昨日、日傘を一本捨てました。
上の画像は、記事とは関係はありません。
傘の画像をトップに持ってきてもなあと思ったものですから、
既に終わりの季節を迎えている
紫陽花の花を載せておいたのです。
記事に関係のある画像はこれです。↓
私って物持ちが良い人だと思うのですよ。
確かに無駄なものがたくさんある家に暮らしているわけですが
(誰のせい ?)
なんでもやみくもに多い訳じゃないんです。
この日傘、
ある時には病院に、
またはある時は図書館に忘れ
またある時は
(多すぎるだろ、忘れてきたの。)
駅のホームに忘れてしまったのを
皆取り戻してきて、かれこれ8年近く使ってきました。
この傘を買い求めたのは、2010年の夏、山形旅行に行くためにだったのです。
最初にデパートで見てしまったのがいけないのか、
日傘は高いと思いました。
だからと言ってホームセンターのはおばさんくさくて・・・・
(その時は…です。)
どこかにリーズナブルで使い易いのはないかなと探して買い求めたものだったのです。
(でもどこで買ったのか忘れてしまいました。)
こうして写真で見てみると、けっこう色褪せていましたね。
でも捨てたのは、それが理由ではないのです。
ああ、無残です。
先日風の強い日に、草加松原を歩いたと言いましたが、
その時、姉妹に送ったラインには
「傘が二回ほど、壊れかかりました。」と書き込みました。
強風が来て、傘が曲がると、急いでたたみ
何とか踏ん張れた傘でしたが、
数日後の病院の帰りには完全にダメになってしまいました。
弱っていた所に、また風が吹いたのです。
8年も使ったのだから仕方がないです。
だけど・・・・本当は・・・
この傘の骨が最初に曲がってしまったのは、
去年の夏、私がこの傘の骨の上に手をついたからなんです。
石ころに躓いて、誰も居ない公園で転んでしまったのです。
はたから見れば、
ヨロリ→バーン
ってなものだと思いますが、
本人からしてみると、
ヨローリ→あああああ、ころぶ~
とスローモーションのように思えたりするのですね。
そして先に転がった傘の上に手が行きつつ考えた事は、
「そこに手を置いたら、傘、壊れちゃうわ。」だったのです。
だけど実際のスピードは、「バーン」ってなものですから、手は骨の上に着き、私の体重でその骨は曲がってしまいました。
そして私の膝は傘の中に落ちました。
「ふん」と言いつつ、私は急いで立ち上がり、
当たりに誰もいない事を確かめて(カッコ悪いので)、
そして自分の足を見てみましたが、無傷でした。
傘の下は砂利。
もしも傘の中に膝が落ちなかったら、
無傷と言うわけにはいかなかったと思います。
代わりに傘が壊れました。
それでも私は、その曲がった骨をエイエイと伸ばし、
残りの夏の日も、
少しゆがんだ円になった傘を使い続け、
そして今年の夏も、その少し歪んだ円の傘を使い続けていました。
夏の日はほとんどいつも私の傍にいた日傘。
山形の立石寺に一緒に登りました。
時には、文字通りの杖にもなってくれました。
そんな「奥の細道」への旅行のために買った日傘、
そして草加と言う、やはり芭蕉に関係がある所で壊れてしまった日傘。
(だけどそれに何か意味があると言っているのではありません。)
単なる事実です。
あの公園で私が転んでしまった時、
その傘に私は助けられたと思います。
(別に傘に意思があると言っているのではありません。)
単なる事実。
物はただの物でしかない。
だけど私は単なる事実のその向こうに、何かを思う人であり続けたいなと
そう思っているのです。
さよなら、私の夏の日の相棒。
今までありがとう。