くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

小池ー守屋騒動、森元総理、もういい加減に黙れ!

2007年08月19日 | Weblog
小池ー守屋騒動、どっちもどっちだし、昨今の政治情勢の真っただ中で、このような醜態をさらした安部政権の体たらくにも呆れたものである。

小池氏の政治的な野心というか魂胆見え見えのやり様にも、反吐の出る思いをしたが、守屋氏も守屋氏だ。役人としての役人たるの分際をまったくわきまえていない。

この件をめぐって、産経新聞の報道によれば、森元総理、「『自分でもう切腹しようとしている人を、(小池百合子防衛相が)後ろから切りつけた感じがする。あまりいいことではない』と述べ、小池氏の一連の対応に不快感を示した。」とか。

森喜朗という人、自身が代議士と呼ばれる所以を当選回数10数回をへていまだ理解していないようだ。間接民主政治の下、主権者たる国民を代表すべくそのように呼ばれるのではないのか。一方、守屋氏のごとき、官僚は国民を代表すべきものではない。公僕であり、それを使いこなすのが政治家の役目のはずだ。

 森氏は、守屋氏を「日米の問題、沖縄の問題にすべて生涯をささげてきた人。何十年も防衛庁にいて、自分が辞めなくてはいけないのはよくわかっている」と指摘。小池氏が守屋氏に対し電話で更迭を言い渡そうとしたことについても、「ちゃんと会って言うべきことだ」と述べた。公僕たる守屋氏が個人的に退任の意向を持っていたか否かなど、今回の騒動には関係のない話だ。確かに池田氏のやり方に問題がないなどというつもりはないが、問題があったからと言って守屋側の問題がそれによって相殺されるべきものでもない。かりに公僕たる者の個人的な思惑が行政人事において尊重されるべきであるとするなら、一体国民主権とは何ぞやということになりはしないか?守屋氏が国民主権の下において公僕たるの自らの分際をわきまえていないことは今回はからずも露呈され、それのみをとっても、守屋という公僕は公僕にふさわしからず。こういうのはかの国でしばしば政治を壟断した宦官の類とさしてかわるまい。守屋=宦官だ。

言われているように守屋氏は防衛官僚としては余人に代えがたい実力の持ち主なのであろう。だからと言って、自らの進退について、公僕の分際を越えてとやかくいうのは、いただけない。朝青龍問題でもそうだが、力があれば、実績があれば何をしても許されるというようなことがまかり通る世の中であってはいけない。守屋さん、あなたも人の親だろうに?

ましてやそんなことも分からない人を総理総裁にしてはいけない。なってはいけない人が総理になったがために、あのような体たらくの短命政権だったのだが・・。
自らが総理総裁として出来損ないだった、ということを自覚して少し黙っていればいいものを…。あの人の存在は自民党にとっても百害あって一利なし。

ちなみに、訪米したばかりで交代させることもできまいなどという声もあるが、小池防衛大臣は、内閣改造で首を挿げ替えるべし。政治を私するような俗物に、国家の存亡を左右する国防の責を任せるわけにはいくまい。首を挿げ替えた方が、安部内閣の再出発にとってもプラスになるはずだ。

ついでに、塩崎氏も交代だね。行政上の筋論としては塩崎氏は正しかったのだろうが、政治的に余りにも稚拙な対応で、結果安部政権に傷を負わせただけに終わった。自ら官房長官の職を退いて責任を果たすべし。

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