山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

竹内街道ひとり歩き (その 5)

2014年10月02日 | 街道歩き

 野中寺(やちゅうじ)  



竹内街道から北に100mほど外れるが、府道31号線に面して野中寺が建っている。

聖徳太子建立48寺院の一つとされ、「上之太子」叡福寺(太子町)、「下之太子」勝軍寺(八尾市)とともに「河内三太子」の一つで、「中之太子」と呼ばれ有名です。寺の伝承では、蘇我・物部の戦いで蘇我側につき参戦していた厩戸皇子(後の聖徳太子)が、休息をとったこの地に、その後太子が蘇我馬子に命じて建立させたとされている。ちなみに勝軍寺は決戦の行われた場所、叡福寺は太子が眠っている場所です。
寺伝の蘇我馬子創建説に対して、渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説が有力になっている。中世以降に盛んになる太子信仰のなかで、聖徳太子と結びつけられるようになったのではないかといわれている。
 
朱塗り鮮やかな山門をくぐると、境内が広がる。飛鳥時代~奈良時代前半には、現在よりは大規模な伽藍が存在したようだ。南から南大門、中門があり、それに続いて西側に塔、東側に金堂が並び、正面北側に本堂・講堂を配置するという法隆寺式伽藍配置だったようです。ただし法隆寺と違い塔と金堂が向かいあっており「野中寺式伽藍配置」とも呼ばれ、国の史跡に指定されている。その後、戦火などにより多くを失い、創建当時の広い伽藍も、現在は境内参道の右手に金堂跡、左手に塔跡の礎石が残されているのみ。
境内の正面には本堂が佇む。この本堂の位置は、創建当時の旧講堂が建っていた場所だそうです。本堂はそれほど大きくないが、桁行五間、本瓦葺の落ち着いた構え。本堂正面には幔幕が張られ、人だかりがしている。聞けば、15分後の4時から餅まきが行われるそうです。グッドタイミングで訪れたものです。それまで境内を散策することに。

境内奥に、広い野中寺霊園がある。この霊園の中には,心中事件で歌舞伎・浄瑠璃にもなった「お染久松」のお墓があります。墓名石が立っていなければ分からないほどの、慎ましやかなお墓です。それでも墓参する人が絶えないせいか、新しいお花がたくさん供されていた。

豪商油屋の一人娘お染と丁稚久松が道ならぬ恋のはてに心中するという悲しい物語は歌舞伎・文楽浄瑠璃で演じ続けられ、お馴染みです。お染の父親天王寺屋権右衛門が十三回忌にあたる、享保7年(1722年)に二人のために建てたお墓。古色蒼然とした墓碑の表面には戒名「宗味信武士 妙法信女」が、裏面には「享保七年十月七日 俗名 お染 久松 大坂東掘 天王寺屋権右衛門」と刻まれている。なお、お染久松の供養塚は野崎観音(慈眼寺、大阪府大東市野崎2丁目)にもあります。
一通り境内を散策し、餅まきが始まる時刻なので本堂前に戻る。かなりの人が集まっているが、四時だというのに始まらない。地元風のおじさんに尋ねると「例年に比べ人の集まりが悪いので様子を見てるんでしょう」とのこと。ビニール袋を片手に、ご近所の人が集まってくる。四時十五分、いよいよ開始。壇上から一斉に、白紙に包まれた餅が投げ上げられる。うわ~という歓声とともに、背伸びして空を飛ぶ餅をキャッチしようとする人、ひたする地面を拾いまくる人など、騒然としてきた。私は冷ややかな目線で、この争奪戦の様子を写真に撮ること専念。横の「ヒチンジョ池西古墳の石棺」の台上で眺めていたが、やがて冷ややかではいられなくなった。ヨッし俺もと争奪戦の中へ参戦していった。飛んでくる餅を、誰よりも早くキャッチしようとジャンプするが、空をつかむばかり。それではと地面の拾いに専念する。ヨッし取れたと思ったら、横から素早く手が伸びかっさらわれる。地元の方は慣れているせいか素早く、まるでカルタ取りダッシュで引ったくり、ビニール袋の中に放り込んでいく。それでも辛うじて四個拾いカバンの中へ入れました。
例年は、取り合いが激しいので男女を分けて行っていたそうです。今回は集まりが少ないので、まとめてやったんでしょう。この餅まきって一体何の行事なんでしょう?。帰宅後ネットで調べたがよく分からない。聖徳太子のお墓がある叡福寺では、毎月11日にお太子さま月並法要が行われるという。これと関係あるんでしょうか?。

 羽曳野市西部から松原市へ  


野中寺を出て、羽曳野市西部を松原市目指して歩く。この辺りの街道沿いには古跡は無く、ただ住宅地が続く。竹内街道の面影は全くありません。高い金網フェンスが廻らされた「落ケ池」の横を進み、下町の込み入った市街路を歩く。ウォーカーが好んで歩くような場所ではない。学童もかわいそうです。しかしこれも竹内街道の一部なのです。

東除川に架かる伊勢橋を渡ると、10分ほどで「羽曳野市立 丹比コミュニティセンター丹治はやプラザ」です。地域の憩いと交流のための施設で、傍にはものものしく「官道第一号竹内街道」の真新しい道標が建つ。どこもかしこも世界遺産登録ブームのようです。大阪府と関係自治体は世界文化遺産登録をめざした運動を進めたが、平成25年8月に開催された国の文化審議会世界文化遺産特別委員会では推薦は見送られた。当然である。宮内庁の頑な態度により、内部が解明されていない遺産が、世界遺産に登録されるはずがない。「古墳の一つ一つがかつての日本の姿を今に伝える貴重な歴史遺産であり、日本の歴史の1ページを語る世界的な遺産でもあります」(堺市の公式HP)、「古墳は、日本史上において重要であるだけでなく、人類の歴史や社会を考える上でも極めて高い意義をもつ歴史遺産であり」(大阪府HP)。世界文化遺産登録よりもまず、内部の発掘調査により日本の歴史の1ページを解明し、高い意義をもつ歴史遺産にしてほしいものだ。

新ケ池を過ぎると、下町の工場地帯に突入する。今にも作業車が横から出てきそうです。できることなら避けて通りたい地域。工場地帯を抜けると今度は交通量の激しい府道31号線が待ち構え、その先では関西産業の大動脈である幹線道路「近畿自動車道」を越えなければならない。越えた先が松原市になる。この辺りは竹内街道で最悪の場所です。街道でなくてもよいから、迂回路でもあれば避けて通りたいが、それも無いようです。

近畿自動車道を抜けると、ようやく工場と車から解放され、住宅路になる。所々に、あの太子町でよく見かけた「竹内街道」と書かれた花壇が置かれている。しかしあの太子町ほどの熱意は感じられず、街道の雰囲気は無い。
しばらく行くと松原南図書館に出会う。その前が十字路になっており、古い石の道標が置かれている。

  右 ひらの 大坂 道
  左 さやま 三日市 かうや 道
 (逆の面には)
  左 さかい道
  寛政九年丁巳五月 いせこう中

傍の説明版には
「竹内街道・中高野街道の寛政九年道標
岡四丁目の現在地は、江戸時代、丹北郡松原村岡で、堺と大和とを結ぶ竹内街道と、京・大坂から狭山を経て高野山(和歌山県)へ向かう中高野街道(なかこうやかいどう)の分岐する所でした」とある。

 金岡神社(かなおかじんじゃ)  


松原市の岡公園を過ぎるとすぐ西除川に架かる西除橋に出会う。橋を渡るといよいよ最後の堺市です。
町工場や住宅が混在する堺の下町を歩く。この辺り、竹内街道を知らせる道標も案内図も何もありません。頼るのは手持ちの地図とカンだけ。時々、この道でいいのかナ?、と不安になります。時刻も五時半になり、夕陽もさしてくる。
目印の金岡中央病院を過ぎると、大阪府営の広大な大泉緑地が見えてきた。地図をみるとデッカイが、緑地沿いの道を歩けばそれ以上に大きく感じる。歩けど歩けど端にたどり着けない。次の目的地・金岡神社を目指すが、どっちの方向か判らなくなってきた。犬と散歩中の人に尋ねると、方向違いへ歩いていた。緑地沿いの道を直進していたと思っていたが、実際は緩やかなカーブを描いた曲線の道を歩いていたのです。あまりに広大な緑地なので、曲線を直進と錯覚していた。西へ行くところを、北へ向かっていたのです。金岡神社の方向を教えてもらい方向転換。竹内街道から大きく外れてしまった。

六時過ぎ、回り道をしてようやく金岡神社にたどり着く。街道ひとり歩きもここまでです。

案内板より
「当社の起源は、仁和年間(885年頃)と伝えられ、住吉三神、素戔鳴命、大山昨命などの神々に加え、平安時代前期の絵師・巨瀬金岡(こせのかなおか)をお祀りしています。社名の由来でもある巨瀬金岡は、日本画の祖とも言われ、唐風の絵画が主流だった当時に、日本独自の絵(やまと絵)の基礎を築いたとされる人物です。この辺りは、優れた絵や彩色などの技術を持つ河内絵師と呼ばれる人々が住んでおり、金岡はその中でも最高の位を極めました」とある。
この地域は、町名も駅名にも”金岡”が付く。そこにある神社なので「金岡神社」だと思っていた。どうもそうではなく、神社名も地名も平安時代の絵師の名前からきているようです。

両側に狛犬がにらむ紅い鳥居をくぐると、広くはない境内の正面に拝殿が控える。拝殿前左右には、樹齢900年と推定される御神木の楠の巨木が覆い、神社の風格をさらに増している。左側の楠は、高さ18m、幹周り6.1mもあり、堺市指定保存樹木に指定されている。

金岡神社の南側に、カラー舗装され整備された竹内街道が見えました。私は道を間違え、北側を大回りして神社へたどり着いたので、結局大泉緑地から金岡神社までは竹内街道を外れたことになる。距離にして3~4百mだが、歩き直す元気もありません。
この金岡の地は古来重要な地域だったようです。難波宮や四天王寺から真っ直ぐ南下する「難波大道」が、ここで竹内街道と交差し、東へ行けば大和から伊勢へ、さらに南下すれば高野山、紀伊方面へ行けます。

陽も翳ってきた。竹内街道を完歩できなかったが、金岡神社まで歩いたことに満足して、地下鉄御堂筋線の「なかもず駅」へ向う。その途中、またデッカイ楠の巨木に出会う。マンションや建売住宅と幹線道路との間の狭い一角で、「楠塚公園」と表示されている。
帰宅後調べると、この場所は「金岡神社御旅所(おたびしょ)」だったようです。正式名は楠の巨木の傍の石碑に刻まれている「金岡神社 頓宮・西之宮」。頓宮とは、お祭の時、ご神体を乗せた御輿で氏子の家々を廻る時に、一時的に休憩する場所をさす。金岡神社の西にある宮で、ご神体さまが御旅の途中にちょっと休息する所、という意味。

楠の木は、高さ18m、幹周り6.1mで、金岡神社のものと同じくらいの巨大さ。根元は竹柵で囲われている。これは昭和47年(1972)に火災に遭い、大きな空洞が出来たため、それを隠すためらしい。
なかもず駅に着いたのは18時40分でした。

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