山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 5)

2015年09月15日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城宮跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)  



平城宮跡の北側、佐紀丘陵と呼ばれる低い丘陵地帯の南斜面に全長200m級の巨大古墳が並んでいる。西の神功皇后陵から東のウワナベ古墳まで、17基(全長200m超8基を含む)の前方後円墳、方墳19基、円墳25基から成る日本でも有数の古墳群で「佐紀盾列古墳群」と名付けられている。各古墳の周濠の形が盾(楯)の形をしており、ずらっとたくさん並んでいることから「盾列」と呼ばれるようになったという。

ところで「盾列」をどう読むか?。”たてなみ”が一般的なようで、Wikipediaでも「佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)」とある。ところが宮内庁HPの「「狹城盾列池後陵」では”たたなみ”となっている。日本書紀に、成務天皇を「倭の狭城盾列陵に葬った」とし、注に「盾列は多多那美と読む」と記されているそうです。ネットを見れば、両方が入り乱れてようで、結局どっちでも良いのでしょう。なお、奈良県立橿原考古学研究所では、古代由来の地名だけの「佐紀古墳群」としているようだ。しかし、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館のページには「奈良盆地北部に展開する佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(佐紀古墳群)」と記されています。

 神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)  


近鉄・奈良線の大和西大寺駅で近鉄・京都線に乗り換えると、最初の駅が「平城駅」です。平城駅で電車を降り踏み切りを渡り、坂道を北へ上る。やがて車道脇に陵募の表示板と石段が現れる。石段から石畳に変わり、だんだんと神聖な陵墓の雰囲気に変わってくる。
考古学的には「五社神古墳(ごさしこふん)」と呼ばれる。丘陵先端を切断して造られた南向きの前方後円墳で、全長約275m・後円部径約195m、後円部高さ23m、前方部幅155m、前方部高さ27m、後円部4段、前方部3段の築成。佐紀盾列古墳群の中では最大の古墳で、全国でも12番目の大きさを誇る。後円部背後を除いて、満々と水をたたえた周濠で囲われています。
築造時期は古墳時代前期後半(4世紀後半~5世紀初頭)を想定。2003年の宮内庁の調査で、壺形埴輪、円筒埴輪が見つかっている。埋葬施設は不明だが、幕末の盗掘事件捜査記録から、石棺があったという。

五社神古墳は現在、宮内庁により神功皇后の「狹城楯列池上陵(さきたたなみいけのえのみささぎ)」に治定されています。かって神功皇后の陵墓は、現在の成務天皇陵やその横の佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)と混同されてきたが、文久3年(1863年)に五社神古墳が治定され現在にいたっている。
この神功皇后陵は、日本考古学協会などの長年の要請に応じ、宮内庁が初めて陵墓立ち入り観察を特例として認めた陵墓です。2008年2月22日代表16人が入り、墳丘すそ部の1段目だけを目視調査させてもらったのです。こんなので何の成果も得られるはずはない。宮内庁が立ち入りを認めた、というだけでビッグニュースになるほど。宮内庁は陵墓について「御霊(みたま)の安寧と静謐(せいひつ)を守るため」などとして学術調査を、いや立ち入ることさえ認めていない。調査できないので誰の御霊か、9割の陵墓がはっきりしないという。これでは、どこかの古墳群のように世界遺産登録を目指すなど、もってのほかではないでしょうか。

神功皇后は急死した夫・第十四代仲哀天皇に代わり、大和の磐余に若桜の宮を営み69年間摂政として政務を執り、101歳で亡くなったという。記紀にその伝記が詳しく記されているが、非常に伝説的な人物で、現在は実在説と非実在説が並存しているそうです。記紀によれば、自ら男装して軍船を整え、筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国に遠征した。その時、身籠って(後の応神天皇)いたが、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
こうした事跡から、江戸時代までは第15代天皇として数えられていたが、大正15年(1926)の詔書により、歴代天皇から外された。

ところで、夫(仲哀天皇)は岡ミサンザイ古墳(大阪府・藤井寺市)に、息子(応神天皇)は誉田御廟山古墳(大阪府・羽曳野市)に葬られているとされているが、何故、神功皇后だけが奈良盆地なのでしょうか?。しかも夫の天皇より大きな墳墓に。

 称徳(孝謙)天皇陵古墳(佐紀高塚古墳(さきたかつか))  


五社神古墳(神功皇后陵)から近鉄京都線を越え、さらに南下すると3つの巨大古墳が寄り添っている。佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)、佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)です。

車道を南へ歩いていると、左側(東方向)に見えてくるのが佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)。車道から100mほど離れているが畑越しに天皇陵の拝所を現す鳥居・玉垣・番小屋・制札がはっきりと見えます。

考古学的には「佐紀高塚古墳(さきたかつか)」と呼ばれる3段築成の前方後円墳。全長127m、後円部径84m、後円部高さ18m、前方部幅70m、前方部高さ14.8mで、前方部が南向きの多い佐紀盾列古墳群の中で珍しく西向きに築造されている。
この古墳は現在、公式陵名「称徳天皇 高野陵(たかののみささぎ)」と呼ばれ宮内庁が管理しています。
この天皇は聖武天皇の第2皇女で、母は光明皇后。32歳の時、聖武天皇から譲位され,第43代孝謙天皇として即位。一度退位し淳仁天皇に譲るが、再び復権し第45代称徳天皇として重祚する。
二度も天皇になった女帝で、生涯独身を貫き、お坊さん弓削道鏡との色恋を噂され、後世に「淫乱な女帝」として小説の好材料を残してくれた。そういう意味では稀有な天皇さんで親しみをもてるが、その年譜の流れをみると波乱に満ちた人生(718~770)だったようです。

佐紀高塚古墳は、埴輪の存在が確認され、それから考古学的に4世紀後半~5世紀前半の築造とされている。それなのに何故奈良時代の天皇の陵墓とされているのでしょうか?。すでにあった昔の墓に埋葬したのでしょうか?。天皇ですから、そんなことはあり得ないと思うが。
幕末の文久3年(1868)に、それまで高塚と呼ばれていたこの古墳を修復して、称徳天皇陵に治定したという。それを現在の宮内庁も意固地に守っている。現在では、西大寺の西方にある「高塚」の地を称徳(孝謙)陵とすべきだ、という説が有力なようですが。宮内庁管理の天皇陵なんて、実際に誰が眠っているのか不確かなものがほとんどだそうです。不確かなものを確かなものにしようとする努力さえしない・・・。

 佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん、成務天皇陵)  


佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)から車道を北へ少し戻ると、右側(東方)に階段が見えます。標識も、案内板も何も立っていないので、地元の人に尋ねなけれこの奥に天皇陵があるなどわかりようがない。
「佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)」と呼ばれ、全長218.5メートル、後円部の径132メートル、高さ19メートル、前方部は幅121メートル、高さ16のメートル規模をもち、全国で25番目の大きさの前方後円墳です。墳丘は三段築成で、葺石が多用されているために石塚山古墳の名がある。築造年代は4世紀後半~5世紀前半と推定される。
数度の盗掘の記録から、後円部に竪穴式石室があり、その中に長持形石棺が納められ、副葬品として剣・玉・鏡があったことがわかっている。また1995年には柵形埴輪、 楕円筒埴輪、 小形円筒埴輪、 家形埴輪が出土している。
宮内庁は「狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」の名称で第13代成務天皇の陵墓に治定している。しかし成務天皇が実在したかどうかさえ疑問が生じている。あの有名な日本武尊(やまとたける)は異母兄だが、こちらも非常に伝説的な人物です。

 佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん、日葉酢媛陵)  


佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)から東側へ遊歩道が設けられ、美しい池に出会う。これは佐紀陵山古墳の周濠で、穏やかな水面と周囲の緑の木々が映え、一服するのに良い場所です。周辺は快適に散策できるように歴史の道として整備されている。
この古墳は、全長207メートル、前方部幅約87メートル、後円部径131メートル、前方部高さ12.3メートル、後円部高さ約20メートルの規模の三段に築成された前方後円墳で、全国31位の規模。古墳時代・前期4世紀後半~5世紀前半の築造とされる。
後円部墳頂には、平たく割った石を小口積みにした石垣を矩形状に囲み、その内側に土を詰めた壇が造られていた。そこからは高さ1.5m、幅2mの大型の衣笠形埴輪、盾形埴輪、家型埴輪が見つかっている。土壇の下には長さ8m、幅1.1m、高さ1.5mの大きな竪穴式石室が設けられ、内行花文鏡などの大型方製銅鏡、腕輪型石製品などが出土している。
佐紀陵山古墳は宮内庁により「狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」として第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の陵墓に治定されている。
地元では、幕末まで神功皇后陵と考えられていた。神功皇后の神話から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していたという。後円部の墳頂に安産祈願の神社が設けられ、そこへの参道や妊婦の腰に当てたという白い石も置かれていたそうです。しかし明治の初め(1875年)日葉酢媛命陵に治定替えされ、現在にいたっている。

日葉酢媛については有名な埴輪起源伝説が残る。
垂仁天皇の叔父・倭彦命が亡くなった時、従来の習慣に従い近習の者たちを生きたまま墓の周りに埋めた。しかし、数日経っても地中から彼らの泣き声が聞こえ、死んで腐っていくと犬や鳥が集まってその肉を食べた。そうした様子に心を痛めた天皇は、殉死に代わる方法を群臣に問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴土(はにつち)で人や馬などいろいろな物を形造って陵墓に立てたらどうかと進言。垂仁天皇はその進言を取り入れ、日葉酢媛が亡くなった時、野見宿禰に埴輪を造るように命じる。宿禰は出身地の出雲(島根県)から百人の土師器(はじき)職人を呼び寄せ、埴土で造った人・馬などを埋めたという。これが埴輪に起源とされる。この功により、野見宿禰は土師連を賜り、以後土師連が天皇の喪葬を司るようになったという。
佐紀陵山古墳から大型埴輪が出土しているが、考古学的には最古のものではないようです。

 佐紀瓢箪山古墳・塩塚古墳  


佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)から東へ溜池風の池を越え、住宅と雑木林の混在した細道を北へ少し登っていくと佐紀瓢箪山古墳(さきひょうたんやまこふん)に出会う。史跡を示す石柱と案内板が立てられているのですぐ判ります。
この古墳は、全長96m、後円部径60m、高さ10m、前方部幅45m、高さ7mの南向き前方後円墳。4世紀末~5世紀初頭の古墳でないかと推定されています。

昭和46年(1971)に国の史跡に指定された。県によって環境整備され、周辺は緑豊かで住民の散策路、ウォーキング道となっている。佐紀盾列古墳群では、ほとんどの古墳が墳丘内に立ち入れないが、ここだけは例外です。墳丘周囲を一周する散策路を歩きながら、途中で墳丘上に登ってみる。それほど高くないのですぐ登れます。墳丘頂上は切り開かれ、きれいに刈り込まれた広場になっており、古墳を示すものは何もありませんでした。

瓢箪山古墳から北へ400mほど進むと、開けた田畑の中にこんもりとした森が見える。これが「塩塚古墳(しおづかこふん)」です。後円部に向かう細道があるので、進むと行き止まりになっている。古墳周囲には金網柵が設けられ入れない。柵内に標識と案内板が立てられていた。
全長105mの中形の前方後円墳。周濠は前方部にはなく、後円部の周りにのみ見られる。 後円部中央に主軸にそい長さ6.3m、幅0.65mの木棺を収めた粘土槨があり、棺内には剣・刀子・斧・鎌などの鉄製品が残されていた。5世紀前半から中頃の築造と思われる。
何度か古墳を削平する開発計画があったが、国の史跡に指定され(1975年)、その後奈良県により買い上げられて環境整備が行なわれたそうです。

 市庭古墳(いちにわこふん、平城天皇・揚梅陵)  


塩塚古墳から平城宮跡に向かって真っ直ぐ南下します。平城宮跡の近くまで来ると、平城宮跡の真裏に、民家に囲まれたこんもりとした森が見えます。これが市庭古墳(いちにわこふん、平城天皇陵)です。

現在は直径100mほどの円墳となっているが、元々は全長250m、後円部径147m,前方部幅100mもある巨大な前方後円墳で、前方部を南に向けていた。全国でも14番目の大きさだった。築造年代は5世紀前半で、出土遺物として円筒埴輪、 ほかに朝顔形・盾形・家形、 囲形埴輪の存在が知られている。
平城宮造営のために濠は埋められ前方部が削りとられ、現在のように後円部だけが残されたことが最近の発掘調査で明らかになった。平城宮建設という国家的事業にとって、巨大だが誰の墓かわからないような墳丘は邪魔になったのでしょう。棺が埋葬されていると想像される後円部だけを残して、前方部は全て取り崩して更地にし、内裏関連施設とされている。発掘調査によると、内裏や第二次大極殿跡の場所にも「神明野(しめの)古墳」が存在したという。全長114mの前方後円墳だったが、墳丘は完全に削られ跡形も無い。
市庭古墳は、宮内庁によって公式陵名「平城天皇 揚梅陵(やまもものみささぎ)」として管理されている。5世紀に築造された前方後円墳が、なぜ前方後円墳など造営されなくなった平安時代の天皇のお墓とされるのでしょうか?、不思議です。
第51代平城天皇(へいぜいてんのう、774-824)は桓武天皇の長子として生まれ、延暦17年(798)藤原家から妃を迎えるが、後見役としてやって来た妃の母親・藤原薬子(ふじわらのくすこ)のほうが気に入り、醜聞を招いてしまう。後に藤原薬子と共に平城京復活を目指すが負け、出家し現在の不退寺に草庵を結んで余生を送ったという。これを「薬子の変(くすこのへん、弘仁元年(810))」と呼ぶ。
平安京(京都)の天皇だが、最後まで平城京に深い愛着を抱き反乱まで起こした。そして遺骸は、平城宮真裏にタンコブのように残されている誰かのお墓を利用して追墓された。そう考えるしかないようです。天皇には惨いようですが、謀反をおこした天皇なのだから止むを得ないのでしょうか・・・(それとも宮内庁の治定そのものが???)。


詳しくはホームページ

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