(北海道函館市船見町) 享禄三年(1454)津軽の安東政季(まさすえ)、相原政胤(まさたね)、武田信広、茂別家政と共に、河野政通は蝦夷地宇須岸に渡来し、館を構えた。アイヌ勢に何度となく攻められ、永正九年(1512)の攻撃で陥落し、政通の子季通(すえみち)と娘を逃がして政通は自害した。政通の孫娘は蠣崎季広の妻となり、二人の間の子は松前藩初代の松前慶広である。宝暦三年(1753)時の亀田奉行は、政通の供養碑を旧称名寺(市内弥生町)の境内に建立した。
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