山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

馬見古墳群 南から北へ 3

2020年12月03日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)馬見丘陵公園内を楽しんだ後、川合大塚山古墳、島の山古墳という二つの大きな前方後円墳を訪ねる。
(追加)馬見古墳群には顯宗天皇、武烈天皇の陵墓参考地があります。二人の宮内庁治定の本陵は西へ2.5キロほど離れた場所にあるので、後日(11月12日)訪れてみました。

 馬見丘陵公園館と周辺  



中央エリア西側にある馬見丘陵公園館は馬見丘陵公園全体の中心施設です。傍に広い駐車場(204台駐車可)もあるので、ここから公園に入る人も多いと思われる。1階が展示場で、馬見丘陵の古墳について展示や模型、映像を使いわかりやすく説明している。また園内の自然や花、野鳥についても学ぶことができます。係りの人が常駐されているので、お花のこと、古墳のことなど質問してみるのもよい。

公園館の南は「芝生の丘」と呼ばれているが、コスモスが一面に咲いている。ピンクと薄赤色の可愛い花が咲き乱れ、心を和ましてくれます。

公園館から北へ少し行き、右へ曲がると「菖蒲(しょうぶ)園」です。傍の森が乙女山古墳なので、その濠を利用して菖蒲園にしたのでしょうか。約3,000平方メートルの敷地に、約100品種3万株の花菖蒲が群生するという。花期は、5月下旬から6月なので今は閑散としています。6月には「馬見花菖蒲まつり」が開催されるそうです。

菖蒲園に隣接する南側の丘は「古墳の丘」と呼ばれている。ただの芝生の丘にしか見えないのだが、「古墳の丘」と呼ばれるのには訳があります。ここにカタビ1~4号墳の四基の古墳があり「カタビ古墳群」と称される。5世紀前半~7世紀前半に築造された小規模な方墳や円墳だが、木棺や円筒埴輪、須恵器などが確認されています。現在は1つの丘状には整地され、芝生で覆われ、個々の古墳を判別することはできません。

 乙女山古墳(おとめやまこふん)と花の道  



古墳の丘の上からの眺めると、右に「乙女山古墳」の前方部が盛り上がっている。乙女山のイメージとはほど遠いただの雑木の山でしか見えない。それを慰めるように左側に色鮮やかな花畑が広がっている。乙女に花を捧げているようです。

乙女山古墳の堤に上がり前方部の方へ歩いてみます。傍に下池が広がり、整地され気持ち良さそうな空間となっています。散策路は板敷きで、周りは芝生となっている。しかし誰もいてません。皆、反対側のお花畑の方へ行ってしまわれるようです。

前方部で散策路は行き止まりになっている。乙女山古墳の説明板が設置され、休憩用のベンチが置かれているだけです。説明板が無ければ、古墳とは見えず、だだの藪山でしかない。説明板には青々とした濠が描かれているが、全く見えず、濠があるような雰囲気も無い。

今度はお花畑を通り抜け、後円部へ廻る。だだの雑木林でしか見えないが、濠らしき窪みがうかがえられる。こちらにも説明板が設置されています。
所在地は「北葛城郡河合町大字佐味田小字乙女」。周りは広陵町だが、この古墳一帯は河合町の飛び地になっている。地名の「乙女」から古墳名がつけられたようだ。
これには次のような地名伝承がある。応永15年(1408)、この辺りで箸尾為妙と筒井順覚の戦があり、箸尾氏の少女が犠牲になり小山に葬られたことから、その場所を乙女山と呼ぶようになったと伝わる。

<ナガレ山古墳東側の古墳地形模型より>
わが国最大級の帆立貝式古墳で、築造時期は出土の埴輪、墳形などから5世紀前半と推定されている。昭和31年(1956)に国の史跡に指定された。

乙女山古墳を背に、乙女に捧げるように花壇が広がっている。「花の道」と名付けられた花畑で、四季折々の花が楽しめるように、適宜植え替えられているようです。手前がバラ園で、26品種、約500株のバラが植えられているという。

この時期、コスモスが美しい。

黄色、オレンジのマリーゴールドが咲き乱れている。

これはベゴニア

 馬見花苑と池上古墳  



花の道を北へ抜けると、色鮮やかな広い空間が目に入ってくる。「彩の広場」と「馬見花苑」と呼ばれるエリアです。

まず「彩の広場」に入る。背の丈を越えるようなダリアが群生しています。ここは春にはチューリップに、夏にはヒマワリに植え替えられ彩りを替えているという。現在はダリアの季節で、約120種1000株のダリアが群生している。なかには「皇帝ダリア」と呼ばれ、草丈4~5mにもなるようなダリアもあるそうですが、見頃は11月中旬から12月上旬とのことなので、まだ見られません。垣根のようなダリアの間を歩きます。

こちらはサルビア、コスモスの花壇。「彩の広場(ダリア園)」と「馬見花苑」の間は、「花見茶屋」と呼ばれ休憩所とカフェレストランがあります。

「集いの丘」のなだらかな斜面を利用した美しい大花壇で、「馬見花苑」と呼ばれている。現在サルビア、マリーゴールドなどが咲き乱れているが、春には一面チューリップ畑になるそうです。

「集いの丘」は広い芝生広場になっており、イベントや遊び場に利用させる。奥に見える大型テントはイベント時にはステージとなる。車道を挟んで「集いの丘」の反対側には大型遊具施設が設置されている。

車道を越えた東側に見える小山が池上古墳。傍まで寄ってみたが、標識も案内も無く、古墳の雰囲気は全くしない。全長92m、後円部径約80.6m、前方部幅約32m、長さ約11.4mの帆立貝式前方後円墳。墳丘の周囲に周濠と外堤をもつ。乙女山古墳と同じ五世紀前半の築造とされている。

馬見丘陵公園の中央エリアから北エリアを通り、これから公園を外れた大塚山古墳、島の山古墳という二つの大きな前方後円墳へ向います。
大型テントの横に、車道をまたぐ歩道橋「はなえみはし」があり、それを渡ると北エリアに入る。馬見丘陵公園の北エリアには古墳も花壇もありません。別名「緑道エリア」とも呼ばれるように、約1.2キロほどの散策路が北へ伸びているだけです。散策路は緑の樹木に囲まれ、幅広く良く整備されている。しかも道は二本あり併走している。一本はサイクリングできるとか。

 川合大塚山古墳(かわいおおつかやまこふん)  



公園を抜けると河合町の街並みが現れ、家並みに浮かぶように大塚山古墳が見えてくる。「大塚山古墳」という名称は全国各地に多く見られるので、地名を付けて「川合大塚山古墳」とも呼ばれているようです。

(空中写真のA地点から撮る)
前方部の西角に着く。大塚山古墳の周りには遮るものがなく、すぐ傍から墳丘を間近に見ることができる。上の写真は後円部方向を撮ったもの、左の写真は前方部です。

(空中写真のB地点から撮る)後円部の方へ近寄ってみる。上の写真は前方部方向を撮ったもの。幅広い周壕をみると、水を溜めている箇所もあるが、多くは田畑のように見え、作物が植えられているような所もある。国指定史跡なのだが、周壕は除外され民有地となっているのでしょうか?。

同じ場所から後円部を撮る。ここには説明板が置かれていた。
馬見古墳群で最大の全長215m、前方部を南に向けた三段築成の前方後円墳。空中写真をみれば幅広い盾形の周壕がハッキリしているが、大部分が田畑のようになっている。墳丘には葺き石と埴輪列が見られたが、埋葬施設については竪穴式石室と思われるが、詳細は不明。遺物は、埴輪(円筒・朝顔・人物・家・盾・蓋)須恵器、土師器などが確認されている。

(空中写真のC地点から撮る)後円部が正面に見える位置に周る。近くで農作業されている人に聞いてみました。民有地となっている濠は国によって買われ、数年後には国に返される、という返事でした。

昭和31年(1956)、周辺の古墳7基を含め「大塚山古墳群」として国の史跡に指定された。なお大塚山古墳と島の山古墳を馬見古墳群に含めるかどうかは議論があるようです。

 島の山古墳  



川合大塚山古墳から東へ歩くこと40分、かなり疲れました。時刻も夕方5時になり、やや薄暗いのと夕陽の強さで写真が撮りにくくなってきた。
到着した所は島の山古墳の南西角、つまり前方部西側の隅。空中写真で見れば、住宅の建てこむ前方部を除き周壕に沿って道が設けられているので、墳丘への見通しは良さそうです。

(空中写真のA地点から撮る)後円部方向へ墳丘西側を撮る。紅葉のようだが、夕陽に染まっているだけです。川合大塚山古墳と違って、周壕には満々とした水が貯えられ墳丘を映し出している。これぞ前方後円墳、という感じがします。

こちらは同じ場所から前方部を撮ったもの。前方部は濠の際まで住宅がせまっている。家の中から釣りができそうだ。濠は前方部でせき止められているように見えるが、空中写真を見れば墳丘内部へ通じる渡り堤のようです。当初からあったものでしょうか?。現在、古墳は国指定史跡になっており、墳丘内部へ入ることは禁止されているようです。

西側の濠に沿った側道の柵に、島の山古墳を解説したパネルが7枚ほど掲示されていた。発掘調査に関する川西町教育委員会のものです。
三段構築の墳丘からは葺石と埴輪列(朝顔形円筒、家形、盾型、靫形)が検出された。東西くびれ部には造り出しがあり、平成17年(2005)の調査で西側くびれ部から祭祀に用いられたと考えられる植物製の籠が出土している。出土品は碧玉製車輪石・鍬形石・鏡片・垂下式耳飾・石製刀子・玉類など。古墳は国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されています。

(空中写真のC地点から撮る)後円部です。Wikipediaに「当古墳の位置は大和盆地の河川が合流する場にあり、交通の要所を押さえた場にあることが大塚山古墳群と共通している。また川合大塚山古墳と島の山古墳の墳形規格が同じであるという点からも、この二つの古墳は関係が深いとみられる」とあります。

(空中写真のD地点から撮る)墳丘の東側を撮る。東側も西側同様に水を貯えた濠が廻り、それに沿って側道が設けられている。古墳名は所在地の磯城郡川西町唐院字嶋ノ山という地名による。

今日は長い一日だった。薄暗い時間から歩き始め、夕方近鉄・結崎駅に着いた時は真っ暗だった。総歩数:58588歩、総歩行距離:43.9km、どちらも過去最高を記録した。

 武烈天皇陵(ぶれつてんのうりょう)  



日を改め、11月12火(木)に武烈天皇、顯宗天皇の本陵を訪ねました。
宮内庁治定の武烈天皇陵の所在地は「奈良県香芝市今泉」で、JR和歌山線の志都美(しずみ)駅近くだ。大阪からは、JR大阪天王寺駅から大和路線に乗り、王寺駅で和歌山線に乗り換え、二つめの駅です。
志都美駅西側へ出ると、正面に武烈天皇陵のある森が見えている。

駅からは10分もかからずに着く。宮内庁の正式名は「傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)」、陵形は「山形」としている。
「日本書紀は「傍丘磐坏丘陵」、古事記は「片岡之石坏岡」と記す。諸説あったが、幕末の修陵では不明とされていた。明治22年(1889)に現在地に「傍丘磐坏丘北陵」として治定され、陵を造り拝所が設けられた。これは日本書紀が第23代顯宗天皇と武烈天皇を同じ「傍丘磐坏丘陵」としているので、「北陵」「南陵」と区別したのです。
宮内庁も「自然地形を利用した山形の陵」(国会答弁)と公表しているように、単なる自然丘で古墳とは思えない、というのが通説になっている。何を根拠に現在地にしたのでしょうか?。宮内庁も馬見古墳群内の新山古墳を「大塚陵墓参考地」として武烈天皇を被葬候補者に想定しているのです。

第25代武烈天皇(ぶれつてんのう)は、仁賢2年(489)に仁賢天皇の第一皇子として誕生、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。他に皇子はいなかったので6歳で皇太子に。仁賢11年(498)父・仁賢天皇が崩御すると、他に候補がいなかったので10歳という異例の若さで即位する。宮は「泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)」(奈良県桜井市初瀬)に置かれた。桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑が建っています。

武烈元年(499)春日娘子(かすがのいらつめ)を皇后に立てる。この皇后の父母とも正体がよく分かっていない。長い皇室の歴史で出自不明の皇后というのは他に例がない。子供も無く、「男女無くして継嗣絶ゆべし」(日本書紀)、「日続知らすべき王無かりき」(古事記)と書かれている。跡継ぎが無いのです。

日本書紀は武烈天皇の悪逆非道、淫猥な行為の数々を書き残している。「孕婦の腹を割きて其の胎を観す」「人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ」等々、書くのも憚られるような異常な行為が記述されている。そして「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」、人々は皆恐怖に震えていたという。
絶対権力をもつ天皇といえ、十代では考えられない行動だ。こうした暴虐ぶりは日本書紀だけに書かれ、古事記には一切見られない。何故でしょうか?。また皇室の正史「日本書紀」が天皇の残虐卑猥な行為を事細かに書き残す、というのも不思議です。
悪業天皇は在位8年、18歳で崩御された。跡継ぎが無かったので、越前からやってきた継体天皇が即位する。これを王朝交替とみなす考え方がある。応神天皇からの王朝は武烈天皇で終り、新王朝が始まったというのです。そこで前王朝最後の天皇を暴君に仕立て、新王朝の開始を正当化し際立たせようとした。頷ける考え方です。暴君が”清徳””聖純”のような名では困るので、”武烈”が相応しかったのでしょう。

本当は、18歳で亡くなった気の優しい青年ではなかったか、と想像してしまう。またあまりにリアリティーに欠けるので、存在さえ疑う人もいるようです。

 顯宗天皇陵(けんぞうてんのうりょう)  



志都美駅と武烈天皇陵との間を南北にはしる国道168号線を、南へ25分ほど歩けば顯宗天皇陵だ。車道脇なのですぐ分かります。

ここは宮内庁によって第23代顯宗天皇(けんぞうてんのう)の「傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)」に治定され、陵形は前方後円墳となっている。武烈天皇陵同様に、所在について諸説があったが、幕末の修陵時には不明のままだった。明治22年(1889)に現在地に決まる。武烈天皇陵の「北陵」にたいして「南陵」として区別された。何を根拠に明治政府が治定したのか明らかでない。

第23代顯宗天皇陵(けんぞうてんのう)は市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第三子として誕生。母は葛城蟻臣の女・妃媛命。弘計王(おけのみこ)と呼ばれ、兄は億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と呼ばれた。

父が雄略天皇に殺されたので、幼い兄弟は丹波に逃れ、さらに播磨に身を隠した。その後二十数年経ち、供物を調えるため播磨に勅使が使わされ、兄弟の身分が明らかになった。跡継ぎのいなかった清寧天皇は宮中に迎え入れて、兄・億計を皇太子に、弘計を皇子とした。清寧5年(484)清寧天皇が崩御する。皇太子の兄・億計と弟の弘計は互いに譲りあう。結局、兄・億計の説得に折れ、弟の弘計が顕宗天皇として36歳で即位した。そして兄が皇太子になるという特異な例となった。顕宗3年(487)、在位3年で崩御し、兄・億計が第24代仁賢天皇として即位する。

前方部を南西に向けた前方後円墳とされるが、いびつに変形しており陵墓にしては小さい。
拝所の前に庚申塚が置かれ、小さな休憩所が設けられている。陵墓のすぐ横は国道で、ひっきりなしに車が走り騒々しい。顯宗天皇の「静安と尊厳」が守られるような環境ではありません。宮内庁は馬見古墳群内の築山古墳を「磐園陵墓参考地」として顯宗天皇を被葬候補者に想定している。築山古墳は二百メートル級の巨大な前方後円墳です。どちらも明確な根拠が無いのならば、築山古墳のほうが顯宗天皇は安らかに眠れるのではないでしょうか。

 孝靈天皇陵(こうれいてんのうりょう)  



武烈天皇陵、顯宗天皇陵のあるこの地域には、もう一つ孝靈天皇陵が存在しています。これらを合わせて「片岡三陵」と呼ばれている。ついでなので訪ねてみました。JR大和路線の王寺駅で降り、南の丘陵へ歩くこと15分で拝所入口に到着します。所在地は奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目。

宮内庁の公表する陵名は「片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)」、陵形は「山形」。
孝靈天皇の陵について日本書紀は「片丘馬坂陵」、古事記は「片岡馬坂上」と記している。元禄時代の探陵で現在地に治定された。その根拠は、葛下川が西流する南側丘陵は馬瀬坂と呼ばれていたのと、尾根上に小円墳があり地元で御廟所と呼んでいた、ということによる。幕末の修陵でも踏襲され、現在に至る。
車道左手に階段が見え、制札と石柱が建つ。拝所は小高い丘の上なので階段を登らなければならない。

第7代孝靈天皇(こうれいてんのう)は第6代孝安天皇の第一皇子で、26歳才で皇太子となる。先帝が亡くなると53歳で即位された。皇后は豪族磯城氏の娘・細媛命(ほそひめのみこと)。二人の間には、卑弥呼の墓として有名な箸墓古墳の被葬者とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)がいる。また第三皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、通称吉備津彦命)は桃太郎伝説のモデルと言われている。

在位76年、127歳(日本書紀)、106歳(古事記)で崩御されたと伝わる。非常に伝説的な人物で、日本書記、古事記ともほぼ系譜の記載のみで事績の記述はない。そういうところから欠史八代の一人に数えられ実在性が疑われている。となるとこの立派な陵墓も・・・。

高台に位置するだけに見晴らしが良い。大和盆地が見渡せます。陵墓の周囲を一周できる道があり、展望を楽しめるようだが、あいにくロープがはられ立ち入り禁止になっていた。


詳しくはホームページ

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