★2021年10月24日(日曜日)二つの継体天皇陵(太田茶臼山古墳、今城塚古墳)を見た後は、その二つの古墳に埴輪を供出していた新池埴輪製作遺跡を訪ねます。さらに中臣(藤原)鎌足の墓とされる阿武山古墳、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡が出土した安満宮山(あまみややま)古墳を訪ねる。
新池(しんいけ)埴輪製作遺跡
太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪を製造していた埴輪遺跡を訪れました。場所は名神高速道路を越えた北側で、太田茶臼山古墳と今城塚古墳を底辺にした三角形の頂点にあたる所で、三島野古墳群の中心部に位置します。
現在、国指定の史跡(1991年)となり高槻市によって「史跡新池ハニワ工場公園」として整備され、公開されています。今城塚古代歴史館が運営・管理している。
古代の埴輪遺跡とタワーマンションの奇妙な組み合わせです。昭和63年(1988)ごろ、この一帯を阪急不動産が買取り開発することのなったので、高槻市立埋蔵文化財調査センターにより発掘調査が行われた。その結果、新池の東斜面から十数基の埴輪窯、工房跡、井戸などが見つかったのです。日本で見つかったなかでは最古で最大級の埴輪製作跡で、しかも天皇陵の埴輪を焼いていたことが分かっているのはここだけ。
右から復元された1号窯(よう)、2号窯と3号窯。この1~3号窯は、斜面を溝状に掘り込み、ワラを混ぜた土で天井をかけた半地下式の構造をしている。
ここでの埴輪造りは、5世紀中頃に太田茶臼山古墳の埴輪を製造するために始まり、約百年間続けられた。最盛期は6世紀初めごろで、今城塚古墳のために多くの窯が造成され、数万本の埴輪が今城塚古墳に供出されたという。6世紀後半ごろから大きな古墳が築造されなくなったため、埴輪造りも終息します。
(今城塚古代歴史館掲示の図より)半地下式の1~3号窯の仕組み。「埴輪の窯詰めや窯出し、燃料の薪の投入は全て焚口からおこなわれました。煙突効果で燃料の薪を勢いよく燃やし、高温でムラなく、しかも計画的に埴輪を焼くことができました」と説明されている。
埴輪窯は全部で18基が確認されており、4~17号窯は同じ場所にサツキやツツジの植え込みで表現されています。これらは半地下式でなく、斜面をトンネル状に掘り抜いた地下式となっていたそうです。上方に見える土管のようなものは18号窯が展示されているハニワ工場館。
18号窯の場所は「ハニワ工場館」という展示館になっている。
開館時間:午前10時~午後5時、入館無料、休館日<12/29~1/3>
ハニワ工場館内部には、発掘されたままの状態で18号窯の実物が保存展示されている。実際は穴を掘り抜いたトンネル式だが、床面だけが見やすいように展示されている。館内では解説ビデオも上映されていた。
窯が築かれていた斜面を上がった平地には、埴輪の成形が行われていた三基の工房(作業場)跡があり、近くには14棟の工人の竪穴住居も見つかっている。
右から1号工房、2号工房は復元され、左端の窪地は3号工房の跡地。地面を掘り下げた土間で、工人たちが粘土をこねている姿が浮かんできます。土間では粘土入れも見つかっている。
奥に見えるマンションの屋根は、復元された工房の屋根に似せてデザインされたそうです。少しでも古代にマッチさせ、違和感をなくそうとする努力がうかがえますが・・・それでも違和感が。
斜面下に遊歩道が設けられ、左側に新池が広がる。遊歩道脇には埴輪のレプリカが並び、マンガで埴輪やその作り方が楽しく紹介されています。ちなみに高槻市のマスコットキャラクターは「はにたん」といい、武人の埴輪からきている。
ここは粘土の臭いも、薪焚きの煙も浮かんでこない。埴輪をモチーフにした現代風の公園となっています。埴輪遺跡ほうが、周辺のマンション群にマッチさせようと努力しているようにみえます。
新池埴輪製作遺跡の南側、名神高速道路沿いにこんもりと茂った小さな森が見える。「番山古墳」という標識が建っている。南側から東側にかけてかなり大きな溜め池があり、墳丘は深い竹藪でおおわれています。円墳に見えるが実際は帆立貝式前方後円墳だったようです。埴輪など出土品から5世紀中頃の築造とされる。
この周辺は古墳造営や埴輪製作にかかわった人々が居住し、多くの古墳や遺跡が存在していたが、名神高速道の工事や宅地造成、水田などによってほとんどが破壊され消滅してしまった。惨めな姿ながらこうして残された番山古墳は幸せな古墳です。
阿武山古墳(あぶやまこふん)
新池ハニワ工場公園から阿武山古墳(あぶやまこふん)をめざします。阿武山は高槻市北方の丘陵地帯にあり、市街地からはかなり離れている。道順をネットで探すがなかなか見つからない。やっと高槻市の「高槻市インターネット歴史館」で見つけました。これはバスを利用することを前提にしているが、山沿いの道が地図で詳しく載っている。これを利用することにし、まず「奈佐原消防署」を探し、そこからは地図に従い山沿いの道を歩きます。
1時間近くかけ新阿武山病院、希望の杜などを左右に見ながら住宅地を抜けると、道は閉ざされた門で行き止まる。「阿武山古墳約900m」の標識が立っているが、今日は何らかの事情で入山できないのでしょうか?。困惑していると、ハイカー姿の3人連れオバサンがやってきた。尋ねると、「門の脇に板が敷いてあるでしょう。そこから入っていけるのよ。私たちも通ります」と教えてくれた。門があり紛らわしいが、この道は地元の人々にとって阿武山へのハイキングコースになっているようです。途中で何人かのハイカーに出会いました。
幅広く、緩やかな坂道なので、オバサン、オジサンには最適な散歩、ハイキングコースとなっている。車道なのだが、車に全く出会わない。しかしよく考えたら今日は日曜日、地震観測所がお休みだからなのかもしれない。だからあの門も閉まっていたのだ。
「京都大学」の標識があるので、大学の所有地なのだろうか?。
休憩所を兼ねた展望所が設けられ、高槻市内が一望できます。観測所の人のためではないし、阿武山古墳を訪ねる人のためだとしたらえらく親切だなア、と思った。しかしこれもよく考えたらそんなことはないし、散歩、ハイキングする高槻市民のためなのだ。
200mほど進むとまた休憩所兼展望所が現れた。今度は茨木市内から大阪方面まで展望できます。中央に見える森は太田茶臼山古墳のようです。そこからここまで歩いてきたのです。今日は、これから同じくらい歩かなければならない。
この展望所から大阪市内が見える。梅田のビル群が、そしてアベノハルカスも見えている。よく晴れている日には大阪城まで見えますよ、とハイカーの人が教えてくれた。
ようやく地震観測所の建物が見えてきた。観測所というからちっぽけな建物を想像していたが、デッカイ建物です。さすが京都大学だ。それにしては地震研究の成果はあまりでてないような気がするが・・・。地震予知ってそれだけ難しいのだナ。
施設入り口の手前に「←阿武山古墳」の標識が立つ。
休憩用の小さな広場があり、阿武山古墳へは右奥の茂みへ入っていく。「阿武山古墳150m」とあり、もうすぐのようだ。
この山道は阿武山山頂へ続くハイキングコースで、時々ハイカーに出会う。右の石畳の先が阿武山古墳です。ここまで新池ハニワ工場公園から1時間半ほどかかりました。
昭和9年(1934)、京都大学阿武山地震観測所の施設拡張工事において、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された。京都大学や大阪府により学術調査が始まったが、かなり凝った造りの棺や豪華な副葬品などから、被葬者は皇室に関係する人物かもしれないとし、これ以上の調査は冒涜であるとの意見が出てきた。被葬者の尊厳を守るため内務省によって憲兵隊が動員され、研究者らの立ち入りを禁止し、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまった。
しかし当時から古文所の記録などから藤原鎌足説が有力だった。
上の図(現地説明版より)で判るように、幅2.5mの浅い溝(周溝)を周囲にめぐらせ、直径約82mの範囲を墓域として区切っている。その中央に一辺18mの墓室領域がある。全体として円墳といっていいのではないでしょうか。築造時期は、出土した土器から見て7世紀前半ごろと考えられており、飛鳥時代としては数少ない貴重な墓として国史跡に指定された(昭和58年8月30日指定)。
阿武山(標高281.1m)の中腹に位置しているので、高槻市を見下ろす景観を期待していたが、見えるのは地震観測所の大きな建物と高い搭だけだった。
一辺18mの方形の墓室領域は鎖柵で囲われ、内部は盛土がなく高い樹木が墓室を取り囲むように生えているだけ。一見しただけでは、墓だと認識できません。正面に「墓室」と書かれた標識が置かれ、花が供えられていました。周囲はコンクリート畳の遊歩道が設けられ、ベンチも置かれ散歩がてらに休憩するのに良い環境になっている。
(写真と図は今城塚古代歴史館掲示より)
中央の木立の下約3mに、花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルで墓室を造り、墓室内部は漆喰で厚く塗り固められていた。上を瓦で覆い、地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。墓室は幅1.4m、奥行き2.6m、高さ1.2mで、南側には扉があり、その外に墓道、排水口が設けられていた。
墓室中央には高さ25cmの棺台があり、その上に漆で麻布を何枚も貼り固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていた。日本で初めて発見された夾紵棺です。棺の中には、南枕仰臥伸展葬の状態でミイラ化した男性の人骨が、毛髪、衣装も残存したままほぼ完全に残っていた。60歳代と思われ、身長は推定約164.6cmで、当時としては長身に属する。
玉枕と冠帽の復元品(今城塚古代歴史館より)
鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、錦の衣服をまとい冠帽をかぶり、玉枕をして、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていた。玉枕は、紺色と緑色の大小約600個のガラス玉を1本の銀線で連ね、錦で包んであった。
(現地説明版の写真より)昭和9年の発見時、出土品の一部と遺骨などを京大の研究者たちが密かにエックス線撮影していた。これらは行方不明になっていたが、昭和57年(1982)にエックス線フィルムや写真が地震観測所から見つかった。フィルムを画像解析した結果、昭和9年の発掘当時でははっきりしなかった事実が、次々と明らかになってきた。発見当初から被葬者は藤原鎌足ではないか、という見方もあった。それは「多武峯略記」(1197年、多武峯・談山神社の記録)に、「鎌足は最初は摂津国安威に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」と記されているからです。これを裏付ける事実が出てきたのです。
胸から顔面、頭にかけてたくさん散らばっていた金の糸が冠の刺繍糸だったことが判明し、この冠が当時の最高冠位を示す「大織冠」にあたるとされた。当時は官位によって冠の色や形が決まっており、鎌足は天智天皇から最高冠位「大織冠」を賜っていた。またX線写真などの分析から、被葬者は亡くなる数ヵ月前に腰椎などを骨折する大けがをしていたことも判明。これは鎌足が落馬によって死亡したとされる説と一致するのです。
こうしたことから被葬者は、「大化の改新」(645年)の立役者の一人であり、藤原氏繁栄の基礎を築いた中臣(藤原)鎌足(614~669)だと、断定的に報じられた。ただし鎌足は669年に死亡しているので、現地説明版は「しかし高位の冠はほかに検証例がなく、墓域から出土した土器から古墳の年代は7世紀前半とかんがえられることなど、被葬者の特定はなお今後の研究に委ねられている」と結んでいる。
昼神車塚古墳(ひるがみくるまづかこふん)
阿武山古墳の次は、高槻市東方にある高槻市営公園墓地を目指す。かなりの距離です。山を降り、西国街道を東へ東へ歩きJR高槻駅北側に着く。そこから北へ200mほど歩けば上宮天満宮が鎮座する天神山に突き当たる。右の道を見ればトンネルが見えます。このトンネルの上にあるのが「昼神車塚古墳(ひるがみくるまづかこふん)」。
トンネル上です。右側に墳丘が見え、厳重な柵で囲まれている。現地説明版を要約すると、天神山は「ひるがみ山」ともいい、車塚は前方後円墳の俗称です。この古墳は天神山丘陵の南端にあり、この一帯の豊かな平野を支配した首長の墓です。現在も上宮天満宮の神域としてまもられている。1958年府道建設により削減されそうになったが、住民の要望によって下をトンネルが通ることになった。
6世紀中頃築造と推定され、全長60m、前方部の幅40m、後円部の径35mの北向きの前方後円墳。前方部は後円部よりやや高くつくられ、新しい特徴をそなえている。古墳は天神山の裾部分に盛り土して造られ、三段のテラスから成り立っている。
「上段のテラスには人頭大の河原石を敷き、中断のテラスには埴輪を2列にならべていた。それらはあたかも古墳を守るかのように巫女が立ち、また牙をむき出したイヌたちが、たてがみをふりたてるイノシシを追いつめ、そして、角笛を吹いている猟師の姿などに古代の狩りの情景をうかがうことができる」(現地説明版より)
現在、前方部は復元・整備され、テラスになっている場所に埴輪の複製品が置かれています。
(今城塚古代歴史館掲示の写真より)北側の前方部むき出しになっている。トンネルを造る前の写真だと思われます。
古墳時代後期、この昼神車塚を最後に、三島から前方後円墳は姿を消し、ほどなく大王墓も方墳や八角形墳に移行していく。
安満宮山(あまみややま)古墳
昼神車塚古墳から東へ東へと歩き、高槻市北東の安満山山麓にある高槻市営墓地を目指します。1時間近くかけやっと市営墓地の入り口に着きました。この辺りは名神高速道路と一般車道が複雑に入り組み、大変ややこしい場所です。
この安満山山麓は、高槻市公園墓地の造成に先立ち昭和44年(1969)に行われた古墳群の調査により、4世紀後半から7世紀にかけての古墳が40基余り確認され「安満山古墳群」と呼ばれている。ただ多くは公園墓地の造成によって破壊、埋没されてしまったようです。道路や住宅にされるよりマシかな。被葬者はこの地の有力者と考えられている。
入り口付近に安満宮山古墳の説明版があり、1.0kmの標識が立つ。写真の赤●を歩く。空中写真を見れば近道があるように見えるが、間違った所に入り込むと、真っ暗な墓場の中を朝までさ迷い歩くことになるので、それは避けたい。
ここは高槻市の広大な公園墓地です。広すぎるので、歩いて墓参する人はいないでしょう。車道が整備されているのだが、この車道が曲がりくねって登ったり下ったりの坂道となっています。
4時をまわり、そろそろ暮れてくる時刻です。車も通らなければ、誰一人見かけない。薄暗くなった墓地内を一人で歩くのは気持ち良いものではありません。今日は朝から歩きとおしで疲れていることもあり、途中で何度か断念し引き返そうかと思いました。
墓地公園入口から30分かけ、ようやく安満宮山(あまみややま)古墳が見えてきた。入口によく目立つ赤柱が立ち、一見、展望台のようです。
ここは安満山の南西斜面の中腹、標高125mの場所です。平成9年(1997)、墓地の造成工事に先立って事前調査をしたところ、長大な木棺を納めた古墳が発見され、「安満宮山(あまみややま)古墳」と命名された。卑弥呼の鏡・三角縁神獣鏡が出てきたので大騒ぎになったそうです。
発掘調査終了後に、復元整備の工事が行われ、平成10年(1998)12月に一般公開された。入口を入ると円筒形の解説板が設置され、出土した五枚の鏡のレプリカが配置されている。背後には「青龍三年の丘」と刻まれています。
高槻市を一望できる丘でビニールハウス栽培?、なんとも異様な光景です。
墓坑は全体がカマボコ形のガラスで覆われ保護されている。墓坑内部はガラス越しに、あるいは端から直接覗いて見ることができる。銅鏡など出土品のレプリカが発掘時と同じ状態に置かれています。
古墳は全体として東西18m、南北21mの長方形墳で、260年頃(古墳時代前期初頭)の築造とされる。
(写真は円筒形解説板より)墓坑は長さ7.5m、幅3.5m、深さ0.4m。その中央に木棺埋納坑(長さ5.5m、幅1.3m、深さ1.2m)が掘られ、その周囲に排水溝をめぐらしている。木棺埋納坑の底は、水銀朱で一面あかく染まっており、そこにコウヤマキの割竹形木棺が置かれていた。
遺体は東枕に葬られており、副葬品として頭側に銅鏡5枚とガラス小玉(直径3~4mm)1000個以上が、足元側に鉄刀(全長68cm)1点、ヤリガンナ・刀子各1点、板状鉄斧・ノミ・鎌各1点などの鉄製品がひとまとめにして置かれていた。これらの副葬品は一括して国の重要文化財に指定されている(平成12年(2000)6月)。
1号鏡が三角縁神獣鏡
2号鏡が「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡
3号鏡が三角縁(点・王・日・月・・吉)獣文帯四神四獣鏡神獣鏡
(ケース入り鏡は今城塚古代歴史館展示、「青龍三年」は円筒形解説板より)青龍三年(235年)は中国・魏の年号であり、「青龍三年」銘の「方格規矩四神鏡」や三角縁神獣鏡(さんかくぶち-しんじゅうきょう)が注目された。
今城塚古代歴史館にあったパンフには「魏志倭人伝には、景初三年(239)6月倭国の外交使節団が邪馬台国を出発、12月に魏の都・洛陽に到着。魏は倭国女王・卑弥呼に対し「親魏倭王」の印綬とともに銅鏡百枚などを与えたと記されています。1,2,5号鏡の3面はその一部と考えられている。ここに眠る人物は、眼下に広がる安満遺跡を拠点とするこの地方の王で、使節団の有力な一員として活躍し、これらの貴重な鏡を女王・卑弥呼から直接、授けられたのでしょう」と書かれています。
厳重にケースで保護されているのでこれは本物でしょうネ。
ふもとには弥生時代の環濠集落として知られる史跡安満遺跡(写真左端の空地)、その南側には淀川と大阪平野が広がっています。中央のビル群にJR高槻駅、阪急高槻駅がある。ここは古墳という古臭い臭いもなく、休息するのに良い所だ。ただし散歩やジョギング、ハイキングで来る所ではない。車で墓参のおりにチョッと休憩という場所です。
今日は、3世紀卑弥呼の時代の安満宮山古墳、5世紀の太田茶臼山古墳、6世紀の今城塚古墳・昼神車塚古墳、7世紀の阿武山古墳と見てきました。薄暗くなってきたので速足で墓場を脱出します。帰りは市バスで阪急高槻駅へ
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