(岐阜市鏡島)
一条兼良の室であったとされる東御方(ひがしのおんかた:中御門宣俊娘)の墓が乙津寺境内にある。応仁の乱で兼良と東御方は京からこの地に来ていた。それは、兼良と当時の乙津寺住職が仁和寺と兼務しており、その住職との縁があったからとされる。(または斎藤妙椿の招きによってとも伝わる)
動乱が治まり兼良は京に戻ったが、東御方はこの地に留まり、同年暮に没している。
墓は平成10年に改修されている。
一条兼良の室であったとされる東御方(ひがしのおんかた:中御門宣俊娘)の墓が乙津寺境内にある。応仁の乱で兼良と東御方は京からこの地に来ていた。それは、兼良と当時の乙津寺住職が仁和寺と兼務しており、その住職との縁があったからとされる。(または斎藤妙椿の招きによってとも伝わる)
動乱が治まり兼良は京に戻ったが、東御方はこの地に留まり、同年暮に没している。
墓は平成10年に改修されている。
いつでも行けると思ってナマカワにしています。
戦乱を避けて、美濃に疎開した公家達も多かったと思います。疎開先の土豪達と年貢の収納などもあり姻戚関係を結んだことも自然であろうと思います。
谷汲の鷹司氏は、実際のところがよくわかりません。
史料は、失くされても必ず思わぬところから出てくるような気がします。
ぜひ、ご研究を続けて頂きたいと思います。
鷹司氏のように公家家系で地方支配者と関わりを持ったケースは、多分にあったことでしょう。
それで我々の祖先が洗練て、後世の研究が面白くなったかもしれませんね。