山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

宣化天皇陵からキトラ古墳へ 1

2020年10月10日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月3日(土曜日)
酷暑の夏もようやく終り、肌にやさしい季節になってきた。コロナは相変わらずだが、どっかへ出かけたくなった。さて、どこを歩き回るか?。

そうだ、お墓参りに行こう!。毎年お盆には帰郷し、先祖のお墓参りをしていた。今年も早くから切符を手に入れ準備をしていたのだが、直前に実家に電話を入れると、「今年だけは帰ってくれるな、隣近所から後ろ指さされる」と諭されました。数年前に合い前後して亡くなった両親の墓前に手を合わせることもできません。
その代わりといってはナンですが、近場のお墓へ行こう。大和盆地はお墓だらけで、沢山のお墓、「古墳」とも言いますが、散在している。千五百年ほど前のお墓で、日本の礎を築いた人々が眠っています。私の親戚筋ではないのですが・・・ひょっとしたらどっかで繋がっているかも?。
近鉄・橿原神宮前駅から宣化天皇陵へ行き、そこから近鉄吉野線の西側を南へ歩きます。最終地はキトラ古墳で、かなりの距離がある。田畑の多い地域なのでコロナの心配はなさそう。総歩数<44086歩>、<33.0km>、<1752cal>

 史跡益田池堤(ますだいけ)  



朝7時半の近鉄南大阪線橿原神宮前駅の西口。駅西口を出て車道に沿って西へ歩きます。20分ほど歩いた所に宣化天皇陵があるので、そこをめざす。
途中で高取川にかかる益田大橋が現れる。この橋を渡った先にこんもりとした森が見えます。ここに県指定史跡「益田池堤跡」があるので立ち寄ってみることに。

車道脇なので入口はすぐ分かる。「益田池児童公園」となっています。
「益田池」とは、平安時代に堤を築き高取川を堰き止めて造られた巨大な灌漑用の溜池です。ダムの貯水池のようなもの。平安時代初期、弘仁13年(822)に工事を始め、天長2年(825)に完成した。堤の規模は幅約30m、高さ8m、長さは200m。池の範囲は畝傍山の南、久米寺の西南一帯の高取川流域。現在その跡地は橿原ニュータウンとなっている。

広々とし、緑に覆われ気持ちよさそうな公園です。休憩所も設けられている。堤跡は50mほど残され、堤の上に登る階段も用意されています。堤の上はは30mほどで行き止まりになっている。造られた当時からこういう形状をしていたのだろうか?。

なお、「田を益すの功ありし」灌漑用の池なので「益田池」の名前となったようです。益田池の完成にともない弘法大師空海が碑文「大和州益田池碑銘」を残している。空海は、弘仁12年(821年)に讃岐国(香川県)の満濃池を改修したことで土木技術の面でも有名でだが、益田池の工事には直接関わっておらず、弟子の真円らが携わったという。「大和州益田池碑銘」の一部に
「ここに一坎(いっかん)有り。其の名は益田。之を掘るは人力にして、成るは也(また)天に自(よ)りす。
車馬 霧のごとくに聚(あつ)まり、男女(なんにょ) 雲のごとくに連なる。」
(ここに一つの池がある。その名を益田という。それを掘ったのは人の力であるが、出来上がったのはやはり天のお陰である。車や馬は霧のように集まり、人びとは雲のように連なった。)

 新沢千塚古墳群(にいざわせんづか)  



益田池堤から県道戸毛久米線をさらに西へ歩く。やがて左手に宣化天皇陵が見え、案内標識も建っている。標識はこの県道をさらに西へ行けば新沢千塚古墳群があることを示しています。そこで先に新沢千塚古墳群の方へ行き、その後でここに戻ってくることにしました。



宣化天皇陵から10分ほど歩けば古墳群の丘が見え、「新沢千塚古墳群公園」(橿原市)となっている。



新沢千塚古墳群公園の現地案内図です(上が南で、下が北になる)。
戦争直後から1960年代にかけて発掘調査が行われた。その結果、総数約600基ほどの墳墓が見つかった。そのうち約400基ほどが、この公園内にあるそうです。そのほとんどは直径10~15mほどの円墳で、日本を代表する群集墳です。昭和51年(1976)に国の史跡指定を受け、平成24年(2012)から「新沢千塚古墳群公園整備事業」が行われており、現在も進行中。

中央を横切る県道戸毛久米線を挟んで北群公園(図では下)と南群公園(図では上)に分けられる。まず南群に入ってみます。

南群公園の中央にあるのが「新沢千塚ふれあいの里」。地元で採れた野菜、果物、植物のほか、奈良の特産品・工芸品などを販売しており、休憩所にもなっている。建物の奥が「龍の広場」と「四季の広場」

公園内は縦横に散策路、階段が設けられ、気持ちよく散歩できるようになっている。でもよく考えたら墓場なのだが・・・。





手前が225号墳、墓穴が復元され露出しているのが221号墳。





225号墳の南側にあるのが224号墳。展望用なのか、階段が付けられている。



「ふれあいの里」の建物の裏側に周ると、県道をまたいで北群公園へ渡る歩道橋が架けられている。正面に見える建物が「シルクの杜」。有料だがプール、風呂、トレーニングルームなどを備える。屋上には無料で利用できる足湯があるが、コロナのため現在は閉めているとか。
左端に見えるのが橿原市の原始から近世までを紹介する「歴史に憩う橿原市博物館」。ここの古墳群からの出土品も展示している。入館料:大人300円、9時~17時(月曜日が休館)
両施設とも開館前なので入っていない。

これから北群を周ります。シルクの杜を西側に回り、散策路を進むと階段が見える。登った上が173号墳。直径約14.0m、高さ約3.5m、5世紀後半の円墳で、土師器、須恵器、埴輪、武具、鏡などが出土している。

丘陵上を東へ歩く。よく整備された快適な散策路だが、次々に現れる土饅頭が異様だ。写真左の土饅頭が115号墳です。

道を挟んで115号墳の向かいが一番有名な126号墳。外見は平べったく地味な古墳だが、内部から貴重な副葬品が多数出土し注目された。中国大陸、朝鮮半島からの副葬品だけでなく、はるか遠く古代ペルシャからシルクロードを経てもたらされたと考えられるガラス製品が見つかったのです。5世紀後半築造の古墳なので、正倉院遺物よりも三百年古い時代にヨーロッパから伝わっていたことになる。貴重な副葬品は国重要文化財に指定され、東京国立博物館に保存され、復元品をこの公園内の「歴史に憩う橿原市博物館」に展示している。

目立たない小さな墳墓にも関わらず、金銀の装飾品を身にまとい、枕元にシルクロードを経て伝わった透明なガラス碗や青いガラス皿が置かれた被葬者は一体誰だろう?。

丘陵上から畝傍山を望む。

土饅頭に囲まれた道を東へ歩く。子供達が喜んで山登りして遊べるようです。これら全ての古墳は内部を掘り下げ調査したのでしょうね。その埋葬施設のほとんどは、墳丘上から墓壙を掘り、副葬品と木棺を納めて埋める木棺直葬(もっかんちょくそう)という方式だそうです。

この古墳群の墳墓の築造は、5世紀前半に始まり、6世紀後半までの200年間。近くの宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)と重なるので、何か関連があるのでしょうか?。被葬者として推測されているのが、大伴氏あるいは渡来系の蘇我氏や東漢氏だが、確定されていない。

北群公園の一番東端に139号墳があります。多くの副葬品から、この古墳群の盟主に当たる人物の墓ではないかとみられている。
脇は畝傍山への眺望が楽しめるビューポイントとなっています。









 宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)(せんかてんのうりょう)  




新沢千塚古墳群から県道戸毛久米線を引き返し、宣化天皇陵の入口まで戻ります。古墳名は「鳥屋ミサンザイ古墳」(とりやみさんざいこふん)で、全長138m、径83m、高さ18m、二段築成の前方後円墳。「ミサンザイ」は陵(みささぎ)の訛ったものなので、この古墳が古くから陵墓としての伝承されていたことを示している。
前方部は北東を向いているので、県道から入ると丁度正面に宮内庁の遥拝所が設けられている。

遥拝所はどの天皇陵にも見られる同じみの風景です。
「日本書紀」によれば、宣化天皇は539年に崩御され「身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのうえのみささぎ)」に葬ったとあり、さらに先に崩じていた皇后・橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ、第24代仁賢天皇の皇女)とその孺子(わくご・幼児)が合葬されたと記されている。ただし「古事記」には記載されていない。
第28代宣化天皇(せんかてんのう、467年頃~539年、在位:536年~539年)は、第26代継体天皇と尾張の目子媛(めのこひめ、尾張連草香女)との第二皇子として生まれた。諱を「檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)」という。兄の第27代安閑天皇が崩御すると、跡継ぎの子供がいなかったので同母弟の宣化天皇が満69歳という高齢ながら即位することになった(536年)。宮を檜隈の廬入野に移し、「檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)」と呼ばれる(キトラ古墳の近くなので、今日の最後に立ち寄ってみます)。539年に73歳で崩御される。在位わずか3年余りと短いため、あまり主立った事績は残されていない。ただ即位すると蘇我稲目を大臣に任命したことから、その子の蘇我馬子・蝦夷・入鹿と続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることになった。
幕末から明治にかけ、当時の宮内省は鳥屋ミサンザイ古墳を宣化天皇の陵墓と治定し、あわせて皇后との合葬陵とした。

石柱には、判読しがたいのだが写真を拡大して見ると「宣化天皇 宣化天皇皇后橘皇女 身狭桃花鳥坂上陵」と刻まれている。

日本書紀では安閑・宣化朝の後、539年に異母弟で継体天皇の第四皇子の欽明天皇が第29代として即位したことになっている。しかし他の史料によれば、531年の継体天皇の死後、すぐに欽明天皇が即位したとなっている。このことから安閑・宣化天皇は即位していなかった、あるいは531年~539年の間は安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱に発展していたという説がある。万世一系の天皇系統を確定しようとした明治政府は安閑・宣化天皇は即位したと断を下し、現在の歴代系統となった。

正面拝所の左手から土手堤に出ることができる。陵墓の周囲は約10~25m幅の盾形周濠が巡っているが、西側部分は大きな池となっています。これは明治の修陵工事時に、元々あった灌漑用の溜池「鳥屋池」と周濠とをつなげたもの。

堤に建つ石柱には「皇紀二千六百年記念」と刻まれ、背面には「昭和十三年三月一日」の日付がある。すぐ北にある橿原神宮と神武天皇陵が、全国から建国奉仕隊が動員され聖域の大拡張が行われた時期。おおいに皇威高揚され、天皇を中心とした大東亜共栄圏を目指し戦争へ突入する。そして無惨な敗戦です。戦没者の墓碑も建っており、当時の雰囲気を感じさせる。

今度は前方後円墳の西方に回ります。西側も幅15m位の濠が廻り水を貯えている。ただ後円部の先端では途切れ雑草が生い茂っていた。
この古墳の築造時期については、墳丘裾付近から出土した円筒埴輪、朝顔形埴輪や須恵器から六世紀前半が推定されている。

 桝山古墳(ますやまこふん、倭彦命墓)  



次は宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)の南側にある桝山古墳(ますやまこふん、倭彦命墓)に行きます。天皇陵の後円部から集落の中に這入っていく。集落を抜けると、稲穂の先に桝山古墳の森が見えてきます。一辺約90m・高さ約15m、三段築成の方墳で、方墳としては全国で最大規模の古墳です。

この古墳は、宮内庁によって第10代崇神天皇皇子の倭彦命(やまとひこのみこと)の墓に治定され、天皇陵と同じような正面遥拝所が設けられている。日本書記に「倭彦命を身狭の桃鳥花坂に葬った」とあり、身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか、築坂邑)が現在の橿原市鳥屋町付近にあたるからです。

Wikipediaには「倭彦命墓の所在に関する所伝は失われ、江戸時代には『大和志』・『大和名所図会』等において鬼の俎・鬼の雪隠東方の石室を倭彦命墓に比定する説もあった。1877年(明治10年)4月に内務省によって現在の墓に定められ、1886年(明治19年)に宮内省(現・宮内庁)によって用地買収とともに同地にあった神社が移転され、1890年(明治23年)から修営された。ただしその治定には否定的な見解が強い。」とあります。

古墳の築造時期は表面で採取された埴輪から5世紀前半とされる。4世紀前半か中頃に亡くなった倭彦命とは合わないのだが。

宮内庁の正式名は「崇神天皇皇子倭彦命 身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)」。「陵」でなく「墓」です。「陵」は天皇・皇后・上皇・皇太后の墓所に使い、皇子以下の皇族の墓所は「墓」なのだ。石柱に彫られている墓名の文字は雑で品格がない。天皇にこんな文字を刻んだら切腹ものだろう。鳥居はコンクリート製です。

この倭彦命墓には「殉死の禁止と埴輪の起源」伝承がある。殉死する近習の者たちを墓の周りに生き埋めにした。ところが土中から数日間泣き叫ぶ声が聞こえて、ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まって食べた。垂仁天皇はおおいに心を痛め、それ以後は殉死を止めさせ、代わりに埴輪で囲うようにした。

東側の畑の中から撮った桝山古墳。空中写真で見れば前方後円墳に見え、遥拝所はその前方部に設けられている。実は後円部(上の写真では左側の部分)だけが本来の古墳(方墳)で、名前のように”桝”形の山だった。ところが明治時代の陵墓整備で前方部が付け加えられ、そこに拝所を設けた。空中写真から想像するに、かなりの民家が強制退去させられたことと思う。当時の役人は、皇室の墓所は前方後円墳でなければならない、という大いなる忖度がはたらいたのでしょう。

北方を眺めれば宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)が、その先に畝傍山が見えます。畝傍山の奥に初代天皇の神武天皇陵があります。

 小谷古墳(こたにこふん)  



桝山古墳の次は小谷古墳です。小谷古墳へは、北側へ迂回し住宅街の中を進めば無難だが、かなりの距離がある。桝山古墳の東側に丘陵が見え、その山向こうに小谷古墳がある。この山を越えることができれば、かなりの近道になるのだが、道があるかどうか?。

農作業されていた方に尋ねると、道はあると親切に教えて下さいました。田畑の中を森に近づくとT字路にな。ここがポイントで、右の道をとること、と地元の方は強調されていた。すぐにイノシシ避けの金網の柵扉があるので、通ったら必ず閉めておくこと。後は山中の一本道なので迷うことはない。10分ほど歩けば視界が開け、畑の中を100mほど下れば左手に古墳が見えてくる。

畑の横の土盛りの上に屋根が覗いている。そこは小さな広場に整備され、屋根付の休憩所が設けられベンチも置かれている。地元の人のためのものとは思えず、明らかに小谷古墳の見学者用のものだ。山肌をよく見ると、雑木の間から石室の巨岩が露出していました。

ここは貝吹山から北東に延びる尾根の先端部で、石室は市街地を見下すように南向きに築かれている。墳丘は山崩れなどで封土の大部分が流失しているので墳形は明らかでないが、長さ約30m・高さ約8m位の円墳あるいは方墳と推測されている。
柵で囲われ近寄れず、石室内部は見ることができない。墳丘を覆う封土が流失し横穴式石室が剥き出しになっている。あの有名な明日香村の石舞台古墳と同じようですが、一枚岩の天井石は石舞台古墳より大きいという。
石室の全長は約11.6m、そのうち羨道部分が長さ約6.45mで、その奥に一段高い床面の玄室が長さ約5mある。
玄室は奥壁・側壁とも二段積みされ、下段は垂直に、上段は斜めに積まれ、隙間は漆喰で埋められていた。玄室には刳り抜き式の家形石棺が置かれていた。盗掘により蓋が開いた状態だったので副葬品は見つかっていない。石棺の奥や右側に広い空間があるため、他に二棺置かれていた可能性があるという。築造時期は古墳時代終末期の7世紀代の築造と推定されてる。

古墳の前は、公園風の広場になっている。休憩所といい、この公園といい、石舞台古墳のように売り出そうとしたのでしょうか?。
向こうに見える小山に益田岩船がある。そこへ向います。

現地説明板の全文を以下に。
「この古墳は、貝吹山から北東に延びる尾根の先端に築かれた、前方後円墳を含む八基の古墳群のなかにあり、その東端部に位置します。古墳は、尾根の南斜面に築かれており、墳丘の背面は幅20m・直径50mにわたって半円状に切り取られています。古墳の形状は、封土の大半を失っており不明ですが、円墳あるいは方墳であったと考えられています。墳丘の規模は、30m前後で高さは約8mです。埋葬施設は、巨大な花崗岩の切石を2段に積み上げた両袖式の横穴式石室です。玄室の天井石は1枚からなり、石舞台古墳の天井石よりも巨大なものです。また、石積みの間には漆喰が使用されています。規模は全長約11.6m・玄室長約5m・幅約2.8m・高さ約2.8m、羨道部は長さ約6.45m・幅約1.9m、高さ約1.8mを測ります。玄室の床面は羨道より一段高くなっていますが、これは明日香村の岩屋山古墳と共通する特徴です。玄室には凝灰岩の刳抜式家形石棺が盗掘により蓋が開いた状態で安置されています。棺身は長さ2.4m・幅1.16m・高さ0.82mで、棺蓋は縄掛突起がなく緩やかな傾斜の蒲鉾型を呈するもので、家形石棺の中でも珍しい型式のものです。副葬品は未調査のため不明ですが、石室や石棺の型式・規模から終末期の古墳と考えられています。この古墳の被葬者は、天皇家を含めた有力氏族であったとの見方が有力で、江戸時代には斉明天皇陵に比定されていたこともあります。橿原市教育委員会」

 益田岩船(ますだのいわふね)  



小谷古墳から少し東へ出て、橿原ニュータウンに沿った車道を南へ歩く。小山に近づくと右手に入る道があり、剥がれそうな案内標識が置かれています。道はすぐ「白樺西集会所」に突き当たり、左右に分岐する。左の道を30mほど行けば右側に階段が現れ、益田岩船の案内板が建てられている。

この山は貝吹山東峰の岩船山(海抜130m)で、その頂上付近に益田岩船があります。階段は48段あり、そこから緩やかな上り坂の山道となる。平易な山道で誰でも登れるが、一部雨が降れば足場の悪い箇所があります。10分ほどで竹薮の中から巨石が現れる。


深い竹薮に囲まれ、巨石だけがポツンと置かれている。だれが、何の目的でこんな巨石を置いたのか、今だに明らかになっていない。こうした謎の石造物は、隣接する明日香村にも亀石や酒船石など数多く存在するが、この
岩船が最大のもの。昭和51年(1976)に、指定名称「岩船」で奈良県指定史跡に指定されている。

西側から上面を見たもの。上部から側面にかけて幅1.6mの溝が東西に掘られ、この溝に1辺1.6m、深さ1.3mの方形の穴が二つくり抜かれている。
何のために造られたのか?。古くからある説は、益田池を讃える空海揮毫の石碑を載せるための台だったというもの。益田池は現在の橿原ニュータウン辺りまで広がっており、ここから益田池を見下ろせます。「益田岩船」の名称もここからきている。

現在有力なのが横口式石槨説。上面の二つの穴は墓室で、北壁面を下に横転させれば横口式石槨となる。南東500mほどの場所にある牽牛子塚古墳とソックリです。しかし完成させずに放棄されている。

左の写真は北面、右は西面。西面を見れば水漏れし濡れています。これは西室にヒビ割れが生じていることを示している。このため、建造途中で破損が判明し放棄されたのだ、と考えるのです。
また、滑らかに仕上げられた上部に対し、下部には荒削りな格子状の溝が彫られている。これは滑らかにする加工の途中で中断され、そのまま放棄されたと横口式石槨説は説く。

その他、占星術の天文観測台説、物見台説があり、松本清張は小説「火の路」でゾロアスター教の拝火台説を唱えている。いまだに謎です。

こちらは東面と南面。東,西,北面はほぼ垂直に切り立っているが,南面だけはなだらかに傾斜している。
建造時期は、岩の加工法や穴の尺などに古墳時代最末期の特徴が見られるため、7世紀頃と推定されている。

周辺を見渡してもここにこんな巨石が元から存在していたとは考えられない。どこからどのようにして運び込んだのでしょうか?。


 沼山古墳(ぬまやまこふん)  



次は沼山古墳(ぬまやまこふん)だ。益田岩船のある岩船山とは車道を挟んで反対側にある白橿近隣公園の中にあります。写真は公園の北側、ここからでも行けそうだが、念のため南側の正面に周る。

公園の正面で、左に白樺南コミュニティーセンターが、右がグランドになっている。
突き当たりに、小さく目立たない案内「沼山古墳→」があったので、右へ折れる。すぐ左手に階段があり、ここを登ってゆく。階段は登りきるのではなく、78段目で左に入れとの矢印があります。

矢印の方へ入って行くとすぐ休憩所が設置され、その少し先に横穴式石室が開口しているのがわかります。

石室開口部は鉄の扉で封鎖されている。昭和57年(1982)に公園整備に伴って奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が実施された。出土品は橿原考古学研究所(橿原市畝傍町)に保管されている。県指定史跡。


石室は花崗岩の自然石を積み上げている。手前に羨道(長さ4.5m・幅1.8m・高さ1.8m)があり、その奥に玄室(長さ4.95m・幅2.95m・高さ4.25m)がある。







玄室内は高さ2mまで垂直に積み、それから上は四壁を内側に積上げているので、ドーム状の天井となっている。正方形に近い平面形・ドーム状天井を特徴とする形態の石室は真弓鑵子塚古墳(明日香村)・与楽鑵子塚古墳・乾城古墳(高取町)でも知られており、渡来系集団の古墳の特徴だそうだ。





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