高校公民Blog

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トップダウン

2009-08-25 13:59:33 | 教育制度/行政

トップダウンとしての投資信託

 突然だが、投資信託はトップダウンもいいところのものである。
 仕組みを簡単に説明する。
 たとえばある証券会社のファンドが、私たち個人投資家や機関投資家にこのようにして募集をかける。

「おカネを1口10000円(ま、大体一口1万円から始まる)で出してください。運用は私たちがします。リターンは配当します。」

 しかし、その次からは普通では考えられない。

「その集めたカネをどう運用するのかについてはお客様のみなさんには、いっさい口出しさせません。意見をいうとか、指示するとかそういうことはできません。」

 こういうのだ。まさに「お任せ」なのである。
 もちろん、大雑把にはどこにお金をつっこんだかは発表される。すると、運用するとこの1口の値段が値上がりしていく。私は昨年の秋、中国とインドへの投資ファンドを1口2万円くらいで買い2万7千円で売り放ち、400万円ほどの元手を、2か月ほどで450万円にしたのだった。すごいでしょ!これがリーマンショック直前だったのだが・・・。このように、1口の値段がどのように変化するかという値動きはもうリアルタイムで知ることができる。1口いくらか、まあ私たちはそこに最後の関心はあるのだが、それは私たちは当然知ることができる。しかし、くどいようだが、どこへどう組み込んだかは詳細はわからないのである。それでも買ってくれと言うのである。

「買うのはわれわれファンドが買います。何をどのくらい買ったかはいちいちみなさん投資家には本当の詳しいところは言えません。指示も受けません。一切は企業秘密です。とにかく任せてください。いや任せろ!しかしカネは出せ。しかも、元本割れもある。その責任はもちろんあんたたち投資家だ。しかし、悪いことはいわん。カネ出せ」

 最後、少々乱暴になったが、まあ、こういわれて私は400万円出したわけだ。正確に言うと250万ほどを運用したのだったが、これだけ見ればお人好しもいいところである。まさに、トップダウンという形式で運用しているのが投資信託である。

 しかし、このトップダウンにはこれだけ書いても、もちろん実際には息詰まるような窒息感はない。逃げられないという閉塞感はない。独裁で抑圧されているなどという感覚はまるっきりないのである。ここに不思議がある。驚きがあるのである。
 最後にこういう下げをいいたくないが、去年の冬にはなんと230万を割こみ、現在ようやく310万円ほどに回復してきた。
 このときに、私は、野村証券を責めないのだ。全部私が悪いと私は思っている。まさに、自己責任!だ。トップダウンでほぼ独裁と変わらない仕組みなのに、私には独裁されているなどという感覚は全くないし、全部自分が決めて、自分で責任を負う、まさに自己責任という形でこの間の取引を行ったと思っている。記名、捺印してもいい(笑)。

小沢一郎

 日本社会は民主的でないといってトップダウンをきらう。小沢一郎のトップダウンはこの典型である。小沢が自民党にいて、幹事長をやっていたときの総裁選で、総裁候補が小沢詣でをしたとき、この印象は鮮明に私たちに焼き付いてしまった。その後の新進党、自由党という変遷のなかで、旗印を鮮明にして純化路線を辿っていったときにも世間は小沢のトップダウンにある脅威を感じこそすれ、トップダウンなるものをよく評価しようなどという空気はこれっぱかりもなかった。小沢は常々独善とも取られがちなその手法の非難にこう答えてきた。

「いやなら、選ばなければいいだけの話ではないか」

 実はここが問題なのである。実は日本の社会では

「いやなら、選ばなければいいだけの話ではないか」

ということがそう容易に実行できる社会ではないということなのである。
 日本の会社だけではないのかもしれないが、一般に我が国のトップダウン=ワンマン社長の会社は独裁的であり、しかも、私物化されがちな印象を私たちは持つ。閉じきった世界のなかで統制され、個人の自由がない。まるで北朝鮮や旧東ヨーロッパにいるような印象をもつ。だから、トップダウンなどとんでもないと思うのである。オウム真理教をはじめとした新興宗教団体の多くもそういう印象を与える。
 他方、私たち教育公務員の職場は概ねトップダウンなどない。一体校長が意志を表明し、自ら決断を下すなどということはほとんどない。そのかわり、一体この団体はどういう方向へ向かっているのか皆目わからない。そして、それに異議を申し立てたい人間にはこの上なく息苦しい社会なのである。それは真綿で首を絞められるように曖昧に息苦しいのである。

選択の自由・自己責任・横断性・リスク社会

 最初に投資信託はトップダウンだと書いた。もちろん、そうはいっても何を買うかの最低限の判断の材料は提供されることはくどいが付け加えておく。どこへつっこんでいるのかという大まかな材料は与えられている。肝心な値動きはリアルタイムでわかる。だから、公務員の職場に比べればよっぽどその意志とその結果が明確にわかる。ファンドによってはだれがつっこんでいるのかも発表されている。トップダウンは一般に明確なその団体の意志をトップが下すこと、したがって団体の意志が明確であること、機能的に敏速であること、責任も明確なことなどがあげられる。そのくせ息苦しさがない、というのはどういうことなのだろうか。

自由なる移動/自己決定性、自己責任性

 まずいえるのは、投資信託でいえばいつでもやめられるということである。まさに、自己決定権については、完全に守られている。やめるも入るもその人の意志次第、買うも売るもその人次第、ここについては、まったく自己責任に任されている。欧米は国家レベルでも比較的移動に対する感覚が自由である。職場でいえばいつでも転職できる。横断性が柔軟に存在する。ここがポイントである。日本の社会は閉じきったシステムとなっている。いったん就職すれば転職はなかなか基本的にしにくい。いやならやめる、とか、いやなら他をということを容易にはできない。そのかわりこれまでリスクを回避することができ、自己責任を痛切に感じる必要もなかったのである。投資信託は自己責任である。泣いてもわめいても、値下がりし、塩漬けになればそれはあんたの責任、とこうなる。そのかわり、横断性はある。自分で選択し、責任はあんた、という原則がビルトインされている。そのうえのトップダウンである。要するに「この指とまれ」がトップダウンである。小沢一郎がいうとおり、「いやなら他の指に止まればいいだけ」なのだ。しかし、日本社会はその他というのが基本的に少ない社会なのである。横断性もない。閉じきった閉塞感のある社会なのである。

単位制高校

 私の勤務する高校は単位制高校である。クラスもない。学年もない。自由に単位を選んで自分の計画で卒業できるというのが、謳い文句である学校なのである。しかし、このおもしろいはずのシステムを教員の閉じきった社会主義体質が腐らせていく。生徒は自己責任の学校である。自分で計画し、自分で選択できる。ダメになればそれは自己責任である。
 この仕組みが本当に生きるならば、教員組織を投資信託システムにすることである。
「この指止まれ!」
「俺はこん授業をしている来てくれ!」
 こうしてトップダウンで生徒を募集し、生徒の募集がなければ退場。これが自己責任原則というものである。生徒は中身を吟味し、いつでも横断的に移動できる。そのかわり責任は自分。これが単位制のほんらいである。
 ところが、現状は教員の都合に合わせて生徒の希望を調整する。教員には何のリスクも責任もない。他方今の教育システムでは生徒がリスク感覚をもって授業選択などできない仕組みになっている。
 さて、トップダウンはこれからある程度社会に導入すべきシステムである。たとえば私はもっと職場を選びたいのである。ひとつの理念を校長が立ち上げる、その趣旨に賛同する教員が集まって学校を形成する。その際に校長はその応募してきた教員の職能を見る。みずからの理念と照らし合わせて採否を決定する。そして、

「こういう売りの教員がいます。来て下さい」

と生徒を募集する。これで生徒が来なければ退場である。あるいは、校長が自己責任において、採用した教員の授業に対する生徒・保護者の授業評価が悪い、成果としてうたった成果がでなければ、これまた退場、こうした自己責任の世界こそをトップダウンという仕組みは明確に示すことになるのだ。そのとき、私は本当の意味で

「はたして私は何か」

を客観的に示し、それが売りになるのか、ならないのか、試されることになる。客が来なければ退場である。こうしたシステムを実はトップダウンは前提とするのである。
そのためには、くどいようだが、移動の自由、選択の自由が保障されなければならない。それは管理職にも、教職員にも、そして生徒にも、ここが保障されなければトップダウンはたんなるワンマンにしかならない。


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