くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

我が子を亡くすということ・・・

2007年08月01日 | Weblog
数日前、2歳児の保育園児が亡くなった事件。園長に対して子供を返せと叫んだ父親の気持ちはいかばかりか・・・。

二人の子を持つ親として、何とも心の痛む出来事である。子の親となってから特にこの種の悲劇を耳目にするのが辛くなった。

それにしても杜撰な安全管理をしていたものだ。例えば、学校などでの避難訓練。避難誘導した後に生徒の所在を点呼確認するが、その際出席簿を使うのは常識。頭数の確認だけでは十分ではない。緊急避難の際、教師は出席簿を肌身離さずは、原則中の原則。今回はその頭数の確認すらもしていなかったのだ。その結果、プリンがひとつ余ってやっと亡くなった幼児の不在に気付いた始末。安全管理の初歩の初歩を怠った結果としか言いようがない。

それに、あの園長の言葉づかいも気になった。あの若い園長、「会社」とか「わが社」とか言っていなかったか? 保育事業もそれが私の事業として行われる以上、儲けてなんぼであることは否定し得ない現実であり、儲けるな、儲けを気にするなという方が無理な話だ。ただ、よそ様の子供とその命を預ける立場にしてみれば、「会社」などの言葉を耳にすると、我が子が営利事業の具にされていたかのような印象を受け、決して耳障りのいいものではない。あの状況で、あの若い園長にそこまで思慮を働かせる精神的な余裕もなかったのだろうが、あの言葉によってあの保育園の本質が露呈されたとの見方も可能なのかもしれない。

子を亡くした親は、いつまでたってもその子の年を数えるという。これほど辛いことはあるまい。子供が犠牲になった責任は保育園にある。ただ、親としては、なぜあのような保育園にわが子を預けてしまったのかという自責の念から逃れることもできまい。それこそが子を亡くした親の悲劇なのだ。その悔恨と一生付き合わねばならぬ悲劇・・・。他人がどのような暖かい言葉をかけようとも逃れることのできない悲劇・・・。

親はわが子のためなら良かれと思うことは何でもしてやりたい。これが親としての当たり前の情というものだ。ただ、親が子にしてやれることにも限界がある。守ろうとして自分一人では守りきれるものでもない。ただ、何の因果で・・・、としか言いようがない。本当に何とも言いようがなく悲しいことだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浮足立つなかれ、米国下院の慰安婦決議案可決

2007年08月01日 | Weblog
昨年のいなるか、靖国問題に触れた際に、米国の歴史認識にも若干言及したことがあるが、今回の慰安婦決議、何も驚くことではない。可決に至った背景にはさまざまあろう。本来なら可決に至るはずもないものを日本側が火をつけてしまったとの見方も、その背景の一つとすることができよう。

ただ、その火付け役のとなった安部発言にしろ、米国紙に掲載された意見広告にしろ、あれは所謂妄言ないしは歴史歪曲発言だったのか?

そうではあるまい。にもかかわらず火付け役になり、更には火に油を注ぐ結果となった。それはなぜなのか。アジア系米国人団体のロビー活動の賜物、それもあろう。ただそれだけではあるまい。

米国に存在する歴史認識という背景を無視してはなるまい。結局、あの時代をめぐる歴史認識において、我が国と米国はいまだ敵国同士なのだ。真珠湾に至った経緯や原爆をめぐる解釈ないし歴史認識ひとつをとってもそうだ。確かに一部の研究者はそうではないが、それはごく一部の話で、米国の研究者や歴史家たちのほとんどもまた一般世論や議会がもつ歴史認識の共有者なのだ。その最たるのが米国の東アジア研究者たちだ。一部例外を除き、彼らは従来の東京裁判史観的な歴史認識の枠の中でしか思考してはいない。少しでも修正主義的なアプローチを見せれば、たとえばそれが日本人であれば、「右翼」、「国粋主義者」のレッテルを即座に貼ろうとする。

岡本行夫氏いわく、事実関係はどうでも良いのだとか・・。まともな歴史研究者が聞けば、何と思おうや。岡本氏という人物の見たくはなかった人間性の一部をかいまみるような気がしなくもない。

それはさておき、これが我が国の「同盟国」米国の現実である。否定しえぬ現実を前に狼狽することなかれ、少なくとも。狼狽し浮足立ったところで、現実は何も変わらないのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする