和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心48/小説「新・人間革命」

2015年06月25日 06時53分29秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月25日(木)より転載】

【革心48】


 長征は肉体の限界を超えた行軍であった。

 食糧もほとんどなく、野草、木の根も食べた。ベルト等の革製品を煮てスープにした。

 敵の銃弾を浴びるなか、激流に架かるつり橋も渡った。吹雪の大雪山も越えた。無数の川を渡り、大草原を、湿地帯を踏破した。

 「奮闘すれば活路が生まれる」(注1)――それが周恩来の信条であった。

 そして、第一方面軍は、一九三五年(昭和十年)十月、陝西省保安で陝北根拠地の紅軍と合流。遂に、「長征」に勝利したのだ。しかし、総勢八万六千余人のうち、残ったのは、七、八千人とも、四千人ともいわれる。

 やがて頴超は、瑞金で別れた母の楊振徳が国民党に捕らえられ、「反省院」に入れられたことを知る。「反省院」といっても、思想犯が入れられる牢獄にほかならない。

 楊振徳が頴超の母であり、周恩来の岳母であることは知れ渡っている。拷問も受けているにちがいない。頴超は、胸が張り裂けそうになるのを堪えながら、闘争を続けた。

 自分も、家族も、いつ命を奪われるかわからない――それが、革命の道であった。

 三七年(同十二年)七月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していく。共産党は、再び国民党と手を結び、国共合作をもって抗日戦を展開することになった。

 頴超が母の楊振徳と再会したのは、三八年(同十三年)の冬であった。母子は、瑞金で別れて以来、四年ぶりに、武漢で対面したのである。

 「反省院」での過酷な歳月は、彼女をいたく老けさせていた。しかし、気丈な魂が光を失うことはなかった。

 ある時、「反省院」で彼女は、娘の頴超と娘婿の周恩来に、革命をやめるように手紙を書けと迫られた。だが、毅然と胸を張り、こう言い放ったという。

 「私は革命をやっている娘を誇りに思っている。殺すなら殺しなさい」(注2)

 頴超という不世出の女性リーダーを育んだ最大の力は、この母にあったといえよう。



■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1・2・3・4西園寺一晃著『頴超』潮出版社
 主な参考文献
 西園寺一晃著『頴超』潮出版社
  『人民の母ーー頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 頴超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
 サンケイ新聞社著 『蒋介石秘録』 サンケイ出版


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