くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

ファリード・ザカリアが盗用・・・

2012年08月11日 | Weblog
欧米のジャーナリストの日本を含めたアジア関係記事の内容がひどいなか、ザカリア氏には個人的に一目置いてきたのだが・・・。

すばらしい頭脳の持ち主であっても、越えられず逃れようとした「壁」があったということなのか。

再起を期待したい。
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谷垣禎一という”無能”政治家

2012年08月11日 | Weblog
勉強では秀才なのだろう。

だが、政治家としては、「無能」の一言に尽きる。

厳密に言えば、政局における「無能」、「音痴」というべきか。大平亡き後、鈴木善幸を経て、宏池会の連中は「公家集団」とか呼ばれてきたが、宮沢喜一含め、党人政治家としては、政局を扱うことに無能者が多すぎた。加藤紘一しかり。そして、加藤の乱でTVカメラの前で加藤とともに涙した谷垣。あの時点で、谷垣という政治家の限界は十分にさらされたはずだったのだが・・。加藤の乱それ自体、j巣に杜撰な謀だったわけだが、衆目にあの無様をさらして何の得になる。森首相を倦む国民世論の支持をむしろ勝ち得るとでも、思ったのか。まさかとは思うが、いずれにしてもその程度の政治家なのだ。

今回、谷垣は自民党にとっての政局という点からいえば、ついに千載一遇のチャンスを逸したというか、自ら放棄してしまった。自民党にとってにとっての好機が、国家、国民にとってのそれとは限らぬのだが。

野田にまんまとしてやられたか、あるいは野田の後ろでいと引く財務省にまんまとはめられたか。

民主党も終わりだが、自民党もこれで終わった。

自民総裁としての谷垣再選もあるまい。よもや再選すれば、本当に自民も朽ち果てたことの証左。かといって、他に人材はいない。石破も限界は見えた。石原では御父上には気の毒だが役不足。期待の林はまさかこんなときにおいそれと名乗りを上げるほどバカではない。安倍ももう出てくるべきではないが、もう少しほとぼりが冷めてからと理解するだけの脳みそはあるはずだ。

まあ、これで良いのかもしれない。後は政界再編がどういうかたちで始動しだすかだ。
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裏切り者たち:五輪シンクロ井村雅代と海外企業に技術売り渡す日本人技術者たち

2012年08月11日 | Weblog
両者は基本的に同じ穴のむじな。

「私」しかない人間。

何をどう屁理屈もこねようが、自己満足できる場所がほしい。金がおしい。名誉が欲しい。それしかない。それが先だったから外に「身売り」したんでしょ、彼女も、彼らも、。所詮我が身かわいさ。

それだけ。

そのためなら、自国にも、同胞、同僚にも平気で矛を向けられる。


売国奴ならぬ売国女。裏切り者です。

まあ、そんな外道ババア一人いなくなっただけで、情けないのが日本ジンクロ陣。選手よりも育成側が「無能」なんだろうね。

それにしても、なんでこの世代、売国が多いんだろう?

やはり、教育だろうね、教育。

これからの日本こそ、国民教育、愛国教育を必要としているのでは?

でないと、グローバル化のこの世の中、日本は、日本人はホント、消えてなくなりますよ。グローバル化で国家が消える? そういえば、ちょっと昔まで、多国籍企業が国家にとってかわるなんて言っていた経済学者やら
企業人、経済評論家結構いましたけどねえ・・・。ものごとには順序があります。まだまだ、我々、われわれの子供たちの目の黒いうちは、個人は基本、国家に属します。その属すべき場を失ってしまいますよ。もっとも、何とか人民共和国日本族自治区でもいいっていうなら、別ですけど。



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渡辺淳一の反天皇論: 『週刊新潮』の「あとの祭り」

2012年08月11日 | Weblog
渡辺氏、日の丸はお好きなようだが、君が代は随分お嫌いらしい。それについて氏は、「あまり素晴らしいとはいいかねる」としたうえで、以下の抜粋の通りに述べておられる。まず、

 その証拠に、この国家を大きく口を開けて、明るく歌っている日本人はほとんどいない。よく見かけるのは、大相撲の千秋楽の日だが、みな口を小さく開け、しぶしぶ歌っている感じ。

「はあ?」である。全集までお出しの大作家先生にしては、まるで子供の作文だ。いや、夏休みの宿題にいやいや書かせられる読書感想文にも劣る、とはでは言うまいが。「すばらくしくない」と言っておいて、その「証拠」がご自身のあくまでも個人的な印象論。それは「証拠」とはいいませんよ、大先生。そもそも、日本語の使い方として、それはおかしい。それとも、「オレは大作家なのだから、オレが見たもの、感じたものは、間違いなく真実なのだ」とでも?

 それに、国家は「明るく」歌うものだとでも? それも一面的、一方的な決めつけですよ。国家には血なまぐさい歌詞や背景をもって作られたものも少なくはないですが、それを「明るく歌え」とは、大先生、血を見るのがお好きなんですね。中国の国歌、そもそもは映画に出てきた抗日歌ですが、あれは歌詞からいって「明るく」歌うよりも、力んで気持ちを高ぶらせてうたってこそなのでは? ヘラヘラして歌っては、抗日に命ささげた同志、同胞に礼を失しますよ、中国人としては。


 大先生も妄言はまだまだ続きます。先生のおっしゃる歌いっぷりについて、「無理もない」と。ところが、なぜ「無理もない」のか、その理由には直接触れず、君が代の歌詞を載せ、その後は歌詞批判。

おいおい、先生。自説、自論をむりやりあなたの印象論のなかで「しぶしぶ歌っている」人々の心理状態と同一化するって、それはあなた、もう無茶苦茶ですし、あなたに「君が代」を歌っている姿をウォッチされた方々に対して失礼ですよ。他人の心のうちを勝手に詮索を超えて、決め付けてしまうなんて・・・。いかに大作家先生でも許されません。

 では、一体歌詞の何がいけないと大先生はおっしゃるのかというと、それは冒頭の「君が代」がいけないと。大先生「君が代」を「天皇が統治されるこの世」と解釈されたうえで、次のようにおっしゃるんです。

 だいたい、天皇が統治する時代など、とうに、第二次世界大戦で終わったはず。それから70年近く経っているのに、いまだに「君が代」などと歌わせること自体、疑問である。

今度の「はあ」は「?」ではなく、ため息の「はあ」、つまり「はあ~」です。あのねえ大先生、その「天皇が統治する」っていうあなたの解釈自体、それ、あなたの自前の解釈でしょう。じゃあ、「統治」を「君臨」と変えたら、あなたどう反応します。なぜ「君臨」ではなく、「統治}なんですか。「統治」だとか「君臨」だとか、近代になってから事実上頻繁に使われるようになった言葉ではなく、「天皇のおはします世」とか「天皇をいただくこの世」って訳でも、「第二次世界大戦で終わった」って相変わらずおっしゃいますか。戦前、戦後ともに「天皇」をいただいておりますよ、我が国は。日本国憲法の英訳において、皇位は「throne」。つまり「君主の地位」ですから、政治への関与や権能はさておき、我が国の国君であることには、かわりなしということなのでは。起草をしたGHQの連中もそう意識していたから「throne」としたのでは。「象徴」すなわち「symbol」ってのも、英国君主をさす言葉からの拝借品ですしねえ・・。

 「君が代」を「天皇が統治する」とするのも、またそれを戦前までの日本史の実際と同一視するのも、歴史学的には大いに、大いに、議論、いや批判、反論の余地のあるところでしょうなあ・・・。いかに大作家先生といえども、歴史学に関しては「ど」素人。ご自分の土俵ではないところで好き勝手いえば、そりゃ馬脚ものです。いえ、それ以前に「君が代」反対論を天皇の在り方云々をもって論じられるのであれば、少なくとも天皇をめぐるこれまでの諸学の研究成果に親しんでおくべきでした。それを無視して「公器」での言いたい放題は、大先生の影響力を考えれば、ちょっと無責任。ちょっとずに乗りすぎでは?

 こじつけではなくとも人々の心のうちや歌詞の独善的解釈の繰り返しで「君が代」批判をする大先生の真意は?これが大作家としての傲りゆえの独善なのか・・・。私はそうは思わないな。いや、かりにそうでも、君が代のしかも「君が代」がいかんってのは、事実上の「反天皇論」。

不倶戴天、こういう輩とはともに天を戴かず。








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新型アコードに見るホンダの”病”の深刻さ

2012年08月11日 | Weblog
クーペのコンセプトを見て、「大丈夫か」と思ったものだが、やはり・・。悪い予感は的中した。

またもや、カムリに続き随分とコンサバなデザインで攻めてきたものである。

確かに、ヒュンダイソナタのデザインは好き嫌いがはっきりする。かつて、斬新さでこけたフォード・トーラスという例もある。

が、個別の車種の販売台数うんぬんということだけではなく、メーカーのブランドイメージとか、それが市場において及ぼす影響とかを考えた場合、「無難」路線ばかり追求するというのは、長い目で見て果たして
利口な選択と言えるのだろうか。

トヨタがそれをするなら、いかにもトヨタらしいで納得してしまうのだが(かといってあの会社の将来にとって良い目が出るとも思えないのだが)、ホンダの場合は・・。

この会社、かつては今のようなことはなかったと思う。が、近年特徴のない、良い意味での「らしさ」のない車ばかり出してくる。それが米国で酷評されたシビックであり、そして今回のアコードということになる。
以前から感じていたが、この会社は明らかに「大企業病」的な症状を呈している。かつて知人の社員は、自由闊達の社風を自慢していたが、どうやら近年この会社は意思決定プロセスに問題があるように思えてならない。遅いのだ、遅い。世の中がよく見えていないのではないかとすら感じる。そのせいか、自社独自の「イズム」みたいなものが、宗一郎以来のそれをことあるごとにひけらかすところがある。が、実は、もう創業者の精神などほとんど残っていないのではないのではと疑わざるを得ない。味方によっては、もう創業者がどうのとかいう「昔の名前で出ています」みたいな発想それ自体捨ててしまった方がよいのかもしれない。

新型アコードがホンダという企業の病を象徴しているとすれば、それは外装の目新しさの無さ(まったくないといっても過言ではあるまい)、つまらさなのみならず、内装のバラバラさ、とりとめのなさにも表れている。一体、この車はどういう開発プロセスを経て出てきたものなのか。旧型アコード同様、ぎりぎりまですったもんだした挙句の陀あ今日の産物ではないのか。

いまや生産台数は現代の半分以下。

国内市場では鳴かず飛ばず。欧州市場においても、ホンダ車は見る影もなきに等しいありさま。北米でも今のままでは早晩・・・。

いい加減に宗一郎の残像にしがみついて、「ウチは他とは違う」みたいな妄想から解き放たれないと、やばいと思いますよ、この会社。
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ZIPPEIの悲劇

2012年08月11日 | Weblog
飼い主、ぶん殴ってやりたい気分です。

もうこんなの単なる事故では済まされないですよ。ヒドイ、かわいそうとしか言いようがない。


で、日テレさん、どうします?
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