30歳を過ぎて米国から貴国後慣れ親しんだ腕時計の最終部門の生産技術部門:組立技術の係長に就任した。アメリカで新規に学んだ金ケース造りは青天の霹靂だった!!! 当時、SEIKOと言えど腕時計のケース制作は完全に外注頼りで思うような技術力を発揮出来ず仕舞いで商いをしていた。況してや高級品の金ケースとなると別次元の扱いで製作されていた・・・ 超高級品の金ケース時計は如何様な商いになっていたのかは正直理解できていなかった。 依って対米輸出品は、現地調達で金ケースを何タイプか起こし現地販売会社:Seiko Time Cop でケーシーングしアメリカ人好みのモデルとして戦列に加えていた。 日本国内でも出来ないケース造り、しかも金ケース造りをNY市内の町工場のオッちゃんと造り自社ブランドとしていたのだった。 金(Au)時計は当然高級品で数はそれ程出る訳もないが商品気入れるを整えるという点では極めて重要な意義を持っていた!!! 面白い事に、USA 時計業界の金時計と言えば、14金(Au)で日本の金より品位は低かったがお国柄のマーケット事情を知る上でかなり重要なキーポイントだった。
金(Au)ケースはロストワックスと言う手法で家内工業的に作り数は少ないがモデル数を多くさせるという点で高級品としての品位を高めさせていた・・・ 日本に居てもケース製造技術にはお目に掛れない技術だけだったこともあり我にとっては意義深い技術力を身に付けられ何か天にも昇った不思議な感覚に浸る事が出来た。期間はたった1年だけだったが、ロストワックス製法の何たるかに触れられ今後への幅が広がった思いがした・・・
販売の責任者はUSAマーケットに詳しいアメリカン人が副社長で担当、我はサポーター役で全米各地で開催された時計商さん達の会合に突き合わさ技術的サポートのお手伝いもさせられた・・・ 今でもよく判らないが、中西部地区でSEIKO時計がよく売れるという事もあってオハイオ、インディアナポリス、東部のペンシルベニヤ、ボストン等によく出掛けた・・・中でも中西部は販売数も伸びつつあったのでインディアナポリスは重要な拠点だった。お陰で副社長:Fedorさんにはインディー500マイル競技が行われる競技場に2回も連れて行って貰った縁もありインディー500には今日でも関心が深い!!!○○の軍港街に出向いた時は世にも不思議な超巨大海軍基地を空から拝見することが出来何か不思議な世界に浸った!!!記憶が濃厚だ。。。。。
帰国後数年して風の便りにこうした対米輸出が飛躍的に伸び出しSeiko Timeも鼻高々のようだ!!!!と言う、話をお聞きしあの頃の下働きが肥やしになり付有るんだな!!!と懐かしんだ… この時、私の身の置き所は新商品Printerビジネスへ鞍替えさせられていて地団駄を踏んだ思いだったが、この頃の会社の変遷振りにも大大変革が齎されていた・・・色々な意味で服部グループが大変革と大発展を遂げた時代だった!!!
私の身の置き所は専らミニプリンター:電卓搭載印字機大変革の時代で10年ほどこうしたビジネスに振り回され通しだった。言うなれば大好きだった腕時計制作と言う分野から強制的に切り離され自分おも忘れ掛けつつあった・・・大間か10年近く続いたであろうか? 趣味の植物で『イワチドリ』に熱が入り掛けていた時代だった。山野草仲間からある時、蜜柑箱に籾殻を入れた『ヘボ』ちゃん飼い蜂を頂いた・・・ 子供時代参座遊び扱け、我のお供達だった『ジスガリ(ヘボ)』に再開したのだった。この歳を期してこの爺は豹変した!!! 会社人間で振り回されるのではなく自分らしさを持ち、自分の骨格を作り直そう!!!!と決断したのだった。 この時代、山野草仲間や『ヘボ』ちゃん仲間が日替わりのように膨れ上がって行った時代だった。これが全国区で展開したのだったから今にしてみれば実に不思議な一時点だった!!! 山野草では本場紀州:新宮に『日本イワチドリ愛好会』なる名だたる名人が居て全国区で引っ張っていた!!! また、焼けボックリに火が点いた『ジスガリ(ヘボ)』ちゃんの世界では、これ又、全国区的存在感を誇る故三宅名人が率いる『日本地蜂連合会』が小さな小さな串原村で大活躍されている事をNHK教育TVで知り、三宅さんの門戸を友人達3人で叩くことになった。 確か正月明けの小正月だったと記憶している。今にして見るとこれは極めて大きな事件だった。 三宅さんは我々3人を快く受け入れて下さり、座敷にまで通されヘボ談義が始まった・・・ 他にもお客さんが数名居たが此方さんは玄関払いで我々と延々3~4時間のヘボ談義だった。仲間は吾と宮嶋、五味さんだった!!! この歳を期して、紀州新宮の『イワチドリ』詣でと、串原『ヘボ』詣で三昧の日々へと次代は移って行った。御年、40歳を一寸廻った働き盛り好奇心旺盛な時代だった。
『イワチドリ』: 大師匠:宮本さん、故川島さん、故角さん、児島会長さん、峯上副会長さん、大阪・故南さん、サトー山草園
『ヘボの会』 : 宮嶋さん、百瀬さん、五味さん、故小林さん、故三宅名人、足助:故安藤ドクちゃん、故安藤会長、故加藤さん、今井会長、高橋会長、故西尾先生、故松浦先生、太田さん、
現役バリバリのOさん、BUNさん・・・ 蜂の仲間まだまだ諸先輩は数多く数え上げる限がない程影響を受けて来た・・・現役時代の働き仲間より数が多いのに驚かされる。
所で、この頃初期の時代、餓鬼の頃出会った『キイジス(キオビクロスズメバチ)』県下各地 : 清水高原、乗鞍高原、八ヶ岳山麓、そして、松本の東山界隈でもチョビッ
と!!!で見かける。この子達でと出会う機会に恵まれた。或る時、故小林さんの庭先では清水から獲って来た『キイジス』が庭先の地中から出入りしていた。青天の霹靂。
この頃から病気は深みにはまって行くのだった・・・