山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

古市古墳群みてやろう 2

2018年10月02日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年9月6日(水曜日)、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。
巡回コースは近鉄南大阪線・土師ノ里駅を出発点に、市野山古墳(允恭天皇陵)→仲津山古墳(仲姫命陵)→誉田山古墳(応神天皇陵)→高屋築山古墳(安閑天皇陵)と南下し、今度は逆に前の山古墳(日本武尊白鳥陵古墳)→ボケ山古墳(仁賢天皇陵)→岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)→津堂城山古墳→雄略天皇陵へと北上します。

 誉田山古墳(こんだやま、応神天皇陵)  


ここは大鳥塚古墳から道路を挟んだ南側で、すぐ前に誉田山古墳(こんだやま、応神天皇陵)の正面拝所への入口がある。入口左に見えている小山は応神天皇陵の陪塚に指定されている「丸山古墳」(丸山古墳の名称は各地に多く存在するので、地名を付けて「誉田丸山古墳」と呼ばれることも)。直径50m、高さ10mの円墳で、濠を回らせていた。丸山古墳から、嘉永元年(1848)にきらびやかな馬具(金銅製透彫鞍金具)が出土した。日本でも最古級、最優秀の鞍で、馬具は一括して国宝指定されている。現在、誉田八幡宮の宝物館に保存されている。
参道脇の建物は宮内庁書陵部「古市陵墓監区事務所」。
参道は100mくらい。仁徳天皇陵ほどの壮大さはない。「応神天皇惠我藻伏崗陵」(えがのもふしのおかのみささぎ)に治定されている。「恵我」というのは、現在の藤井寺市、羽曳野市から西の松原市東部辺りまでを指す古代の地名のようです。
第15代・応神天皇(おうじんてんのう)は仲哀天皇と神功皇后との間に生まれ、仁徳天皇の父。身籠った神功皇后は出産を遅らせながら三韓征伐にいき、その帰途に筑紫で生まれたとされる。母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、「胎中天皇」とも称された。71歳で即位し、111歳で崩御(古事記では130歳)。河内王朝の創始者だとの説も。実在を否定される学者もおられるのだが・・・。なお、堺市の百舌鳥古墳群内の御廟山古墳も、宮内庁は応神天皇を被葬者に想定して墳丘部分を「百舌鳥陵墓参考地」に指定し管理している。
天皇陵の鳥居は石(コンクリ)製と思っていたが、拡大してみると木製のようです。何故、腐食に強い石の鳥居にしないのでしょうか?

拝所から誉田山古墳の東側を周るが、密集する住宅に阻まれ古墳の傍まで近寄れない。家屋の屋根上にかすかにのぞく森の一部を垣間見るだけです。
グランドが現れ、この位置からが一番よく見えた。手前の森が位置的に応神天皇陵の陪塚に指定されている二ツ塚古墳なのだろうか。住宅の間の道を誉田山古墳に少しでも近づこうとするが、どうしても住宅に阻まれ行き止まりです。

右往左往しているうちにいつの間にか誉田八幡宮の境内に入っていた。古墳の後円部にあたります。ここから古墳の濠に沿って歩道が設けられているという西側に周ります。進むと広い空き地が見えてきた。説明板によれば、古墳の外濠跡のようです。外濠と外堤が築造されたのは西側だけのようで、天皇陵にしてはいびつな造りになっている。東側には造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるため歪んでいるそうだ。この西側の外濠と外堤は宮内庁の天皇陵指定から外れているようで、昭和53年(1978)に「応神天皇陵古墳外濠外堤」として国の史跡に指定された。ただ整備半ばといった状態に見えます。

国の史跡となっている西側の外濠と外堤です。すぐ横は国道170号線だ。誉田山古墳(応神天皇陵)を鑑賞(感傷)できるのはこの場所しかない。といっても、見えているのは内堤の樹木だけ。墳丘や内濠は樹木に遮られ見えません。
ここに案内板が設置されている。三段築成の前方後円墳で墳丘長425m、後円部(直径250m、高さ35m)、前方部(幅300m、高さ36m)、全国第二位の規模、容積では大仙陵古墳(仁徳天皇陵)をしのぐという。埋葬施設などは、発掘調査できないため詳しいことは不明という。出土した円筒埴輪、形象埴輪などから5世紀前半の築造と推定されている。
古墳名は「誉田山古墳(こんだやま)」、または「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま)」と呼ばれている。応神天皇は、日本書記では「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」、古事記では「品陀和氣」となっている。そこから地名や神社名に「誉田」が使われた。「ほむた」と読むべきだが、なまって「こんだ」となったようです。

説明板の写真や、GoogleEarthでしか広い内濠を見ることができない。それを見ると、前方部と東側面しか水を貯えていないようで、それ以外は草の生えた湿地帯となっているようだ。

平成23年(2011)2月、応神天皇陵に初めて学術調査が入るということで注目を集め、上空には何機ものヘリコプターまで飛来したという。どこを調査したか?。内濠の外の堤だという。幅50m、総延長2.2kmを各学会の選抜され先生方が3時間ほど歩き回っただけだそうです。これだけでメディアが取り上げ、世間が注目する。神聖化された天皇陵は、今なお深い々深淵の中におわします。これで世界文化遺産に相応しいといえるのでしょうか?

江戸時代の図絵です。誉田八幡宮から後円部墳頂まで続く階段が目を引く。明治以前は自由に墳丘内に出入りできていたようです。後円部の頂上には誉田八幡宮の奧の院(六角形の仏堂)があり、一般の人も濠を渡り石段を登って参拝していたという。即ち、こちら側が応神天皇陵の拝所だったのです。
ところが他の陵墓と同じように、幕末の文久(1861年~1863年)の修陵によって一変する。尊皇思想の高まりの影響を受け天皇陵の治定作業が行われ、陵墓とされた古墳を聖域化・神域化していった。全ての人の立ち入りを禁止し、拝所を前方部中央の濠外に造る。砂利敷きの広場を設け、石造の玉垣で囲い、鳥居、灯籠などが新たに造営された。鳥居が建ったので、古墳の内部は神の領域となり、人々の世界と隔絶されたのです。こうした陵墓の神聖化は明治に入っても引き継がれ、天皇中心の皇国日本のシンボルとなる。拝所だけでなく、陵墓墳丘の景観も大きく変わる。それまで雑草、雑木が茂っていた墳丘は松や檜などの常緑樹に植え替えられ、現在目にするような青々とし荘厳な陵墓景観となっていった。

ここ誉田山古墳でも、墳頂の仏堂や石段は撤去され、入ることを禁止され、拝所は神社とは反対側の前方部に新たに造られたのです。

 誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)  



誉田山古墳(応神天皇陵)の南、即ち後円部の真後ろに古墳に接するように誉田八幡宮が鎮座する。石の鳥居から真っ直ぐ伸びた参道の奥に拝殿が見える。拝殿は割拝殿形式で、奥に主祭神の応神天皇が祀られている本殿が見える。隅々までよく手入れされ、神社らしい雰囲気が漂います。
石鳥居、社殿は東を向き、すぐ東側には東高野街道が南北に走っています。

境内の案内板に「欽明天皇(第14代)の勅定によって応神天皇の陵の前に営まれた社殿を、後冷泉天皇(第70代)の頃(1045-68)になって、南へ1町(約109メートル)離れた現在の場所に造り替えたことが伝えられています」とある。ということは、元は応神天皇陵の後円部内にあったということなのだろうか。応神天皇を御祀りし祭祀を行う神社として始まったようです。
八幡神(はちまんしん)は応神天皇(誉田別命)の神霊とみなされ、八幡神を守護神としていた武家の尊崇をあつめた。特に源氏は、近くの河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)が発祥の地で、壺井八幡宮を河内源氏の氏神としていた。源頼朝は建久7年社殿、伽藍を修復し、国宝の神輿や、神馬、重要文化財の鳶松皮菱螺鈿鞍・同鉄蛭巻薙刀などを寄進し、室町幕府六代将軍足利義教は、重要文化財「誉田宗廟縁起」、同「神功皇后縁起」を奉納した。
南北朝時代から戦国時代にかけては、戦乱により再三再四その激戦場となり、そのために社殿および伽藍が戦災を受けて荒廃した。その後、織田信長が河内を支配すると誉田八幡宮の寺領を没収してしまう。
信長の死後、天下統一を果たした豊臣秀吉により社領二百石を寄進され復興するかに見えましたが、天正14年(1586)に社殿、伽藍が焼失した。豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。徳川幕府は、誉田八幡宮に引き続き社領二百石を扶持し、また数次にわたって社殿の造営、修復を行っています。今の社殿は江戸時代のはじめに建てられたもの。
明治に入ると天皇陵の聖域化が進められ、墳頂の仏堂や階段は撤去され、陵内に入ることも禁止され、拝所は神社とは反対側の前方部に新たに造られたのです。また神社内に神宮寺として存在していた長野山護国寺は廃仏毀釈の影響を受け破壊されてしまう。

参道中ほどの左手に四脚門の南大門(なんだいもん)が名前の通り南向きに建つ。神社に寺門とは??ですね。
奈良時代、境内に神宮寺として長野山護国寺が行基により建立され、多くの伽藍が並んだという。しかし明治初年の神仏分離令により寺は取り壊され、唯一この南大門が残された。神仏習合の名残です。
拝殿と同じく豊臣秀頼による再建だが、豊臣家滅亡後に徳川家に引き継がれ完成したもの。

拝殿前を右に折れて進むと石造の放生橋(ほうじょうばし)に突き当たる。橋の先はすぐ誉田山古墳(応神天皇陵)の後円部です。年に一度、9月15日の秋季大祭りの夜、応神天皇の神霊を乗せた神輿を担ぎ、この橋を渡って御陵へ入る「神輿渡御神事」が行われる。といっても古くからある太鼓橋のほうでなく、隣の平らな仮設橋を使ってです。放生橋の太鼓状はかなりの急で、多人数で神輿を担いで渡るのは無理なように見えます。
宮内庁は永年の慣例から年に一度だけ、特別に陵内に神輿が入ることを許可している。「永く応神陵を守護してきた歴史的経緯もあり、堤の上までの渡御を認めている」というのが宮内庁陵墓課の説明です。といっても後円部の墳丘に入れるわけはない。見えているのは内濠の外堤で、そこまでのようです。
源頼朝が寄進した神輿(国宝)。幕末までは、周濠を渡り後円部の上に建つ誉田八幡宮の奧の院(六角形の仏堂)まで階段を登り参拝していた。源頼朝寄進の神輿は近年まで使われていた、と書かれているが、神輿を担いで仏堂まで登ったのでしょうか?。しかし幕末から明治にかけて尊皇思想が高まるとともに、仏堂、階段は取り壊され陵内への立ち入りも禁止されてしまう。

参道の右手に「誉田林古戦場址(こんだばやしこせんじょうあと)」の碑が建つ。
誉田八幡宮周辺は、東高野街道、竹内街道、奈良街道など通り交通の要衝にあたる。京都、大和方面から敵を防御する戦略上の拠点でもあった。そのため南北朝期から戦国期にかけて多くの戦が繰り広げられ古戦場の舞台となったという。

 狭山古墳・宮山古墳・野中古墳  



誉田山古墳(応神天皇陵)傍の東山古墳から西へ200mほどの位置に狭山古墳(はさみやま)がある。前方部が東向きとなっている。車道から少し入ると前方部の南角にでる。古墳の大きさに似合わず広い濠が特色で、緑色に染まった水が美しい、というか異様です。空中写真で見ると、後円部の濠には水が無い。そこは埋め立てられ水田に利用され、そのため濠の形が和鋏に似ていることから古くから「はさみ山」と呼ばれていたそうです。
三段築成の前方後円墳で墳丘長103m、後円部(直径60m、高さ9.5m)、前方部(幅66m、高さ9.1m)。5世紀前半の築造と推定。


狭山古墳から車道を挟んで南側に位置するのが野中宮山古墳。前方部を西方向に向けた前方後円墳です。北側に濠水が見られたが、それ以外は埋め立てられている。前方部の濠は埋め立てられ、前方部の一部を削って藤井寺市立の幼稚園となっています。




墳丘上には自由に登れる。階段やスロープも設けられています。前方部から東方向の後円部を見れば、石の鳥居と階段が見えます。4mほど高い後円部の上に野中神社が鎮座しているからだ。ここは桜の名所で「藤井寺八景」の一つとなっているそうです。

古墳の南側は濠が埋め立てられ「野中宮山児童分園」となっている。
児童分園に設置されていた案内板から紹介します。三段築成の前方後円墳で墳丘長154m、後円部(直径100m、高さ14.1m)、前方部(幅90m、高さ10.1m)。5世紀前半の築造と推定されている。

羽曳野警察署と市役所の間を西へ入っていくとすぐ左手の駐車場の奥に野中古墳が見えている。国史跡に指定され、この古墳も世界文化遺産候補に含まれています。
奥へ入っていくと入口と説明板があります。こちらから見ると丸裸の墳丘で、形状がよくわかる。一辺37m、高さ5m、二段築成の方墳で幅2mの濠がめぐらされていた。5世紀中頃から後半の築造と推定されている。
昭和39年(1964)、墳頂から5列の木箱が見つかり、その中に甲冑11組、鉄製刀剣170が入っていた。1古墳で出土した甲冑の数としては黒姫山古墳(堺市)に次ぐもので注目された。



墳丘に登ってみました。南の方向に、民家越しに見えるのは墓山古墳。







 墓山古墳とその周辺  



羽曳野市役所裏の墓山古墳(はかやま)へ向う。市役所南側の車道を入るとすぐ墓山古墳の後円部に突き当たる。突き当たりの左側手前にある小山が向墓山古墳(むこうはかやまこふん)。東辺68m、西辺62m、南北62m、高さ10mのややいびつな形の二段築成の方墳。応神天皇陵の陪塚として宮内庁が管理し、フェンスで囲まれている。墓山古墳の陪塚なら考えられるのだが・・・。向墓山古墳も世界文化遺産候補に含まれる。

墓山古墳の後円部には濠に沿って歩道があり、墳丘と濠を眺められます。説明板も設置されている。

後円部の歩道を北周りに歩いてみます。後円部北角から北側の側面を撮ったもの。緑色の濠水が印象的です。ただし濠水が見られるのは、南側面の一部とこの後円部だけのようです。
墓山古墳は三段築成の前方後円墳で、墳丘長225m、後円部(直径135m、高さ20.7m)、前方部(幅153m、高さ19.3m)。古市古墳群では5番目の大きさ。葺石と埴輪が確認され、5世紀前半の築造と推定される。応神天皇陵の陪塚に指定され、墳丘のみ宮内庁が管理している。周濠をもち、これだけ大きな前方後円墳が陪塚とは考えられないのだが。ただし古墳全体が昭和50年(1975)に国の史跡となっており、重複指定されている珍しい例です。

今度は南回りに歩いてみる。すぐ墓場です。古墳に沿った細長い墓場で、奥は通り抜けできず、引き返さなければなりません。古墳の堤や周濠の一部を、地元の人々は墓地として利用し続けてきた。墓山古墳と呼ばれるのもうなずけます。






墓山古墳の前方部に周るため、墓場を出て住宅街に入る。これがまた迷路のような住宅街で、どこを通っているのか分からなくなってきた。ようやく迷路を脱し、前方部に達する。前方部の一部も墓地に利用され「野中共同墓地」とある。

墓山古墳の前方部です。濠には水は無く雑草が生えている。先日の台風によるものか倒木も見られ、濠内で数人が雑草刈りや倒木整理にあたられていた。

墓場への入口手前左手の盛り上がりが浄元寺山古墳(じょうがんじやま)。一辺67m、高さ7mで、二段築成の方墳。円筒埴輪と朝顔形埴輪が出土し、5世紀中頃の築造と推定される。
浄元寺山古墳も国史跡で、世界文化遺産候補に含まれる。




 誉田白鳥埴輪製作遺跡・翠鳥園遺跡公園  



地図によれば、羽曳野市役所の近くに「誉田白鳥埴輪製作遺跡(こんだはくちょうはにわせいさくいせき)」がある。探し回ったが見つからない。市役所に入って尋ねても要領を得ない。たまたま年配の市民の方が居合わせ、俺が詳しいと案内してくださいました。
市役所から100mほど南の路地横に駐車場があり、おじさんはそこを指し「ここら辺りが埴輪製作の跡地だったが、幹線道路が造られるなどしてほとんどなくなってしまった」と教えてくれました。それとなく案内板が置かれている。

案内板の赤枠線内が跡地です。現在地の右横が駐車場で、幹線道路を越えた先にも跡地がある。写真では、駐車場から真っ直ぐ右奥の樹のの茂っているところ。現在そこだけが跡地として整備され残されている。

信号を渡った先の道路脇にある小さな小さな埴輪製作の跡地で、「誉田白鳥埴輪製作遺跡公園」となっている。小さすぎてすぐ近くの市役所の職員も気づかなかったのでしょう。国の史跡に指定されているのですが。


墓山古墳南方にスーパーのイズミヤがある。前の道路を東へ400mほど行けば近鉄・古市駅だ。このイズミヤの裏が広い駐車場になっている。駐車場の先に、卵を輪切りにしたような奇妙なモニュメントが見える。そこが
翠鳥園遺跡公園(すいちょうえんいせき)です。

翠鳥園遺跡公園のシンボルがこの大きな卵型モニュメントです。
休憩所に置かれていたパンフレットには「石器を作るために打ち割ったサヌカイトを表した大きなモニュメント。中に入ればサヌカイトの不思議なサウンドが響き、足元には鋭くとがった石器が浮かび上がってきます。」とあったが、音も聴こえず足元にも気づかなかった。
右は休憩所を兼ねた学習解説施設。遺跡の発掘調査の模様、石器の作り方、旧石器時代の人々のくらしなどを解説したビデオが設置されています。

平成4年(1992)春、発掘調査で二万年前の石の破片が約2万点見つかった。二上山で産出されるサヌカイト石を細工した石器やその破片で、粘土層に覆われ保護されていたのです。また30か所以上の石器づくりの跡も見つかっている。旧石器時代の石器造りの様子がうかがえる貴重な遺跡です。この遺跡は平成10年(1998)に遺跡公園として整備された。



公園にはベンチが置かれ、トイレもあり休憩にお勧め。また公園内の芝生の広場には、旧石器時代の石器作りの跡がアトリエ(作業場)として写真で再現されています。








 白鳥神社古墳  



近鉄・古市駅へ行き、駅横の踏切を渡り駅裏へ回る。駅裏の森の中に白鳥神社があります。最近できた観光案内所の前には「竹内街道」のプレートがかかっている。竹内街道は数年前に歩き、この場所も通り、白鳥神社にも寄りました(ここを参照)。

神社は駅とは反対側の東方向を向いている。この丘は、全長120m、後円部径65m、前方部幅70mの前方後円墳で、「白鳥神社古墳」と呼ばれている。現在はその面影は全くありません。前方部は近鉄によって削り取られてしまっているようです。
鳥居を潜り階段を登れば正面に拝殿が見える。元々は、現在の前の山古墳(日本武尊白鳥陵)の上にあり「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていたようです。戦火、地震などのいくつかの転変を経て寛永年間(1624~43)末期に古市の氏神として現在地に移されたという(Wikipediaには天明4年(1784)となっている・・・)。

 高屋城山古墳(安閑天皇陵)・高屋八幡山古墳  



天皇陵のちょうど東側、後円部の中央に出る。高い鉄柵で防御されています。濠を覗くと、後円部の真ん中を境に向こう側は水が溜まり、手前は草地となっていた。
後円部に案内板が設置されている。墳丘長122m、後円部(直径78m、高さ13m)、前方部(幅100m、高さ12.5m)の前方後円墳。埋葬施設や副葬品は不明だが、各種埴輪や須恵器が出土し、それから6世紀前半の築造と推定されている。

高屋城山古墳の南側は東高野街道となっている。その東高野街道を南西に進むと国道170線に突き当たる。そこを100mほど北へ行くと西を向いた拝所があります。第27代「安閑天皇古市高屋丘陵」(あんかんてんのうふるちのたかやのおかのみささぎ)に治定されている。
「安閑天皇古市高屋丘陵 継体天皇皇女神前皇女墓」と掲げられている。安閑天皇と継体天皇皇女が合葬されているようだ。第27代安閑天皇(あんかんてんのう)は継体天皇の長子で、66 歳で即位したが、わずか 4 年で崩御した。合葬されている神前(かんさき)皇女は継体天皇の娘で、安閑天皇の異母妹にあたる。

前方部の北角から拝所を撮る。
城山古墳と呼ばれるように、中世には守護大名の畠山氏の居城・高屋城の本丸として利用されていた。当時の平山城としては全国最大規模だったという。そのためか墳丘はかなり改変されているそうです。高屋城は天正3年(1575)、織田信長に攻められ焼き討ちされて滅亡する。この本丸の南に高屋丘陵を利用した二の丸、三の丸があったが、現在は宅地開発で破壊され痕跡は無い。

高屋城山古墳から国道170線を200mほど南下すると左手に「安閑天皇皇后春日山田皇女御陵」の石柱が建っている。目立たないので見逃しやすい。細い路地を入っていく。貧弱な参道なのは皇女なのだからでしょうか。

古墳名は「高屋八幡山古墳」(たかやはちまんやま)。現状は一辺40m位の方墳に見えるが、住宅建設などの事前発掘調査で、墳丘長85m、幅10mの盾形の周掘をもつ前方後円墳であることがわかった。北側の後円部は住宅になってしまって残っていない。残された前方部の一部だけが宮内庁によって仁賢天皇皇女の「春日山田皇女古市高屋陵」(かすがのやまだのひめみこのふるちのたかやのみささぎ)に治定されている。日本書紀には、春日山田皇女は安閑天皇の御陵に合葬されたとなっているのだが・・・?。
ここの鳥居はコンクリのようです。


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