2017年11月28日(火)「ねね」の高台寺、青蓮院門跡、そして最後に永観堂へと紅葉鑑賞へ。今回は青蓮院門跡の紹介です。
青蓮院:境内図と歴史
青蓮院門跡の由緒について、青蓮院の公式サイトは次のように記している。
「日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊を幾つも作りましたが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊でした。
平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりであり、行玄が第一世の門主であります。その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られていました。」
名称「青蓮」は、最初に比叡山東塔南谷(現在の大講堂南の崖下付近)に作られた住坊が、その近くに青蓮池があったことから「青蓮坊」と呼ばれたことに由来する。山下へ移転した当初は現在地のやや北西にあたる三条白川の地にあったが、河川の氾濫を避けて鎌倉時代に高台の現在地へ移ったという。
名著「愚管抄」で有名な慈円(関白藤原忠通の子)が第3代門主に、室町時代には第3代将軍・足利義満の子・義教が義円と称して門主を務めた(後に還俗し第6代将軍に就く)。近代までの門主の内訳は、皇子は12人、皇族は13人、摂関家子弟は13人、足利家は1人。
天明の大火(1788年)で内裏が焼失した時には、女帝・後桜町上皇(第117代)が青蓮院に一時的に避難され、地名から「粟田御所」とも呼ばれた。このため現在、青蓮院旧仮御所(仙洞御所)として境内全域が国の史跡に指定されています。
門跡寺院といえど明治の廃仏毀釈によって大きな打撃を受ける。境内は五分の一に減らされ、さらに明治26年(1893)の火災で建物のほとんどを焼失した。現在の建物はそれ以後に再建されたものです。
戦後では平成4年(1993)、茶室「好文亭」が過激派(中核派)によって放火されるという事件まで遭遇している。
天台宗の寺院で、山号はなく、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。「青蓮院(しょうれんいん)」とも「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」とも呼ばています。門標、拝観券、公式サイトとも後者の表記となっている。
クスノキの大樹
円山公園、知恩院前を通りすぎ、平安神宮へと続く道です。人通りも、車も少なく、京都でも大変気に入っている道の一つ。歩いていると右手土手堤に大楠木が現れる。枝を大きく広げ道に被さり、日陰をつくってくれる。大クスノキの後方にあるのが「御幸門(四脚門)」で、江戸時代初めに御所の旧殿の門を移築したものです。明治26年の火災をまぬがれている。
この大クスノキこそ青蓮院のシンボルです。車道沿いの土手に2本、表門へ向う右手に2本、境内の宸殿前庭に1本、と5本あります。いずれも大枝を四方に伸ばした姿は圧巻です。青蓮院が現地に移された頃に植えられたそうで、樹齢は800年を越えている。京都市天然記念物に指定されています。
車道から入口の表門へ。右土手上に「長屋門」があり、門の両側に2本の大クスノキがそびえる。「長屋門」も、「御幸門(四脚門)」同様に江戸時代初めに御所の旧殿の門が移築されたもの。
植髪堂
表門を潜り、右へ曲がると青蓮院の主要伽藍へ、左へ進めば植髪堂です。植髪堂へは何時でも自由にお参りできる。
養和元年(1181)、9歳の親鸞は青蓮院第3代門主・慈円のもとで得度(出家し仏門に入る)した。その時切り落とした髪が、親鸞の親族によって保管され、親鸞聖人の童形像の頭上に植えつけられていた。その後、その像が青蓮院に移されとという。
「童形像」が安置されている植髪堂は、1759年に建立され、1880年現在地に移転。蓮如も青蓮院で得度を受け、「本願寺の法王は明治までは当院で得度しなければ公に認められず、また当院の脇門跡として門跡を号することが許された」(青蓮院受付で頂いたパンフより)という。
現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深く、大クスノキの下には「親鸞聖人得度聖地」と刻まれた大きな石碑が建てられています。
玄関から華頂殿・小御所・宸殿へ
ここら辺りまでは自由に散策できる。正面が事務所で、玄関で履物を脱ぎビニール袋に入れ持参する。玄関を上がり拝観受付をする。
拝観時間 9:00 - 17:00
拝観料 大人500円(ライトアップ拝観料金 大人800円)
玄関から奥へ進むと客殿の華頂殿です。大変綺麗なお部屋で、この建物だけは内部を撮影できる。蓮の描かれた襖絵は絵師・木村英輝氏が描いたもの。また三十六歌仙の額絵が掲げられている。廊下に座って、室町時代に相阿弥によって造られたと言われる美しい庭園を眺めるのも良い。(写真は、高台にある好文亭から撮った華頂殿)
渡り廊下から見た小御所(左)と宸殿(右)。華頂殿から始まり、各建物は渡り廊下でつながれているので、まず建物内部を見てまわる。といっても建物内部は撮影不可なので紹介できませんが・・・。そして華頂殿の脇から降りて履物を履き庭園に入る、というのが拝観コースになっている。
小御所は、天皇が一時的に仮御所として使用された建物。明治26年(1893)に焼失したが、その後復興された。
小御所への渡り廊下の脇に、横に長い大きな手水鉢が置かれています。これは太閤豊臣秀吉の寄進により聚楽第より移されたもので、「一文字手水鉢」と呼ばれている。
渡り廊下を通り宸殿へ。宸殿入口にトレイレがあります。
Wikipediaから引用します。「小御所の西側に建つ、寺内で最も大きな建物。東福門院の御所が寄進されたもの。入母屋造、桟瓦葺きで、明治26年(1893年)の焼失後の復興である。「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂である。障壁画浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。なお、1962年に襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明となっている。」
またこの宸殿には「おみくじ」が置かれ、日本のおみくじの元祖だそうです。
相阿弥の庭園
廊下から地に降り靴を履き、トンネル(?)を抜けるとそこは美しい庭園だった。
小御所から華頂殿前までの庭園は「相阿弥の庭」と呼ばれている。室町時代に相阿弥(そうあみ)によって造られたと伝わる美しい築山泉水庭園。相阿弥は能阿弥の孫で水墨画家として名高いが、作庭家でもあった。粟田山の山裾を借景にして、龍心池を中心に巨石や石組みを配し、築山や滝をバランスよく置いている。この時期、鮮やかな紅葉と築山の緑が対照的で、見飽きません。
龍心池は小御所の高欄の下にまで入り込むようにのび、そこでは鯉が戯れていました。
霧島の庭
「相阿弥の庭」の小径を、華頂殿前を抜けて北へ行くと、そこは紅葉の美しい「霧島の庭」です。
江戸時代の小堀遠州作と伝えられる庭で、山裾斜面一面に霧島つつじが植えられていることから「霧島の庭」と呼ばれている。5月初旬にはこの一帯を真っ赤に染めるあげるという。秋の紅葉も見事で、青蓮院の紅葉ではここが一番でしょう。
茶室・好文亭
霧島の庭から少し高所へ上ると茶室・好文亭がある。近づくと、いきなり奥から和服の超綺麗なお嬢さんが現れたのでビックリした。「お茶をどうですか」と。上がるべきかどうか悩むが、お茶を嗜むような柄でもないので止めました。
この建物は、1772年に学問所として建立されたもの。天明8年(1788)に後桜町上皇が青蓮院を仮御所として一時避難された際には、上皇の御学問所として使われた。明治以降は茶室として利用されていたようです。
この好文亭は、平成5年(1993)4月に過激派(中核派)の放火により焼失するという不幸な事件に遭います。何故、中核派が狙ったのでしょうか?。2年後に再建されている。
青蓮院門跡のサイトは「焼失前の図面と、本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に、江戸時代の本格的数奇造りを忠実に再建しました。木材等の材質も全く同じで、完全復元されましたた。内部は四畳半の茶室三部屋と六畳の仏間、水屋等からなります。障壁画十三画は、日本画の大家、上村淳之画伯の御奉納による花鳥図です」と紹介している。
好文亭は、毎年春と秋の特別拝観期間にだけ茶室が一般公開されています。
本堂(不動堂と熾盛光堂)
高台の好文亭から降りると、本堂の裏に出る。本堂は二つの部分からなっている。青不動明王を祀る不動堂、そして熾盛光堂(しじょうこうどう)です。
不動堂の扉が開いていて、青不動明王(レプリカ?)らしきものが垣間見えます。この不動堂には国宝の「青不動明王」(絹本著色「不動明王二童子像」)が祀られていたが、平成26年(2014)からは、青蓮院裏側の山頂に新しく建てられた将軍塚の青龍殿の方に移された。「日本三不動」(他に三井寺の黄不動、高野山明王院の赤不動)の一つに数えら、「青不動」と呼ばれている。
本堂を裏手から西側に回りこむと、熾盛光堂(しじょうこうどう)の正面に出る。方三間の小さなお堂ですが、ここに青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅が安置されている。豊臣秀吉により寄進され、安土・桃山時代の文禄5年(1596)に絵師・狩野左京により描かれた絹本著色「熾盛光如来」(200.1㎝×143㎝)の掛け軸です。通常は非公開。
宸殿の前庭
本堂から宸殿の前庭を通って出口に向う。この宸殿の前庭が、青々と苔むし、緑に囲まれ美しい。今まで艶やかな紅葉を見てきた後だけに新鮮に感じられます。宸殿前には右近の橘、左近の桜も植えられ、皇室と縁の深い寺であることを示している。
宸殿側から撮ったもの。こうした庭には和服が似合います。元々は白砂の広がる庭だったようですが、スギゴケの庭に替えられたそうです。またこの庭には青蓮院五大クスノキの一本もそびえています。
軒唐破風、こけら葺きの「大玄関(車寄せ)」を右手に見ながら出口へ。
「モミジの永観堂」へ向います。
詳しくはホームページを
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