現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

日常、睡眠

2014-08-20 | Weblog

約40年前、かぐや姫時代の伊勢正三の作詞作曲に、「置手紙」の歌がある。「君はまだたくさんの紙袋をかかえたままで、この手紙読んでいるだろう。」 アメリカ映画では食料品の買い出し時の、紙袋はよく見られるシーンだが、当時の日本でも、ポリ袋でなく、紙袋だったか定かでない。

小生のほうは、「たくさんのゴミ袋をかかえたままで」、ドアノブや、傘立ての柄の部分に、必ずといっていいほど、引っかかりながら、これぐらい、かかりが良ければ、魚釣りの時なら百発百中だ。時には、スーツの上着の裏地がひっかかり、嫌な音を聞いた後、ほとんど気づかないぐらいであっても、ほつれてしまっている。同じ事を2度3度くりかえした時には、裏地の縫い目はぼろぼろに。

ゴミを分別させられているが、いかにプラと表記されているものが多いかに気づかされる。こんなことはどうでもいいのだろうけれど。不燃ごみの定義がいまひとつわからない。布物、くつ、瀬戸物、ガラス、有料袋に入る大きさであれば、電気製品でもOKらしい。それゆえ、分別の判断ができぬものは不燃と考えるようにしている。ドイツのように、ペット容器などの回収機から、硬貨やクーポンなどが返金されるようなしくみだと、もっと楽しくなるだろうに。

約30年ぐらい前だろうか、「笑っていいいとも」の司会者が、「自分は眠れようが、眠れまいが、全く気にしない。何時間寝なきゃとか、考えるから逆に寝付けないのであって、人間は自然と睡眠できるようになっているので、起きたい時は、ずっと起きてて大丈夫」 と言っていた。当時は、そんなものかと思ったが、暫くの間、熟睡したと思われず、ようは睡眠があさいなと感じながら、さらに、そのあさい睡眠時間も4時間程度といった時が続いていた。なんとなくではあるが、ここのところ、「眠いと感じたら、そのまま寝よう」 ということを続けていたら、以前よりは、逆に睡眠の深さを多少、とりもどすことができてきたような気がする。眠る、寝るということに、意識を向けないというか、多少、このことに無頓着になるというぐらいでいいのかなと気づきはじめた。

若い時分は、当然のことながら、睡眠がどうのこうの神経質になることはほとんどなかろう。おそらく40代ぐらいから、なんとなくこだわりを持つのかなとも思うが。人生において、おそらく煩悩に悩まされるぐらいから、神経質な領域に足をつっこんでいくのだろう。 

19歳の終わりごろから、歌の歌詞にもあるような、3畳1間のアパートでの一人暮らしを始めた。引き戸1枚を開けると、くつぬぎ場が、50cm程度あるだけで、すぐに畳。それも3畳ぶんだけ。布団を収める押し入れがあり、あとは小さな流しと、ガスコンロがひとつだけ。アパートのトイレがどこに位置していたか、全く思い出せない。風呂は近くの銭湯に行っていた。50ccのDAX HONDAの原付をアパート前の狭い路上に晴れの日も雨の日も停めていた。神戸市灘区篠原本町?、中町? 住所を忘れた。水道筋?という商店街があったと思う。商店街には場末の映画館的な映画館があり、3本立てなど見に行った。スピルバーグの「激突」も、この時に観た。アランドロン、マルチェロマストロヤンニ、チャールズブロンソン、ポールニューマン、フェイダナウェイ、スティーブマックゥイーン、アリ-マックグロウ、ライアンオニールなどなど。エアコンなどない。扇風機があったかどうか覚えていない。洗濯はコインランドリーに行っていたように思う。2年弱のことだが、よくもこんな暮らしをしたものだ。夏の暑いときは、どう凌いだのだろう。はっきりとした記憶がないのだ。おそらく、部屋の中には居なくて、どこか外へ出ていたのだろう。窓は、流し台の所にあるだけで、窓を開けると、すぐ壁が迫っている状態で、日当たりは悪かったから、直射日光の影響はなかったのだろう。外の廊下からドアの下のすき間を通って、ゴキブリが来ることもあった。3畳分のスペースを回られてしまうから、完全にやっつけてしまうまでは安眠などできるわけがない。約2年間の実家を離れての、一人暮らし。意味があったのか、なかったのか。なぜ、そんなところに身を置くことになっていったのか? (単純には、家を飛び出したかっただけではあるが、一気に決断していった思考回路が自分でもわからない。)

かぐや姫の歌詞の通り、「何もこわくなかった」 のか、「何も深く考えてなかった」 のか、わからない。