄の集団自決を日本人カメラマさんの事件に置き換えるのは適当ではないですね。後者は一件のみ発生した事例。前者は複数あり、それぞれによって事情や発生原因が異なる'可能性’がありますから。もっとも、ミャンマーのケース、沖縄県の流儀でいけば、「絶対カメラはあるのだ。無いなんてウソだ! 真実は『カメラは軍事政権の手中にある』以外にはないのだ!」ということになりませんか?
それに、「あなたの身になる」とはどういうことでしょうか?