数日前、2歳児の保育園児が亡くなった事件。園長に対して子供を返せと叫んだ父親の気持ちはいかばかりか・・・。
二人の子を持つ親として、何とも心の痛む出来事である。子の親となってから特にこの種の悲劇を耳目にするのが辛くなった。
それにしても杜撰な安全管理をしていたものだ。例えば、学校などでの避難訓練。避難誘導した後に生徒の所在を点呼確認するが、その際出席簿を使うのは常識。頭数の確認だけでは十分ではない。緊急避難の際、教師は出席簿を肌身離さずは、原則中の原則。今回はその頭数の確認すらもしていなかったのだ。その結果、プリンがひとつ余ってやっと亡くなった幼児の不在に気付いた始末。安全管理の初歩の初歩を怠った結果としか言いようがない。
それに、あの園長の言葉づかいも気になった。あの若い園長、「会社」とか「わが社」とか言っていなかったか? 保育事業もそれが私の事業として行われる以上、儲けてなんぼであることは否定し得ない現実であり、儲けるな、儲けを気にするなという方が無理な話だ。ただ、よそ様の子供とその命を預ける立場にしてみれば、「会社」などの言葉を耳にすると、我が子が営利事業の具にされていたかのような印象を受け、決して耳障りのいいものではない。あの状況で、あの若い園長にそこまで思慮を働かせる精神的な余裕もなかったのだろうが、あの言葉によってあの保育園の本質が露呈されたとの見方も可能なのかもしれない。
子を亡くした親は、いつまでたってもその子の年を数えるという。これほど辛いことはあるまい。子供が犠牲になった責任は保育園にある。ただ、親としては、なぜあのような保育園にわが子を預けてしまったのかという自責の念から逃れることもできまい。それこそが子を亡くした親の悲劇なのだ。その悔恨と一生付き合わねばならぬ悲劇・・・。他人がどのような暖かい言葉をかけようとも逃れることのできない悲劇・・・。
親はわが子のためなら良かれと思うことは何でもしてやりたい。これが親としての当たり前の情というものだ。ただ、親が子にしてやれることにも限界がある。守ろうとして自分一人では守りきれるものでもない。ただ、何の因果で・・・、としか言いようがない。本当に何とも言いようがなく悲しいことだ。
二人の子を持つ親として、何とも心の痛む出来事である。子の親となってから特にこの種の悲劇を耳目にするのが辛くなった。
それにしても杜撰な安全管理をしていたものだ。例えば、学校などでの避難訓練。避難誘導した後に生徒の所在を点呼確認するが、その際出席簿を使うのは常識。頭数の確認だけでは十分ではない。緊急避難の際、教師は出席簿を肌身離さずは、原則中の原則。今回はその頭数の確認すらもしていなかったのだ。その結果、プリンがひとつ余ってやっと亡くなった幼児の不在に気付いた始末。安全管理の初歩の初歩を怠った結果としか言いようがない。
それに、あの園長の言葉づかいも気になった。あの若い園長、「会社」とか「わが社」とか言っていなかったか? 保育事業もそれが私の事業として行われる以上、儲けてなんぼであることは否定し得ない現実であり、儲けるな、儲けを気にするなという方が無理な話だ。ただ、よそ様の子供とその命を預ける立場にしてみれば、「会社」などの言葉を耳にすると、我が子が営利事業の具にされていたかのような印象を受け、決して耳障りのいいものではない。あの状況で、あの若い園長にそこまで思慮を働かせる精神的な余裕もなかったのだろうが、あの言葉によってあの保育園の本質が露呈されたとの見方も可能なのかもしれない。
子を亡くした親は、いつまでたってもその子の年を数えるという。これほど辛いことはあるまい。子供が犠牲になった責任は保育園にある。ただ、親としては、なぜあのような保育園にわが子を預けてしまったのかという自責の念から逃れることもできまい。それこそが子を亡くした親の悲劇なのだ。その悔恨と一生付き合わねばならぬ悲劇・・・。他人がどのような暖かい言葉をかけようとも逃れることのできない悲劇・・・。
親はわが子のためなら良かれと思うことは何でもしてやりたい。これが親としての当たり前の情というものだ。ただ、親が子にしてやれることにも限界がある。守ろうとして自分一人では守りきれるものでもない。ただ、何の因果で・・・、としか言いようがない。本当に何とも言いようがなく悲しいことだ。