私の総合学習の成績優良者が教員を訪れ、この授業評価の実施を迫ると、教員の対応がしどろもどろになっていることが報告されることがある。なぜ、参加しないのですか、と理性的な対応を求め、理由の説明を理詰めに求めていく能力があると、そこに、教員の側の拒否の非論理が顔を覗かせるのだ。そして、最後に、頭のいい彼らは、
「成績による報復」
を恐れる。そこに権力の匂いを彼らは敏感にかぎつける。悲しい現実だ。
私は教員の不勉強をイヤと言うほど現場で見てきている。
「10年ぐらい教材研究をしたことがない」
などと豪語するバカをみている。公共空間には提供しているサービスの外部的審査機関がない。私の現在の勤務校にはすくなくともない。管理職が授業の参観を評価の一環としてはじめた。
「なにぶん初めてのことなので」
ご自分が何をいっているかおわかりですか?(笑)
授業などみたことがない、と彼らは強調する。
そこに、腐敗が腐敗を重ねていく。ほとんど私的空間となった成績権力を握りしめた小権力者が、何の監視もなく、日々、サービス提供をしている。
生徒による授業評価の公開は、そうした意味で、教室の権力者の絶対性を相対化する運動となる。
「そんなことを許して見ろ、生徒は楽ばかりを求める」
そうではない。楽ばかりを求めたら、市場は次の差別化を要求する
「楽で意味がある。楽で、自分にとってためになる」
現在の学校は、苦しいだけで意味がない勉強で埋め尽くされているのだ。ただ、単位をとっても、卒業しても意味がない、次のステージはそこにある。そこに運動するのだ。進学校へ目をむけてみたまえ。彼らは露骨に、意味を評価の第一に据えることだろう。授業評価を露骨に行ったとき、小権力者たちの、意味のない権力は、揺れながら、国民の国民益のためのものに転化していくだろう。
そこに消費社会の学生運動たる授業評価の意味がある。