高校公民Blog

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無学年無学級制の可能性 5 無限の金八先生

2010-10-17 22:19:49 | 単位制革命

金八先生の矛盾

 

必要があって、いま『3年B組金八先生 6部』を見ています。性同一性障害を扱った作品です。確かに、脚本も良くできています。しかし、どうあっても、この作品が前提としている構造は、問題を孕んでいます。

 どうでもいいことからいうと、私は、生徒の名前の下を呼び捨てで呼ぶことは絶対ありません(笑)。親子でもないし、赤の〈担任〉である私が、どうやったら呼び捨てができるんでしょうねえ。

 金八先生は、どうやら持ち上がりではありませんね。なぜって、ずっと金八先生は〈3年B組〉だからです。ということは、金八先生は、4月になって、3Bのメンバーにであうわけですよね。しかし、それで、下の名前を呼び捨てにできる関係をもてる、ってのがどうも「?」な感じがするんです。何で、そんな距離感を平気でもてるのでしょうか?

 もうひとつ、金八先生が「いい先生」だということが大変問題なんです。卒業生も、「3B」だということで一体感をもっています。連綿と〈よさこい〉を踊るんですよ。3年B組は。

 金八先生がいい先生だとします。すると、金八先生に合わない生徒ってどうなっちゃうんでしょうか?

 

先生、暑苦しいんですよ

関わんないでくださいよ

何でみんな一緒でなければいけないのでしょうか?

 

金八先生が、とんでもない教師であっても大変です。いい先生であっても大変なのです。この一体感になじめない人間が存在したとき。

 

ポストモダン状況

 

ちょっとお堅いことをいいます。

先進国を中心に、現代社会はほぼ1980年代以降、ポストモダンと呼ばれる環境に突入したといわれています。

 そのキイワードは、〈差異〉つまり、違うっていうことが大切、ということなんです。違うこと、多様に違うこと、これが社会の豊かさだ、というのです。金八先生はいい先生かもしれない。しかし、私はちょっと、という生徒がいたとします。そういう生徒が、異なる先生を求めます。相性っていったっていろいろでしょ。こういう趣味に応じて行くのが豊かさだってことになってきたのです。

 教員も給料をもらっています。つまり、教員のサービスは〈商品〉です。そのときに、金八先生という商品しかない、選べない、こういう世界でずっと私たちはやってきました。金八先生にかぎらず、学校の先生、担任の先生、クラスは、選択の対象ではなかったのです。選ぶのではなく、運命として埋め込まれ、自分をそれに合わせるのです。担任の先生は、面倒を見てくれて、持ち上がってくれて、・・・・。クラス担任は選べない、つまり、その先生しかない、ということが揺るがない前提であったのでした。そうです。運命共同体、ということばがぴったりだったのでした。

 その環境が、1980年代以降、変化したのです。趣味の多様、選択の多様、モデルチェンジ、こうした要素が、商品に付加されていなければ、モノが売れないという世界が誕生したのです。実は、その環境への適応に失敗して現在にいたっている、というのが、一般的な日本経済の診断です。

 

無限の金八先生

 

「積極的な御声かけはいたしません」

 

量販店へいけばときどき、このようなフレーズを聞きます。暑苦しくこちらから声はかけません。お客様の、自由な意思を尊重します。

 

「面倒をみてくれる?」

「持ち上がり?」

「自分のことを「先生はね」っていうなよ」

「下の名前を呼び捨てにするなよ」

 

こうした声を総括するのは、趣味の多様、選択の多様、自己決定権という要素を重視するということです。

無学年無学級制では、担任は生徒が選択する対象、というのが基本です。

もちあがりはあるでしょう。それは、しかし、〈逆持ち上がり〉です。つまり、選ぶ方が持ち上がりを希望するのです。

みなさんは、クリニックを選択しますね。同じです。相談員を選択する。自分に合う相談員を選ぶ。つまり、こうして無限の〈金八先生〉が誕生してくるのです。

今私が勤務する単位制高校は、残念ながら、担任を生徒が選択できません。私の前の勤務校の静岡中央高校は、担任を選択できるという、無学年無学級制のメリットを取り入れていました。生徒は、自分が選ぶ担任と一度面談してみるといいのです。それが可能なのですから。こうして、彼らの選択によって、クラスが出来上がります。

その先生をシンボルに、その先生を選択した意志でクラスができます。そこに選択による信頼という連帯が存在するのです。これは、金八先生とは全く違うシステムです。だって、特定の

 

「3年B組」

 

はないのですから。その代わり、無限の3年B組が存在するのです。


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挿入される学年制というシステム (setuna)
2010-10-23 00:43:33
 単位制高校は、学年制を布かないということを文部科学省は明示しています。しかし、なぜ学習者の選択の権利を奪い、担任を指定する方法が罷り通っていくのでしょう。
 三島長稜は県内では3番目の単位制高校です。新宿やまぶきをモデルとした静岡中央に始まり、浜松大平の後に続く開校です。本来、システムとしての発展を考えるのならば、静岡中央の問題点と改善策を踏襲し後からできる単位制高校に生かされなければならなかったはずです。しかし、現実はどうでしょうか?3校ともが全く違った形の単位制高校の在り様を見せています。それも、後者に至るごとにまるでそれは 学年制学級制の挿入という強い意図が感じられます。

 今や単位制高校は、学年制学級制の学校で適応できなくなった生徒の駆け込み寺となりつつあります。もちろん、それもある意味では問題ではありますが、従来のシステムを離れて別のシステムの中で学ぶことを選択した人たちを、再び従来のシステムに戻そうとする意志は、現代では全く時代錯誤です。
 教員という人たち、教育従事者は、どうして、そのような教育弱者の立場や気持ちや環境を理解するのことができないのでしょう。単位制でどのくらいの期間を掛けて学ぶのかは個人の意思に委ねられているます。にも関わらずプライマリという拘束や3年間で絶対に卒業させるという教員側の身勝手な強制はどこからやってくるのでしょうか。
 単位制高校の中で、本当に3年間で卒業したいという生徒がいたのならば、そのようなクラスに縛るのではなく、多様な教員たちが各々の能力の中で援助していけばいいことです。それが、真の「ケア」ではないでしょうか?
単位制高校には、多様性という言葉はありません。それは、現役で高校生になれない人たちを排除するある意味での差別です。
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