現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

(国家)制限資本主義

2014-08-18 | Weblog

いまさら、ああだこうだと考えても言っても仕方ない、どうしようもないことだととわかっているが、最近だけではないが、ずっと気持ちのどこかで、「この国、日本でよかったのか? 面白く生きてこられたのか?」 と自問自答をくりかえしてきていた。なんとなく 「こういう国」 ではないのかと自分で答えを導き出しつつある。

日本は決して、自由資本主義などではない国だ。それなりの年配の、特に男性なら少しは興味をもって知識もおありと思うが、第2次世界大戦の日本のゼロ戦。それ以外でもたくさんの戦闘機があった。隼、飛燕、雷電、紫電、紫電改、2式戦闘機、五式戦闘機、などなど。1式、2式とつくのは、日本陸軍、それ以外は海軍所属だ。当初、ゼロ戦の空戦性能は優れていると評価されたと聞くが、軽量に製作されているのだから、小回りがきいて当然だ。それよりも重視したいのが、全くパイロットのことを考えていないことだ。生命をまもっている唯一の部材がキャノピー(風防ガラス)だけだ。また燃料タンクも薄い装甲にて、銃弾を受ければ、ひとたまりもない。それに対抗しようとして誕生してくるのが、グラマンF6Fヘルキャット。パイロットの生命をいかに守るかの配慮に苦心している。厚い装甲板で、背後から機銃掃射されても、少々の銃弾では怪我しないように。燃料タンクはたとえ重量が増えようが、機体がすぐに爆発炎上することのないよう、防弾仕様が強化されている。一人のパイロットの育成に少なくとも2年はかかるとのことで、いかにパイロットのひとりひとりの生命をできるかぎり守ってやろうとの気落ちが込められている。

アメリカでの大砲での命中精度もさほどでもないので、それを向上させるにどうのような工夫を行うか? そこに科学技術が持ち込まれて、相手の飛行機の近くにいくと、感知して爆発。細かな散弾が飛び散るようにして、相手に損傷を与える。これにより、精度が10倍アップした。いかに早く敵の動きを察知するか? そのため、レーダーの開発に力を投入し、どの方角から、どの高度で、どんな速度で、何機ぐらいの編隊が近づいてきているのかが、手に取るようにわかるようになった。これもいかに防御ということに力点を置いているかどうかということだ。

これに比して、日本側は、戦闘機、爆撃機による特攻、回天の人間魚雷での特攻、桜花という特攻を目的とした飛行機まで作った。命中精度は上ったのか? いわゆる普通の爆撃攻撃とほとんど変わらない。ただの無駄死にを求められたにすぎない。それに加えて、航空機自体も行ったきりで失うことになる。誰がこんなことを決めることができるのか。沖縄上陸以降、本土決戦の際は、女子供にも竹やりをもたせて、戦車に突入死させる計画も実際になされていたとのこと。それで、戦車は破壊できぬが、多少なりとも進軍をくいとめさせる。こんなばかなことを、お国が命ずる権利があるのか?? 東条英機は、公に、戦争に軍備の充実とともに、もうひとつ必要なものが精神力だと堂々と言ってのける。さらに精神力は限りがないとものたまう。こんな指導者では、たまったものでない。

これで、日本という国家は、「個」 というものを、本当に大切にしていると言い切ることができるのか? 自分には、「個」 というものを、「その他多勢」 としか考えておらず、あくまでも、個人たるものよりも、法人格や組織の維持に腐心しており、「個」 は、優先順位を下げられているように映る。肩書きのほうが、重要視され、肩書きのない者は、後回しにされたり、相手にもされなかったり。北欧の税金を高く取られても、大学まで学費が無料だとか医療費無料だとか、働きすぎはダメということで、オーバータイム就労分は、ほとんど収入につながらないから、当然のことながら働く人間などいない結果につながり、ワークライフバランスが保たれる仕組みだ。日本では、いま正に大学生向けの奨学金の取り立てにやっきとなり始めた。指示された部署では、上から目線でこれから対応を続けるのだろう。完全に無償貸与ぐらいすべきものと検討を始めるのならば別だが、と思うが、まるで学生ローン扱いに等しい。選挙で選ばれる公人や、公職の者への厚遇自体、本末転倒の話と思うが、既得権ゆえ、改善などされようもない。

スポーツ界でも、どうして人材が流出していくのだろう。まるで、この国は後進国で、海外での活躍がはるかにグレードが高いとなる。どうして自国でのレベルを高くしようと努力しないのか? (報酬や賞金総額など諸々) 魅力に欠けるから、流出するのであり、人材を低く評価するからこその結果であろう。自由民主主義とは決して呼べるシステムではない。タイトルには、制限資本主義などと造語を掲げたが、もっと露骨に言えば、独裁者こそいないから、責任もおっかぶせることもできないが、その実、共産的集団資本主義とも言えなくもない実態ですら、あるのではないだろうか? 別の表現をするならば、(国家)統制資本主義とっも言えなくもないし、それに加えて、集団行動文化の民族性が、その秩序を維持することに、多大に貢献しているから、むしろ変化させようがない。このような傾向はますます強まるというか、誰もあまり何も、面倒くさいことは考えたくないものの習性ばかりが強まってきていて、隠れてツイートするぐらいが、せいぜいか。自分自身として、「個」 を大切にしない国だということは、ひとつの決定的な事実であると確信めいたところまで思考できてきた。それを大前提に据えることで、この国で起こる事象のつじつまが合っていくような気がしてならないのだが、どんなものだろうか?