規模の経済
たとえば簡単なたとえですが、東京だから小さな専門店が成立します。コーヒーだけを売る店、ギターだけを売る店、そこには、通だけがわかる狭いエリアの商品しかないのです。しかし、そこが繁盛するということは、小さい専門店にそれなりの人たちの需要があるということを意味します。だからこそ、小さな専門店は生きていけるのです。つまり、そこには、ギターだけでも、欲しがる人たちが、一つの店を成立させるだけの、全体の巨大な需要があるということなのです。こういう原理を私たちは「規模の経済」と呼びます。だから、田舎の人口の少ない街より、断然都会である東京のほうが細かいニーズに対応したきめの細かい科目を設定できる単位制高校が成立するのです。
10万人の人が集まる高校
を考えてみましょう。膨大な人たちが「世界史」を、「国語総合」を、とりますね。私の専門である「倫理」は大変マイナーな科目です。しかし、それでも、10万人の人たちが需要として出現すれば、まちがいなく「20人」程度の倫理の教員が成立します。その人たちが同じではなく、さらに細かいニーズに沿った異なる「倫理」の需要を獲得しようと努力したときを考えてみましょう。そうなのです。学校の規模がある大きさにならなければ選択制は機能しません。それが、現在教育行政を行っているトップの人にまったく理解されていないのです。こと単位制に関する限り
「大きいことがいいこと」
なんです。
安易な選択こそ大切
あなたは、スーパーを変えるときいちいち
「悪いね」
なんて思いますか?思うとしたら、あなたは、たぶん、そのスーパーの関係者と何か個人的な関係があるか、そうでないなら、一度脳神経外科へでもかかられたほうがいいな(笑)。
ところが、学校では、こういうことがあるんですね。
先生の授業出れなくてすいません(汗)。
みたいな。これがいけないのです。なぜか?
「選べない」
からです。本当にいいものが、それも個性ある本当にいいものが浮かび上がってこないからです。だから、単位制高校の人間関係に必要なのは、水くささです。あるいは、他人度といってもいいかもしれないね。つまり、平気で
「あんたの授業はつまらない」
って言えることなのです。今学校は、
「おめえは、あそこのスーパーで買え」
と客が店にいわれ、あげくに店へ行けば
「なに!?このカツ丼がくえねえだと?正座しろ」
なんだよね。だから、店が努力しないし、客が店によいしょして、何とか食わないように、努力して、その挙句、金を取られているわけですよ。
「ばーーーーかじゃねえ。お前カネはらってんじゃねえのか?客だろうが?何やってんだよぉ!」
この「ばーーーーーーか」を打ち消す力こそが学校の呪術なんですね。
さあ、考えてみよう。なぜ、単位制高校にこの声がこだましないのか?
単位制高校の先生がかならずいうのだ。
「生徒が選ぶと安易に選ぶ」
って。安易に選べばふつう、どういうことが起こりますか?
「選択の失敗」
にぶつかりませんか?
この選択の失敗をいかに早く気付かせるか?そして、自分の店のものがいかに、すぐれているかを客に宣伝すること、これがふつうの商売の努力の目標ではないでしょうか?
そうです。私は、その解答としてまったく周辺的な回答として
先生と生徒が水臭くないから
といっておきたいと思いますね。いかにして、水くさくするか、そして、いかにして安易に選べるようにするか?そして、逆説的な結果としていかに心から選べるようにするか?
今学校にはこの問いが存在しません。なぜ、選択をする単位制高校でこの問いが成立しないのか?考えなければいけません。
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単位制高校では、同一のクオリティは、そもそも求めてはいけない。つまり、同時にそれは『選択の自由』を奪う事になるから。それが、この教科の先生達は、全くそうした意識で受け止めていません。
むしろ、平等でしょ?と言われました。
にも関わらず、その教師は単位制高校の教師なら、皆選ばれたいと思っているとおっしゃる。
論理的ではありません。矛盾しています。
自分達の教科が、選ばせないような形を取っておきながら、選ばれたい。
では何を基準に選べとおっしゃるの?
マニフェスト選挙でも、こうした問題が取り上げられましたが、こういった教師達に、違った観点から見て、自分のスタンスの間違いを気付かせるのに、私はある存在の欠如が気になっています。
先生は授業で、『いらない1円があったら、この中へ入れてください』とよくおっしゃっていましたね。私はその度、『先生、残念ながら『いらない1円』などありません。それが何に使われるかという明確な目的があって、それに合意するなら1円と言わず、私は出来る限りのお金を出しましょう。』と心の中でつぶやいていました。
そこで、高校に通う生徒さんでは、自分で授業料を払う方もいるでしょうが、それは微々たる物で、大半は税金で賄われているでしょう。
本来なら、そうした『影の消費者』である、納税している保護者達が、もっと『教育』という商品に対して厳しい目を持ち、クレームを言い、また良い商品に対しては寛容で、正当な評価しなければいけないのではないでしょうか?
しかし、納税者の一部である保護者は、『いらない1円の如く』、使い道は一向に興味が無いように思えます。
多分、この選択制というシステムを語れる保護者は、まずいないでしょう。
なぜ保護者たちは、自分たちが間接的(税金)にでも払っているお金に対する商品(教育・システム)に、関心を示さないのでしょうか。
対象者である教師と生徒が、あくまで当事者で、納税者は口を挟まない方がいいのでしょうか?
果たして、表の消費者=生徒 と 影の消費者=納税者(保護者)は相容れないものでしょうか?
また、公益性の高い『教育』というものを、『商品』とみること自体を疑わなければいけないのでしょうか。
教育を受ける権利と謳いながら、その実、その内容に公益性を欠いていると思われるなら、そこに、社会の生ぬるさも感じるのです。
つまり、そこには怠惰な教師を追い詰めるはずの存在(影の消費者)が、不思議と語られていないような気がします。
生徒にしたって、実は、自分達に与えられているのは『権利』だけではないという事を、自覚する必要があるのではないでしょうか?
他人の納税したもので高等教育を受けている(任意の教育を)、つまりそこには、他人のふんどしで相撲を取っている以上、
『それに見合うだけの選択をしなければならない』という『責任』を負わされているはずです。
それをお友達だの、選ぶの面倒くさいなどと、生ぬるい事を言っている。
そして、こうしたことを、私は先生の授業に於いて、『一円の寄付』や『マニフェスト選挙』から感じていたのですが、先生や皆さんはどの様に思われるのでしょうか?
ご意見をうかがいたいと思います。
相変わらずの長文。その内、H/Nを改名せねばなりません。
■私はある意味、刹那さん程度の興味と関心がある人には教育ってラクなんだろうな、と思うことがあります。だって、本当に、思うように反応していただけるから(笑)。あなたがコメントに出された
『いらない1円があったら、この中へ入れてください』とよくおっしゃっていましたね。私はその度、『先生、残念ながら『いらない1円』などありません。それが何に使われるかという明確な目的があって、それに合意するなら1円と言わず、私は出来る限りのお金を出しましょう。』
こそ、私がひっぱりだしたい疑問なのです。授業はじつは、続編があるわけです(笑)。私のこのコメントの名前をクリックしていただければ、その議論をしているコメントがあります。もしよろしければ、続きをそちらで。