2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。
鳥羽離宮とは
(現在の鳥羽の地と鳥羽離宮跡 - 京都市埋蔵文化財研究所のサイトより)
鴨川と桂川の合流点附近に位置する鳥羽の地は,陸路は山陽道,水路は淀川を経て瀬戸内海へ通じる水陸交通の要所でした。運ばれてくる物資の多くは,都に最も近い鳥羽の港で陸揚げされました。鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。
鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる。鴨川と桂川の合流点附近に位置する鳥羽の地は、京への入口として水陸の要所だった。と同時に水の豊かな風光明媚な土地として、貴族達の別邸が建ち並び狩猟や遊興の地としても知られていた。現在の京都市南区上鳥羽,伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯です。
応徳3(1086)年11月、第72代白河天皇(1053~1129)は父・後三条天皇の遺言「次は輔仁親王(白河天皇とは異母弟)を天皇にせよ」を無視し、まだ8歳だった自分の息子・善仁親王(堀河天皇)に譲位してしまう。自分は上皇となり、実子の幼帝を後見するため自ら政務に介入するようになった。上皇は「院」とも呼ばれていたので、これが歴史上「院政」と呼ばれる政治システムの始まりです。
これと同時に鳥羽離宮の造営も開始される。院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上すると、諸国から資材が集められ、造営工事が行われた。後の南殿(現在の鳥羽離宮公園付近)です。また貴族や院近臣たちに宅地を与え、周辺に住まわせたという。「あたかも都遷(みやこうつり)の如し」のようだった、と噂されたそうです。
白河上皇は、熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096)の寵愛していた皇女の死を機に出家し、法名を「融観」として法皇となった。そして東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重塔を建立。堀河天皇崩御後は、自らの孫で5歳で即位した鳥羽天皇、更に曾孫の崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、以後43年間にわたり院政を敷いた。鳥羽離宮は、ただの隠居所ではなく、院政政治の拠点ともなりました。大治4年(1129)、77歳で崩御。
鳥羽天皇(1103~56)は、保安4年(1123)に第一皇子・崇徳天皇に譲位し上皇となる。しかしまだ実権は白河上皇が握っていた。白河上皇の死後(1129)、子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡って鳥羽上皇の院政が行われた。鳥羽上皇も鳥羽離宮の拡張に努め、継続して殿舎が増築された。東殿に安楽寿院を付設し、田中殿、泉殿をはじめとして増設が繰り返された。鳥羽上皇の代にほぼ完成し,14世紀頃まで代々院御所として使用されました。
そして鳥羽上皇も東殿(安楽寿院)に本御塔(ほんみとう)と新御塔(しんみとう)の2つの塔を造営し、本御塔を自らの墓所と定める。保元元(1156)年,鳥羽上皇が安楽寿院で亡くなると,遺言に従い本御塔に埋葬されました。
鳥羽離宮の復原イメージ(上記サイトより)
鳥羽離宮は、幾つもの御所と御堂と庭園・苑池から成り立ち、東西1.5キロ、南北1キロのその広大な敷地は約百八十町(180万平方メートル)あったそうで、京都御苑の3倍(甲子園球場約26個分)といわれる。東には鴨川(旧)が、西には桂川(旧)が流れ(現在は、流れが変更されている)、その合流地点で水の豊かな土地。
離宮西端には「鳥羽の作道」(とばのつくりみち)が通っていた。これは平安京の朱雀大路を真南に真っ直ぐ伸ばした約3キロの道で、都と鳥羽とを結んでいる。
鳥羽離宮を構成する南殿・北殿・東殿・馬場殿(城南宮を付設)・泉殿・田中殿などの御所には,それぞれ御堂が附属し,その周辺には広大な池を持つ庭園が築かれました。離宮内への各御殿には舟で往来していた。
鳥羽離宮は、院政という政治の場でしたが、同時に末法の時代を反映し多くの寺院が造営され、更には遊興の地でもあった。
その後院政は、更に後白河上皇、後鳥羽上皇まで4代150年続くが、院政の終焉とともに離宮内の建物は姿を消していき、南北朝時代の戦火によって、多くの建物が焼失し、その後急速に荒廃していった。
現在は、すぐ傍に名神高速道路京都南インターチェンジが現れ、工場や倉庫などの点在する住宅地となり、鳥羽離宮を偲ばせるものは安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみとなっています。
鳥羽離宮跡公園
現在の鴨川沿いに「鳥羽離宮跡公園」があります。これは鳥羽離宮で最初に造営された南殿の跡が整備され公園とされたもの。現在、国の史跡公園に指定されています。公園といっても遊具や施設が見られず、広いグラウンドがあるだけです。グラウンドの片隅で、おじさん、おばさん達がゲートボールに興じられていた。
公園北に、樹木に覆われた土盛りがあります。鳥羽離宮では、四季の山になぞらえて四つの山が庭園内に造られた。この土盛りは、その中の一つで「秋の山」と呼ばれ、地上に明確に残るほぼ唯一の鳥羽離宮の庭園遺構だそうです。また、公園北側には「中島秋ノ山町」という町名が残っている。なお、城南宮の庭園・楽水苑内に「春の山」が新しく造られています。
最上部に石碑が建てられていたが、文字が読めず、何の碑なのか判らない。明治45年2月という建立日だけが判明。
南殿の復原図(公園内の案内板より)。現地案内板には
「昭和38年から42年にかけて調査し、建物と庭園の跡を確認したもの。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる」
「南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお、大門・中門・中門廓・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている」とあります。
鳥羽伏見戦跡
鳥羽離宮跡公園内の土盛り「秋の山」の傍に、「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋」という解説版が設置され、その横に新政府軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)と幕府軍(会津藩、新撰組)の布陣図まで置かれている。解説板は、文字がかすれ読みにくいので、全文を紹介します。
「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋
小枝橋は、慶応4年(1868)正月三日、京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。大政奉還し大阪城にいた徳川15代将軍慶喜は、薩摩を討つため上洛を決意します。大阪から淀川を上って竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府軍本体が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、伏見街道周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。
「将軍様が勅命で京に上るのだから、通せ」という幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩のアームストロング砲を発射、この砲声を合図に幕府軍1万5千人と新政府軍6千人の激しい戦いが始まります。こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。新しい時代「明治」は、ここ伏見から始まったといえます」
鳥羽離宮跡公園から北へ少しいった車道脇に「鳥羽伏見戦跡」の石柱が建てられている。案内板には「明治元年(1868)正月3日(太陽暦1月27日)夕方、この付近での戦が、鳥羽伏見戦の発端となった。王政復古ののち、将軍の領地返納をきめた朝廷、薩摩、長州藩らの処置を不満とした幕臣、会津、桑名軍は、正月1日挙兵、大阪から京都へ攻め入ろうとし、薩摩、長州軍はこれを迎えうった。城南宮には、薩摩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍、幕府大目付滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとするのを阻止して、談判の後、ついて薩摩軍から発砲した。この一弾があたかも合図となって、戦端はひらかれ、鳥羽伏見両方面で激戦がつづき、正月6日幕府軍は敗退した。この一戦をきっかけに、戊辰(ぼしん)戦争が始まった。伏見区中島秋ノ山町」とあります。戦いの発端となった小枝橋がこの付近にあったのでしょうか。
城南宮(じょうなんぐう)
城南宮の東の入口
城南宮の創建には諸説あるが、城南宮公式サイトには「延暦13年(西暦794年)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を八千矛神(やちほこのかみ)と息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)に合わせ祀り、城南大神と崇めたことが城南宮のご創建と伝え、城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意味です。」と記載されている。息長帯日売尊とは神功皇后のことです。
平安後期に鳥羽離宮が造営されるとその一部となり、馬場殿にあった城南寺の鎮守社となる。応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって復興され、この地方の産土神として崇敬されてきた。
境内は開放されており無料で自由に拝観できる。庭園の神苑「楽水苑」だけ有料です。
参道を進むと、右側に朱鳥居、その奥に拝殿、本殿が現れる。朱鳥居の最上部には屋根が葺かれ、その下に城南宮の御神紋「三光の紋」が輝く。太陽と月と星を組み合わせた非常に珍しいもので、神功皇后の軍船の旗印にちなんだものだそうです。方除けの神徳を表し、城南宮は方除け、交通安全、旅行安全の神として信仰されている。
鳥居の横に水屋があります。この湧き水は、伏見の名水10ヶ所の一つ。傍の説明板によれば、「延命水」「菊水若水(きくすいわかみず)」とも呼ばれ、この水を飲むとあらゆる病気が治る。東大寺のお水取りの水は、若狭の国からこの「菊水若水」を通り二月堂の若狭井に達するそうです。
能舞台風の拝殿の背後に本殿がある。しかし本殿は現在、平成の御遷宮の最中で覆いが被され見ることはできません。平成30年秋を目指して修復中とのこと。
祭神は息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)・八千戈神(やちほこのかみ、大国主神)・国常立尊(くにとこたちのみこと)。
現在は、普請・造作・転居・旅行・交通安全など方除け(ほうよけ)の神社として広く信仰されてている。
「熊野詣出立の地」の立て札が立つ。それによれば、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の熊野御行では、鳥羽離宮で方除けの精進を勤め旅の安全を祈願し、近くの鳥羽の湊から舟に乗り淀川を下って難波津より陸路熊野に向かわれた。
本殿、拝殿、神楽殿など城南宮の建物の外側を一周するように庭園「楽水苑」が設けられている。昭和の造園家・中根金作氏(1917-1995)の作庭によるもので、四季折々の草花を観賞できるようになっている。
庭園入口は拝殿の左にある。境内は自由に参観できるが、この楽水苑は入園料が必要です。大人:600円、中小学生:400円。入園時間は:9時~4時半まで。
庭園に入ると、まず「春の山」と源氏物語の世界が迎えてくれる。
鳥羽離宮では、四季の山になぞらえて四つの山が庭園内に造られた。その中の一つ「秋の山」が鳥羽離宮跡公園内に現存しています。ここ城南宮の中に「春の山」が再現されたのです。「秋の山」と同じように築山され、春には椿やしだれ梅などが彩りをそえる。またその周辺は「源氏物語の庭」と称され、紫式部、夕顔、桐など源氏物語に登場するほとんどの植物が植えられています。
境内の東側に広がるのが「平安の庭」。平安貴族の邸宅の庭に倣って造られたという。池と植栽、苔の美しい庭です。
「平安の庭」の南側に、苔むした広場があり、池から流れ出る小川が曲がりくねっている。ここが毎年4月29日(昭和の日)・11月3日(文化の日)に催される「曲水の宴(きょくすいのうたげ)」の場所です。王朝時代を偲ばせるその優雅な催しは、写真では見たことあるが実際に見てないので、城南宮公式サイトより紹介すると
「木漏れ日もやわらかな平安の庭を、ゆるやかに曲がりながら流れる一筋の遣水(やりみず、小川)の辺(ほとり)で、雅やかな曲水の宴を行っています。この曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事で、京都を代表する年中行事に数えられ、次のような次第で行われます。
色とりどりの平安時代の装束を身につけた7名の歌人(男性5名は狩衣[かりぎぬ]、女性2名は小袿[こうちき]を着用)が席に着くと、1人ずつ歌題を確認します。そして歌人が遣水の傍らの座に着くと、中央の舞台で白拍子の舞がしずしずと披露されます。次いで2人の水干(すいかん)姿の童子が朱塗りの盃にお神酒を注ぎ、羽觴(うしょう、鴛鴦[おしどり]の姿を象った盃台)に載せ、川上から次々に流します。琴の音が響く中、歌人は歌題にちなんだ和歌を詠み、それぞれ短冊にしたためます。そして、和歌を書き終えた歌人は、目の前に流れて来た羽觴を取り上げ、盃のお神酒をいただくのです。全員が和歌を詠んで盃を飲み終えると童子が短冊を集め、これら7首の和歌は、平安時代さながらに節をつけて神職によって朗詠され、神様に奉納されます。
こうして、春は新緑の中、秋は紅葉が色づき始める神苑で、約1時間にわたって王朝の雅な世界が再現されます。」
午後2時よりおよそ50分間、平安の庭で斎行される。当日は、神苑楽水苑が無料公開され自由に観覧できる。ただし混雑が予想され、観覧者多数の場合は危険防止の為、入場制限を行うそうです。
楽水苑はグルッと一周しているので一度参道へ出る必要があります。参道を横切ると、次なる庭園への入口が見える。入園券なしに勝手にはいることはできません。可愛い巫女さんがチェックしています。
再入場すると、まず現れるのが「城南離宮の庭」、そして最後に広々とした池泉廻遊式庭園が現れる。「室町の庭」と「桃山の庭」です。右の刈り込みは山並みを表し、芝生の海には島が点在し、右端の松は船の形になっている。写真手前には茶席「水石亭」があり、庭園を眺めながら季節のお菓子とお抹茶を味わえるそうです。
田中殿と西行寺跡
新城南宮通りを渡り、200mほど行くと高速道路に突き当たり、その手前が田中殿公園です。町工場が立ち並び、すぐ横が名神京都南インターチェンジで、その近辺にラブホテルが乱立する。環境は最悪で、離宮を示すものは公園名以外に何も見られなかった。
田中殿は,鳥羽上皇が離宮内に造営した最後の御所で、皇女八条院のために建立したもの。西には寝殿、東には金剛心院などが建ち,庭園や池があり,舟つき場を備え南殿や東殿などと繋がっていた。
それらの遺構が見つかっており,現在,その跡が「田中殿公園」として整備されたものです。
田中殿から安楽寿院へ向う途中、住宅に挟まれた狭い空き地に西行寺跡(さいぎょうじあと)がある。「西行寺跡」と刻まれた石と、小さな祠が並んでいるだけです。ここは西行(俗名:佐藤義清)が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられています。江戸時代に西行寺が建てられ、境内には月見池・剃髪堂があった。西行寺は、明治11(1878)年観音寺(伏見区竹田西内畑町)に併合され、現在は西行寺跡を示す石碑が残されているだけです。
白河天皇 成菩提院陵と北向不動院
西行寺跡から、本通りに出て150mほど南へ歩くと「白河天皇 成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)」です。ここは鳥羽離宮の泉殿内に位置し、白河上皇は自らの墓所として三重塔を建立した。大治4(1129)年、77歳で崩御すると,火葬後,遺骨は一旦香隆寺(こうりゅうじ,北区)に埋葬された。三重塔に付属して御堂成菩提院が完成すると,遺言に従って三重塔の下に改葬されました。
Wikipediaによれば「白河法皇は当初、自身の死後は土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。法皇の遺体を荼毘に付したとされる火葬塚は京都市北区の金閣小学校の近くに現存する。」
宮内庁の陵形名は「方丘」となっている。現在、33メートル四方の正方形の盛り土があるだけで、三重塔は失われている。発掘調査によると、元は一辺56メートルの正方形で,周囲には幅約8メートルの周濠が巡らされていたそうです。
白河天皇 成菩提院陵から車道を渡り、少し行くと北向不動院(きたむきふどういん)がある。
案内板によると,大治5(1130)年鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮の安楽寿院内に興教大師を開山として創建されたという。もとは天台宗延暦寺末寺でしたが,現在は単立寺院。
南の入口から入り、奥へ進むと本堂が北向きに建つ。この本堂には、興教大師が仏師康助に刻ませた本尊の不動明王(重要文化財)が祀られています。王城鎮護のため北向きに安置されたことから,鳥羽上皇から「北向不動院」の名を賜ったといわれています。
本尊の不動明王は秘仏ですが、鳥羽上皇の誕生日である毎年1月16日に行われる「御開扉特別加持祈祷」のときだけ開扉されるそうです。大護摩が修され、護摩の煙にあたると一つだけ願い事がかなうという。俗に「一願の護摩」と呼ばれている。
安楽寿院(あんらくじゅいん)
安楽寿院内の案内図より
鳥羽離宮内の南殿には証金剛院が、田中殿には金剛心院が、北殿には勝光明院が建てられたが、現存していない。この安楽寿院は東殿に設けられたもので、唯一現存している遺構です。
安楽寿院は保延3(1137)年,鳥羽上皇の御願によって東殿に創建された御堂で、阿弥陀三尊像が安置された。その後、三重塔(本御塔、ほんみとう、後の鳥羽上皇の墓所),九体阿弥陀堂,新御塔,不動堂も相次いで建設されました。
平安後期以降は、戦乱などで多くの伽藍を焼失し衰退していく。安土桃山期に豊臣秀吉・秀頼父子の支援のもとに復興し、規模は縮小されたものの維持されてきた。幕末の鳥羽・伏見の戦(1868年)では官軍(薩摩軍)の本営となり明治維新の一役割を担う。しかし明治の廃仏毀釈で伽藍、末寺、土地の多くを失う。戦後も災いは続き、昭和36(1961)年の第2室戸台風で大きな被害を受けている。建物の多くはその後に修理再建されたものです。
現在、真言宗智山派に属す。市指定史跡。
左太師堂、右は薬師堂と鐘楼。
大師堂は、安土・桃山時代(1596)に建立され、弘法大師像を祀っています。
薬師堂は台風による倒壊後、1959年に建立されたもの。かっては阿弥陀堂と呼ばれ、本尊の阿弥陀如来像が安置してあった。鐘楼は、江戸時代(1606年)に、豊臣秀頼による大修復の際に建立された。柱、梁にのみ当時の材を残す。
薬師三尊・釈迦三尊・阿弥陀三尊の三体からなる三尊石仏が、江戸時代に境内の西にあった成菩提院跡から出土した。平安時代の貴重な遺仏といわれる。そのうち最も保存状態のよい阿弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託され、博物館の前庭に置かれている。残り二体がこうして小屋の中に、向かって右に釈迦三尊、左に薬師三尊が安置されています。
近衞天皇安楽寿院南陵
安楽寿院の諸堂とは道を挟んで反対側に、近衞天皇安楽寿院南陵(このえてんのう あんらくじゅいんみなみのみささぎ)がある。
1157年、鳥羽天皇の皇后・美福門院の葬所として新御塔(しんみとう)が建てられました。1160年美福門院は亡くなったが、その遺言に従い遺骨は高野山に葬られた。そのため、既に亡くなっていた息子の近衛天皇の遺骨を知足院(ちそくいん,北区紫野)からこの新御塔に移し改葬されたのです。
遺骨が納められた新御塔ですが、現在の多宝塔は慶長11年(1606)、豊臣秀頼によって再建されたもので、その中に骨臓器が納められている。宮内庁も「陵形:多宝塔」としている。土盛りされた丘や石塔などがほとんどの歴代天皇陵だが、こうした建物形式の陵墓は非常に珍しい。
鳥羽天皇安楽寿院陵
境内の道を西へ歩くと、突き当たりに石標「白河法皇・鳥羽法皇院政の地」と「冠石」が置かれている。そこを右へ曲がるとすぐ鳥羽天皇安楽寿院陵(とばてんのう あんらくじゅいんのみささぎ)です。
下々をそんなに叱りつけなくても・・・
鳥羽上皇は、白河上皇に倣って生前に自らのの墓所として安楽寿院内に三重塔(本御塔)を造られていた。保元元年(1156)7月に崩御された鳥羽上皇は,遺言に従って三重塔(本御塔)の下に埋葬されました。第一層の須弥檀上には上皇の念持仏だった阿弥陀如来坐像が安置された。
当初の本御塔は永仁4(1296)年に焼亡。現在の御陵は元治元(1864)年に造営された法華堂です。なお、宮内庁発表の公式形式は「陵形:方形堂」となっている。
詳しくはホームページを