世界で一番暴力的権力をもつ男
この質問は、暴力を身体と限定しないで、武器をも含む、というように説明を付け加えると、それほど困難なく
ジョージ・W・ブッシュ
とご丁寧に答えてくれる受講生が、相当数でてきます。
そうです。人類はいまだに暴力という権力の限界を超えることができないのです。それどころか、ますます、その限界の壁が大きくなっていっているようにも思えるのです。それは、直接的な暴力を使えないくらいに双方の暴力の大きさが大きくなり、皮肉なことにその大きさゆえに、直接的な暴力が使えなくなっているというよくきく議論になっているのです。暴力が抑止力となって暴力を規制する。死刑制度の存続を主張する意見も同様な文脈をもっているといえます。
授業中の発言ができない
授業中、発言できる人と発言をまるで禁じられているように、できない人に別れます。
うるさいくらいに(失礼)発言する人、いえ、発言できる人と、一切の発言が不可能な人、その人たちの中には、この授業中、自由に発言する人の中で、空気を読めずに、うるさいと思えるのに我慢を強いられている人が、います。この発言を禁じられている人たちが最終的に恐れているのも、僕は最後の最後は身体に及ぶ暴力だ、と考えるのですがいかがでしょうか?
暴力的強者と弱者の非対称
暴力が強い人は、基本的には、発言権があります。発言しないにしても、隠然とその影響力を及ぼすことができます。伊丹十三監督の作品に『マルサの女2』という作品があります。この映画では、一見平和な私たち日本の国が、むき出しの暴力によって、社会の根底が決められているという深刻な現実が告発されています。暴力団の存在を赤裸々にしかもコミカルに描いています。
暴力的強者の圧倒的な暴力差を暴力的弱者は、受け入れるよりない。空気を読めず、状況を読めず、暴力的強者に逆らったとき、とんでもない暴力による粛清がまっている。この潜在的圧力が私たちの学校にも実は存在しているのです。
その弱者の沈黙を考えてみましょう。それが私の授業の一貫して流れているテーマです。だれしも暴力は怖いのです。そして、おそらく自立していない人間にとっては、暴力が最初で最後の決め手となっていくのです。私たちはどこかで、暴力を職業としている人たちは別にすれば、暴力を力の差とすることを社会によって放棄させられるのです。しかし、子供は違います。この暴力差こそがすべてとなっていくのです。
教師の体罰と生徒による弱い者いじめ
体罰教師と暴力的弱者いじめは、その構造が、きわめて似ています。それは、暴力が双方ともに犯罪として意識化されないということです。暴力が、犯罪としての規制力を持たないという問題を私たちは考えなければいけません。
なぜ、発言できないのか?
なぜ、発言を禁じられてしまうのか?
この規制要因として暴力をどの程度にみることができるのか?
恥ずかしいからなどというカモフラージュではなく、本当のところはどうなのか?そして、どうすれば、私たちは暴力という権力から自由になっていけるのか?
これから考えていきたいと思います。
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ご助言ありがとうございます。私たちは暴力を超えることがなかなかできない。暴力の弱い人が強い人にたいして、ものをいう自由をもてない傾向がある。それはどうしたらよいのか、というのが、言いたいことです。また、何かありましたらよろしくおねがいします。