高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

コンテスト 7 成績の中の外部

2008-01-19 22:44:05 | 授業・教科指導

59点という点数

 
私は到達度絶対評価で成績をつけています。したがって、中間試験だけでなくたえずリアルタイムに自分の成績は自分で計算できるというのが私の成績の売りなんです。

「はじめは全員0点」

です。そして、いくら出席をすべてしようが、テストを受けず、提出物を出さず、コンテストにも参加しなければ、成績はつきません。

  自分でいうのも何ですが、私がつける成績はきわめて多くのデータに基づいています。おそらく、私と同じように厳密に成績をつけており、しかも、観点別の手を挙げる回数をカウントするなどという不真面目な成績とは違って、真に公民の能力を測定する絶対評価をしているのは他にいないんじゃない?(こういう物言いって、我ながら、傲慢だねえ(笑))。
 中間期末の成績をつける前に必ず生徒のみなさんに現時点での評価点の確かめ算をしてもらうのです。そんなに無闇に多くはありませんが、しかし、しばしば計算間違いや、記入漏れが発覚するのです。年金問題がそうなんですが、受益者もチェックするという相互努力の中でこうしたミスをなくしていくよりないと思うのです。

で、今回驚いたのですが、コンテスト点が

59点

という生徒がいたことでした。
これは、驚きでしたね。

 ある種の才能をそこにみていいと私は思います。それは、いわゆる詰め込みの能力とは全く異なります。それは、芸術やスポーツの能力が詰め込みと異なるのに似ています。

コンテスト点の外部性

コンテストは、4回やりました。そのそれぞれの合計が何点になるかは標準としては示せません。が、59点をとるには、そのそれぞれの投票で1位になる人間の文章を読み解き、自分も1位から3位に複数回選ばれなければ到底到達しないのです。

 大体、59点取ったこの方が、次のコンテストで選ばれるという保証はありません。そのなさを考えてください。それは、すべて、他者に依存しているからです。他者の他者としての意志に依存していると言ってもよいでしょう。
大体、たとえば、

「なぜ、タバコを吸っている人間を友人でありながら止めないのか」

というテーマで、何を書けば、いまの受講生たちの支持を得られるか、あなたは想像ができますか?大体、中央高校の教室は通行人とほとんど同じ程度の他者が共存して成り立っているのです。会話もない。だれだかも、とうとう知ることもない。これがけっこう普通の空間なのです。そのなかで他者たちの支持を取りつけるのです。
 かつてカントが超越論的(トランステンデンツ)といった能力がそこには必要とされるのです。それは、次回の成功をまったく予見させないものです。

大体教員の私がいったい、何点とれるといえるのでしょうか(笑)?
あやしいもんです。

 コンテストは市場の神を私がシャーマンでも預言者でもないのに、教室という空間に呼び寄せたものです。
 地方分権などというお題目をいくら唱えても意味がありません。教室という空間、地方の小さな空間から、まず市場性をみつめ、それが日本の国やグローバルへと開かれていくように設計していく能力が今日本の為政者に存在しないのです。少なくとも県の教育委員会レベルでは絶望的に不在ですね。

教員の市場性

 教員の私が一体どのような市場性のなかに存在しているのか、公共空間に存在しているのか?私たちはそうした能力を測定するスキームを全く持っていません。私のつくる市場が、いったいどの市場とリンクするのか?一切は不明なのです。これが私の限界です。きわめて致命的な限界なのです。まず、私がもつ公共性の価値、市場性の価値、これが教育という空間に存在すること、ここからしか、次はないと私は考えています。


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コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (setuna)
2008-01-22 23:34:52
 超越論的 = 自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。ということですね。
 
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うまいことを言われますねえ (Kimura Masaji)
2008-01-23 10:29:55
そうです。そういっていいとおもいますね。で、私がいま考えているのは、そういう能力はどのように与えられるのか、努力すればいいというものではありません。大体、どういう努力が要請されるのか、わからないのです。家庭力などという言い方にさえなりかねません。それってかぎりなく生まれつきの能力になるのんです。
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