flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

夢と生い立ち

2007-07-02 06:00:26 | kourei-ki-日記-
 母の命日から一ヶ月。
久しぶりに母が夢に現れた。
私が小1のときに亡くなって以来、極稀に見たことはあったが、いつも何故か怒っているような表情だった。
以来、父との二人暮らしとなった。

私の通っていた学校では、片親は我が家だけ、片親はロクに育たないというのがよく聞かれる言葉だが、確かに一理はある。
家に親がいない、自分で物事を考えなくてはならない。結果、自分がルールブックになっていく。
しかし、それは親がいなくなった理由によっても異なると思う。ゆえに致し方ない理由であれば子どもも理解するであろうし、それなりに曲がらず育つであろう。

最近、よくある片親の傾向には離婚が多い。
これはどっちに原因があろうと、両親の責任。それを子どもは見抜き、反発した行動をとる。
ある意味子どものような、父親になりきれない父親、母親になりきれない母親、母性父性が低いことによって、双方の不満も生じ、やがて亀裂が入る。
「離婚はしたいが、子どもが可哀想」
子どもが可哀想にならないよう、離婚につながらないよう、両親が努力してほしい。
離婚した後曰く、「父親らしくなかった」「女性らしくない、母性が感じられない」という。
寂しい言葉が並ぶ。

ある書き込みに「母親が家にいて、イライラしながら節約していたら、小さな子どもに悪影響、どこかに預けて働きに行ったほうがいい」といのがあった。
私はこれに同調できない。

私は母との記憶は6歳まで、父親とも25歳での別れとなった。
母は専業主婦であった。けして裕福な家庭ではなかったが、子どもが小さい頃は親との時間が大切と、家にいてくれた。
短い時間ではあったが、あのときいてくれたから、私の行動に今でも、戒めを与えてくれているように思う。

父と二人きりになって、仕事もそこそこに私と接してくれた。
父が子どもの頃、田舎の外科医であったため、正月以外休みもなく、一緒に遊んでもらった覚えがないのだという。母も薬局に入り、入院患者や看護士の相手をしなくてはならず、父兄参観にも誰も来なかったという。
ゆえに寂しい思いをし、暴力団も真っ青という性格になったが、息子の私にはお金ではなく、寂しい思いをさせないよう、努力をしてくれた。

その後、私の母だと思っていた人は、本当の母ではなく、実の母がいることがわかった。
父はそのことを取り合おうとしなかったが、父が亡くなってから、戸籍によって明確になった。
しかし、私はその実母に逢おうとは思わない。
いろいろな理由があって別れて、そして父も触れたくなかったのだから、そして何よりも、少しの間でも私を大切に育ててくれた母がいたから。


片親でその家の大黒柱となっていれば仕方ないが、両親がいて、子どもが小さい頃は是非、一緒にいてあげてほしい。
その子どもの将来が変わる。
半端な贅沢よりも、親子の愛情を大切に育んでほしいと思うのだ。

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