今日、5月26日は朝日カルチャーセンター主催の講座に参加しました。講師は霊山歴史館学芸課長の木村武仁さんです。
まず淀という地名は桂川、宇治川、木津川の三川や巨椋池の下流が合流して淀川になりますが水が上手く流れずに「よどむ」ことから付けられました。
淀城は過去に三つ存在します。
①中世淀城・・管領細川政元が築城
②淀古城・・豊臣秀吉が茶々のために細川氏の淀
城を改修
③淀城・・江戸時代の淀城。徳川秀忠が②の淀古城を廃城し、松平定綱に現在地(②の約500m南)に築城を命じ、山城国唯一の大名家の居城となり幕末には稲葉家の居城となりました。
写真は本丸、天守台の跡です。
淀藩12代藩主は稲葉正邦で先祖には家光の乳母だった春日局がいます。正邦は陸奥国二本松藩主 丹羽長富の七男として生まれ、後に稲葉家の養子になりました。正邦は佐幕派でのちに京都所司代になり京都守護職松平容保とともに尊攘派を取り締まり京都の治安にあたりました。
その後には老中に就任しています。
淀城の天守は当初、伏見城から移築される予定でしたが後水尾天皇の二条城行幸の為に二条城に移築された為に大和郡山城の天守が移築されました。
戊辰の役の鳥羽伏見の戦いで劣勢で南に逃げてきた幕府軍は淀城に入城を求めましたが淀藩留守家老の八太監物(はった けんもつ)は藩主の不在を理由に入城を断っています。
代々、稲葉家では藩政は城代家老の田辺家が行う慣習でまた、田辺家は穏健派だった為だったと思われます。
明治天皇御駐蹕址の石碑
光明寺跡東軍戦死者埋骨地跡
淀城への入城を拒否された旧幕府軍は淀の町に火を放ち八幡方面に敗走しました。新政府軍の戦死者は手厚く葬られましたが旧幕府軍の戦死者は賊軍として埋蔵は許されずに野ざらしになっていましたが淀の人々や寺は宗派を超えて供養し葬りました。淀は譜代大名の統治が長かった為に住人は徳川贔屓が多かった為と思われます。
淀藩校 明親館跡 淀城への入城を拒否された旧幕府軍の宿泊地・本陣跡
旧幕府軍の戦死者を弔った寺々。
大専寺 真宗大谷派
文相寺 真宗本願寺派
長円寺 浄土宗 旧幕府軍の野戦病院。門前に榎本武揚書の「戊辰之役東軍戦死者之碑」があります。過去に浄土宗寺院大公開で訪問した事があります。
東運寺 曹洞宗
まず淀という地名は桂川、宇治川、木津川の三川や巨椋池の下流が合流して淀川になりますが水が上手く流れずに「よどむ」ことから付けられました。
淀城は過去に三つ存在します。
①中世淀城・・管領細川政元が築城
②淀古城・・豊臣秀吉が茶々のために細川氏の淀
城を改修
③淀城・・江戸時代の淀城。徳川秀忠が②の淀古城を廃城し、松平定綱に現在地(②の約500m南)に築城を命じ、山城国唯一の大名家の居城となり幕末には稲葉家の居城となりました。
写真は本丸、天守台の跡です。
淀藩12代藩主は稲葉正邦で先祖には家光の乳母だった春日局がいます。正邦は陸奥国二本松藩主 丹羽長富の七男として生まれ、後に稲葉家の養子になりました。正邦は佐幕派でのちに京都所司代になり京都守護職松平容保とともに尊攘派を取り締まり京都の治安にあたりました。
その後には老中に就任しています。
淀城の天守は当初、伏見城から移築される予定でしたが後水尾天皇の二条城行幸の為に二条城に移築された為に大和郡山城の天守が移築されました。
戊辰の役の鳥羽伏見の戦いで劣勢で南に逃げてきた幕府軍は淀城に入城を求めましたが淀藩留守家老の八太監物(はった けんもつ)は藩主の不在を理由に入城を断っています。
代々、稲葉家では藩政は城代家老の田辺家が行う慣習でまた、田辺家は穏健派だった為だったと思われます。
明治天皇御駐蹕址の石碑
光明寺跡東軍戦死者埋骨地跡
淀城への入城を拒否された旧幕府軍は淀の町に火を放ち八幡方面に敗走しました。新政府軍の戦死者は手厚く葬られましたが旧幕府軍の戦死者は賊軍として埋蔵は許されずに野ざらしになっていましたが淀の人々や寺は宗派を超えて供養し葬りました。淀は譜代大名の統治が長かった為に住人は徳川贔屓が多かった為と思われます。
淀藩校 明親館跡 淀城への入城を拒否された旧幕府軍の宿泊地・本陣跡
旧幕府軍の戦死者を弔った寺々。
大専寺 真宗大谷派
文相寺 真宗本願寺派
長円寺 浄土宗 旧幕府軍の野戦病院。門前に榎本武揚書の「戊辰之役東軍戦死者之碑」があります。過去に浄土宗寺院大公開で訪問した事があります。
東運寺 曹洞宗