忘れてしまう。だけど思い出す。七夕の祈り きっとあの人は、少女の時にいつか人の役に立つ人になりたいと高い志を掲げたのに違いない またあの人は生涯現役で生きて行こうと心密かに思っていたかもしれな......
上の囲みは、昨年の7月7日に投稿したものです。そして、またそこを開くと一昨年の7月7日の記事にたどり着くと言うツリーになっています。
今の世の中は本当に恐ろしい事がたくさん起きていて、「忘却」という技を使わなければ、心が病みそうなレベルです。
だけど忘れてはならない事は絶対にありますよね。
それが犯罪の歴史でも。
7月6日、とうとうオウムの麻原ら7人の死刑が執行されました。
たまたまテレビを消していた私は、やはりそれをツイッターで知りました。それを見て、テレビをつけて情報を得ようかと思いましたが、何か嫌な映像をまた見てしまうのかと、それで本当に終日テレビをつけなかったのです。
それはたまたまそうであったのですが、私的には助けられました。
後から知った事ですが、7人の死刑が実況のように流されて、顔写真の上にバツがつけられたりした番組もあったのでしょ。
思わずそれを知って、「おえっ」っと吐きそうな気持になりました。
なんと気持ちの悪い事を平気でするのだろうかと思いました。
私は、心の奥底の正直な気持ちの部分では、やはり死刑と言うものは如何なものかと思っているのです。
だけど今の世の中、それを大きな声で、とてもじゃないけれど言えませんよ。言えないし、時にはそんな気持ちは理想論だと、自分自身でもそこに蓋をしてしまう時があるのです。あまりにも被害者側に立つと、許せない事件が多いじゃないですか。
だからそれは被害者側のお気持ちが一番のような気がしてしまうのですよね。
被害者側の気持ちに準じて死刑を考えたら、それは報復と言う視点であり、間違えているのだと思います。だけどそれで少しでも気持ちが救われるのならば思ってしまうのですよ。
しかしまた憎しみや悲しみが、その対象である加害者が処罰されることによって、持って行き場が無くなり、余計に苦しむことになるのならどうなのだろうかと思ってみたりもするのです。
もちろん刑罰は、基本的には被害者のための物では全くないと言う事は分かっていて言っています。
加害者の更生や救済など、加害者側の問題なのですよね。だから世界でも死刑に対して「残酷な」と言う言葉が出てくるのだと思います。理不尽にそして残酷にも命を奪われた人の事は、どうだと言うのかと思ってしまいますが。
死刑と言う刑罰を語ることは、簡単にはいかない事だと思います。
だけど昨日夫が、買い物のために出かけた車の中で、彼らの死刑が世界からそうとうな批判を受けたと言いました。
なんだか嫌な感じがしました。
彼らは多くの人の未来を完全に奪い、またはその未来を大きく変えてしまった、単なる犯罪者ではなくテロリストなんですよ。
捕まえる時に、いきなり射殺したわけではありません。
彼らはそれから被害者が刻むことが出来なかった23年の歳月の時を刻み、息をし、被害者の見る事が出来なかった青空を見る日もあったはずなのです。
死亡なさった方以外の負傷者と言うのは、親指を切ったレベルではないのですよ。
肩をかすめて発砲されたレベルではないのですよ。
地下鉄サリンで死者13人およそ負傷者5800人。松本サリン、死者8人負傷者およそ140人。
地下鉄サリンでは、本当にそのテロに巻き込まれてしまった可能性が多くの人にあったのです。とても他人事とは思えない事です。
世界は死刑制度の残酷な云々と言うより、今も苦しんでいる人たちの事の方に思いを寄せて、少し黙っていて欲しいと思うのです。
そして私たちは、彼らが処刑されて(全員ではないけれど)、それでひとつの時代が終わったと忘れていってはいけないのではないかと思います。
かつてあったこの恐ろしい出来事を、何もちゃんと調べて全貌を正しく知っておけというのではありません。自分レベルで、自分の中に留めておくべきことを留めるべしと、私は思っているのです。
ほんの少々、この話題を続けていくと思います。