山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

世界遺産をめざす百舌鳥古墳群 (その 1)

2015年12月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015年9月22日(火)、百舌鳥三陵を中心とした百舌鳥古墳群を周る。世界遺産にふさわしいか?

 田出井山古墳(反正天皇陵)  


百舌鳥古墳群巡りの出発点を田出井山古墳(反正天皇陵)とします。南海電車堺東駅の裏側・東出口から出る。堺市一の繁華街・堺東駅のすぐ前に堺市役所がそびえる。最上階の21階展望ロビーは無休で開放されている(9:00~21:00)。地上80mの高さから360度パノラマ展望ができ,ボランティアガイドさんもいて,親切に説明してくださる。
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は余りに大きすぎ,近くで眺めてもその全体像がつかみにくく、上空から眺めるしかない。この堺市役所21階展望ロビーは、上から古墳群を見下ろせ、絶好のビューポイントです。
堺東駅東側は,表側(西出口)の騒々しい繁華街と違い,閑静な住宅街です。その中を200mほど行くと突然高い鉄柵で囲まれた繁みが現れる。鉄柵に沿い進むと,すぐ正面拝所が見えてきました。
ここは宮内庁によって「反正天皇 百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)」に治定・管理されている。その根拠は,平安時代の「延喜式諸陵寮」(927)に「百舌鳥耳原北陵 反正天皇」と記されていることからくる。一番大きな大仙陵古墳を「百舌鳥耳原中陵」とし,仁徳天皇陵にあてはめ,その北側に位置しているこの古墳を「北陵」としただけである。それ以外に明確な根拠があるわけではない。
百舌鳥古墳群では七番目の大きさで,天皇陵にしては小さく,これを反正天皇陵とすることを疑問とする人も多い。現仁徳天皇陵の東方に位置するが,倍近い大きさのニサンザイ古墳を反正天皇陵だとする意見もある。宮内庁もニサンザイ古墳を、反正天皇陵かもしれないとして陵墓参考地に指定し管理している。
考古学的には「田出井山(たでいやま)古墳」と呼ばれる。濠や墳丘を眺めようとしても、古墳のすぐ傍まで接近している住宅のため見ることができない。。北側に位置する方違神社の境内からはよく見えます。方違神社の境内へきて、初めて古墳らしさを感じます。
全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15mの前方後円墳で,百舌鳥古墳群では七番目の大きさ。現在盾形の濠と堤が巡っているが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されている。5世紀後半の古墳とされているが、宮内庁は学術調査など一切認めておらず,詳しいことはわかっていない。

 方違神社、けやき通り  


田出井山古墳(反正天皇陵)のすぐ北側に方違神社がある。
御祭神は「方違幸大神(かたたがえさちおおかみ)」だが,方違神社は「ほうちがいじんじゃ」と読む。この神社は”方違”という言葉が全てを表しています。

日本には古来から「方角(方向)がいい」「方角が悪い」という「方違え(かたたがえ)」の風習があった。
方違神社の公式サイトに「陰陽道(おんみょうどう)に基づく考え方で、平安時代に最も盛んに行われた風習です。外出の際、目的地が禁忌の方向に当たる場合、前夜に別の方角に行って泊まり、方角を変えてから出発するなど、直接目的地に行かず屈折して行くことで凶方を避けることを「方違え」と言います。
ご由緒にもありますが、方違神社の鎮座する三国ヶ丘は、摂津の国と河内の国と和泉の国の三つの国の境界地点です。この国境地は摂津の国から見ると南にあり、和泉の国からは北にあります。つまり南であり北でもあるので南北を相殺しています。同様に東西も相殺しているため、当地には方角が無いとされ、旅に出るときや家を移るときにお参りをすれば、一挙に三国を旅したことになり、おのずと「方違え」をしたことになると考えられてきました。」と記されている。
神社は,摂津、河内、和泉三国の境に位置し(現在は堺市堺区北三国ケ丘町),“三国山”“三国の衢(ちまた)”また“三国丘”とも称され,どの方角にも属さない清地として古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。ちなみに、”堺”という地名は”三国の境”に由来する。

方違神社から東へ数分歩くと,「けやき通り」と呼ばれる美しいケヤキの並木道にでる。
道いっぱいにケヤキがアーチ状に覆い,清涼感たっぷりです。百舌鳥三陵周遊路のハイキングコースに含まれている。このけやき通り沿いには、大阪府指定天然記念物「方違神社のくろがねもち」が痛々しい姿で佇み、さらに南へ行けばレトロな雰囲気を残す明治の上水道施設として国の登録有形文化財に登録されている「旧天王貯水池」の跡が見れます。けやき通りは大通りに出、そこの向陵西町交差点ので終りです。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)はもう目の前。

 大仙陵古墳(仁徳天皇陵)  


広い大通りを横切らないと大仙陵古墳(仁徳天皇陵)へ行けない。西へ100mほど行った所に大通りをまたぐ歩道橋が見えます。まず歩道橋上から眺めてみることに。大通りを挟んで北側に永山古墳が見える。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の陪塚(ばいちょう)とされている。陪塚とは,大古墳の近くにある,近親者や従者を葬ったされる小さな古墳のこと。大仙陵古墳の周辺には,築造時期が接近する小型の古墳が多数点在しているが,宮内庁はそのうち12基を陪塚として指定し,管理している。
北側から西を廻り、やっと大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の正面にたどり着く。古墳名は「大仙古墳(だいせんこふん)・大山古墳」。仁徳天皇の陵墓として親しまれてきたので「仁徳天皇陵古墳・大仙陵古墳」とも呼ばれる。また年配の人(俺も・・・)は,教科書にそう書かれ教えられてきたから単に「仁徳天皇陵」と呼ばれることも多い。堺市民は親しみを込めて「御陵さん」と呼んでいるそうです。
近年では,仁徳天皇の墓だ,ということが学問的に確認できないので,「伝仁徳天皇陵」と呼んだり,天皇名を付けず「大仙古墳,大仙陵古墳」と呼ばれることが多くなっている。なお宮内庁の公式名は「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)

古墳の規模について,堺市の公式サイトでは以下の数値を公表している。
周濠を含めた古墳最大長:840m,最大幅:654m
墳丘は全長:486m
後円部
 直径:249m、高さ:35.8m
前方部
 幅:307m、長さ:237m,高さ:33.9m
 
三段に築成された日本最大の前方後円墳。あまりに大きすぎて全体が見渡せない。古墳全体を眺めるには、堺市役所にある21階展望ロビーを利用するのが、手っ取り早い。年中無休(9:00~21:00)で,360度パノラマ展望ができ,ボランティア・ガイドさんがおられ、懇切丁寧に説明してもらえます。それ以外では,上空の飛行機の窓から覗き見るか、概観を俯瞰するならGoogle Earthを使う手もある。

どの陵墓もそうですが,埋葬施設のある後円部でなく,前方部に遥拝所が設けられ正面となっている。前方部が南を向く大仙陵古墳(仁徳天皇陵)も,西側の周回路から南側に出ると雰囲気が一変する。今までよく見えなかった濠が現れ,松並木と鉄柵のある低い堤を隔てて整然とした広い車道と遊歩道が真っ直ぐ伸びている。満々と水を貯えた濠も見通せる。といってもこれは三重目の濠で,その内部にさらに二重の濠が廻っている。内側の二重の濠は,上空から見下ろすしか見ることができない。

大仙陵古墳は,宮内庁によって「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている。前方部正面の遥拝所は,鳥居・灯籠・陵標・玉垣,玉砂利など宮内庁管理の画一的陵墓の形式に沿ったもので,金太郎飴のようなもの。しかし広さ,奥行きは他のどこの陵墓よりも大きく,その前に立つと背筋を伸ばさなければならないような威厳を感じさせる。

遥拝所は三つに区分けされている。
一番奥,第一堤上に鳥居,灯篭,陵標が設けられ,周囲は玉垣といわれる石の垣で整然と囲われている。ここは皇族用の拝所で,天皇と皇族以外は入れない。
埋められた二重目の濠上から第一堤上にかけては特別拝所で,ここも一般人は入れないように柵で区切られ鉄扉で塞がれている。一般人が入れるのはその手前,第二堤上までである。ここにはボランティアガイドさんが常駐されていて,大仙陵古墳の詳しい解説をしてもらえます。

江戸時代までは,桜見物など物見遊山や酒宴,ワラビ取りやシバ集めなど墳丘には自由に出入りできたという。ところが江戸末期,幕末に近づくにつれ様相が一変する。勤皇思想の高まりと尊王攘夷の動きで,陵墓とされる場所に制限が加えられてくる。立ち入りを禁止され、石の鳥居,陵標,石柵などからなる拝所が設置され天皇の墓所らしく大修理・増築が行われた。それまで雑草の生える禿山だったり,竹や雑木が茂っていた墳丘には,松,杉,カシ,ヒノキなどの常緑樹が植えられ,今日見るような景観に整えられていったのです。民衆に身近だった存在から,人々から隔離され,遠くから仰ぎ見る聖域に変わってしまった。「立ち入るな」「魚釣りするな」「犬を散歩させるな」等なにかとやかましく、明治の皇国日本の片鱗が今でも漂っています。

 大仙公園(だいせんこうえん)  


大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の遥拝所がある南側は,広い車道を挟んで大仙公園となっている。33万平方メートルの広大な敷地に堺市博物館、日本庭園,大芝生広場,園池、茶室などが配置され、緑に覆われ市民の憩いの場となっている。公園内には小さいが古墳が点在し,歴史も体感できる古墳公園でもある。「日本の都市公園100選」(1989年)、「日本の歴史公園100選」(2007年)に選ばれています。

大仙公園観光案内所の手前の公園内に、「百舌鳥耳原」由来を説明した仁徳天皇と鹿の像が建てられている。
『日本書紀』によれば、仁徳天皇は河内の石津原(現在の堺市石津町から中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地をさだめ,工事が開始された。陵を造り始めた十八日に,野原から鹿が走り出てきて、工事人たちの前で倒れて死んだ。その時、鹿の耳から百舌鳥が飛び去ったという。それで、この地を「百舌鳥耳原」と名付けたとされる。

公園中央にある堺市博物館は市制90周年記念事業として昭和55(1980)年に開館。古代から近代までの堺の歴史を,出土品や文化財などを展示しながら説明している。「ここに来れば堺の歴史と文化がわかる」そうです。
百舌鳥古墳群での出土品を展示している。また百舌鳥古墳群シアター(無料)では,200インチ大型スクリーンを使ったVR(バーチャル・リアリティ)映像で百舌鳥古墳群を空中散歩させてくれる。巨大すぎて全体像がつかみにくい大仙陵古墳(仁徳天皇陵)もよくわかる。
ただ残念なのは、あれだけ力を入れている世界遺産登録への情報が少なかったこと。登録したいという堺市の理由付けを知りたかったのだが・・・。
開館時間:9時30分~17時15分
観覧料:一般 200円、高・大学生 100円、小・中学生 50円
65歳以上は無料とある。証明するものを持参してなかったが、食品スーパーの「65歳以上優待パス」を見せると、笑顔で通してくれた・・・(^.^)

詳しくはホームページ


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