現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

嫌な部分もあるが、見てしまっている。

2014-08-28 | Weblog

「朝まで生テレビ」 当初は夜を徹して熱い討論番組と思っていたが、最近は、なんか、やはり聞く耳を持たれる意見に偏りがあるようにも感じられ、また番組として結論が出ないので消化不良気味に陥る。例えば、右翼の最先鋒かと思しきY氏が、自衛隊の海外活動にはリスクはあるが、現状を看過することのほうが、よりリスクが高いと発言。それはまっとうな言い方ということで、現在の総理大臣が、そのように明確に言うべきとなりかけたが、それについては、そこでチョン。おしまい。一般の消防活動や災害救助においてもリスクがあるのだから、まさに紛争地帯に近い所での活動において全くリスクがないなどと誰も思わない。リスクゼロでないと、何も行動してはだめなどと考える国、国民であるならば、なにもアクションできないだろう。なぜ、1国のリーダーが正々堂々と、リスクはありますと発言、発信できないのか? そのような課題を提起、克服しなければ、それ以上の難しい問題を論じても、全く結論や方向性が出ないままの、「話し合いをしました」 だけになり下がってしまうだろう。深く掘り下げることができない、こんなことでいいのだろうか?

A級戦犯を含め、功があったとする行事に総理大臣がメッセージを送っていたとのこと。大きく報じられない。A級戦犯となった人たちが悪かったのか、そうでなかったのか? いくさに勝った側が、負けた側、負けた領地、領民を、どう処遇するか、古今東西、人間同士のいさかいごとの後始末として、裁かれてきているのだから、東京裁判自体の是非を論じても意味がないと考えている。戦争処理裁判に、そもそも公平さなど元々ないのだろうから。しかしながら、自国民による、自国民のための、自国民の正しい振り返りは、必要なのではないだろうか? その際は、それこそ聖域なき振り返りが大事ではあるが。誰かを守ろうなどと演出してしまうことがないようにすることが大事だが、おそらくそれは叶うまい。この世の中に、やはりフィクサーはいつの時代でも存在し、それらのご意向に反逆することなどすれば、この世から抹殺されるのだろうか? 靖国神社は、そもそも長州藩の守護神社だとか。西郷隆盛などの薩摩藩は、外されるとか。誰も頼んでいないのに、英霊として祭られているため、外してくれと頼んでも認められないとか。根本的に国民の信教の自由との関係はどうなっているのか?(強制に近いものがある。) 国家主義、国粋主義との関わり合いにおいて、いつもきな臭いものが漂い続けるのは、どの国においても、形の違いはあれ、(米国などでは、ユダヤ人との関わりなど、) 人間が同じ場所で息をするかぎり、切れない縁(えにし)みたいなものがあるのだろうか?

心の中に、井上陽水の、「いつの間にか~」 のメロディが浮かびあがる。自分自身、floating状態を示しているだけだ。同ジェネレーションの音楽家は、作詞において、どうやって感性を磨いていたのだろうか? ただ一言、「ませていた」という回答だけでは、10%埋めただけだ。

25日の夜、横浜駅の側にいた。横浜駅の周辺も様変わりしている最中とのこと。元々の横浜駅周辺の状況を知らないから、変化Aから変化Bの具体的な風景までは到達できないが。周辺の建物など、ハード面だけが変わりゆくプロセスにあると感じることができる。慣れないことをすると、帰りの電車に乗車した途端、駅と駅の間で立ち往生。別の電車で非常停止がかけられたらしい。おそらくイタズラのひとつと想像できるが。誰もざわつく人もいない。全員、何もないような風情だ。車内アナウンスも情報がないのか伝えられない。見事に、みんなアキラメを演じている。