くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

死刑氏名公表は当然

2007年12月09日 | Weblog
私は死刑廃止論者ではない。それどころか積極的肯定派だ。

死刑に限らず人が人を裁くことには、当然冤罪という取り返しのつかぬ過ちが生じる恐れもある。志布志事件などは実に悪質なケースだ。ただ、人間集団があり、その中で社会全体ないしは他の構成員の生命、財産を脅かす悪徒が不可避に存在する以上、人が人を裁くという行為もまた不可避である。そして人がミスを犯すということも不可避である以上、人が人を裁く場合に生じ得る過誤は、社会・集団の安寧を保つためにはある種やむを得ず払う覚悟をせねばならぬコストではないだろうか。

人権というものに軸足を置く立場からは批判は覚悟だが、世の中には「要らない人間」、「生かしておいても仕方のない」人間というのもいる。例えば今回死刑執行が明らかになった藤間。まだ生きていたのかと驚いた。あの類の人間を生かし続けることに一体何の意義があるのか?人権というものを至上の真理として仰ぐのであれば、いかにあのような凶悪犯だりとても、人権尊重の対象でなければならず、死刑すなわち人の命を絶つという究極の人権侵害は許されざるものである、という主張はあるのかもしれない。しかし、人権思想を掲げれば我々個人ならびに社会の安寧、秩序がおのずと保障されるというものではない。一方、まれな可能性として、かりに我が国死刑にかわり終身刑が制定されたとして、何らかの事情で受刑者が五獄外に出るという可能性がないわけではあるまい。脱獄という可能性がゼロとは言い切れぬ。例えば、上記の藤間が脱獄したとしよう。世間の不安ひとかたならず、再犯の恐怖におびえずばなるまい。こうしたリスクや起こりうる不安を人権保護のためのコストと言うなら言えば良いが、私はそのようなコストは払いたくない。コストを払うなら前述のコストを私は選択したい。終身獄につないで無駄飯食わせてまで生かしておいて何になるというのだ。何の役にたつ。何のためになる。我々は害虫、害獣を駆除するではないか。人間様だけは別格などという無責任なオレ様主義、「人間様万歳主義」はよしてもらいたい。

死刑囚は刑が確定し執行されるまでの間、無駄飯を喰らい続ける。そしてそのエサ代は我々国民の血税から出る。被害者家族のいくばくかの血税も、家族を手にかけた相手の飯となる。死刑囚の飯代等必要経費が死刑囚自身の完全自己負担ならともかくも、我々の血税のいくばくたりとも使われているのであれば、我々はどの死刑囚がいつ処分されたかということを知る権利はあるはずだ。我々の税金が使われているからと言って、国家機密にかかわる情報まで開示せよなどという子供じみたバカげた要求をするつもりはない。だが、死刑氏名公表は国家の存亡にかかわるような機密の類では決してないはずだ。

死刑囚家族の感情を慮ってというが、では、被害者家族の感情はどうなる。この点をめぐる議論ばかりは、所詮見解の相違を持って、堂々めぐりに終始してしまいしうだ。理屈をもって一方が他方を論破することは、いずれの立場を採ろうとも、困難至極であろう。なぜなら、それが感情に根ざした問題だからだ。感情とは理屈では屈しえぬ難物であることは、今更言うまでもあるまい。特に世の亭主方は女房殿との日ごろのやりとりで十分承知のはずだ。利口な女房方は、女としての自身に何としても理屈と折り合えぬ性があることを自覚しているはずだ。私が自身の感情に依拠してこの問題に対する立場を決めるとすれば、やはり被害者家族と感情を共にしたいと思う。

国際的にはEU等が死刑廃止に躍起のようだが、欧州人の偽善というか木で鼻をくくったような高慢ちきな自己完結ぶりには反吐が出る。帝国主義の昔より変わらぬ
上から下に見たような意識が感じられて、それこそ感情的に受け付けぬ。人権を縦にとり死刑廃止を叫ぶのであれば、過去のみならずいまだに欧州の外で直接間接に繰り広げる非人道的な行為の数々をまずは止めてみてはどうか? 

「欧米か!?」がうけたが、「欧米では」という主張にいまだ弱い日本人は相当数いると見受けられる。「欧米では女性の年齢を聞かないものよ」なんて勝ち誇った顔でいう女性方もいるが、「ここは日本ですが?」、「聞かれて恥ずかしくなるような歳まで生き恥晒すなよ!」と内心思うのは私だけだろうか?。 それはさておき、EUがどうだからと言って、我が国がそれに安易になびく必要はない。現在ただ今の世論は死刑存続派が圧倒的に優位だ。今はそれでいいのではないか?
コメント
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