マザー・テレサ 日々のことばより
昨日は過ぎてしまいました。
明日はまだ来ていません。
私たちには、今日だけがあるのです。
もし私たちが、子どもたちを今日のために助けるならば、
彼らはいっそう大きな愛で人生と向き合うために、
必要な勇気をもつことでしょう。
谷間の泉 カウマン夫人著より
わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。
すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、
神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。Ⅰヨハネ14~15
わたしは何年も祈ってきたが、
何の変化も見られなかった。
山はずっと同じ所にそびえ立ち、
山の影はいつも深く、
山頂に通じる道はより険しい。
わたしは祈り続けるべきだろうか。
希望のしるしが何もないのに、
わたしは祈り続けるべきだろうか。
山が同じようにそびえ立つているだけでなく、
わたしは見るたびに失望し、
年々それはひどくなる。
わたしは祈り続けるべきだろうか。
わたしは祈り続けよう。
それがどんなに遠く見えても、
答えはわたしの戸口まで、
すぐその角まで来ているかも知れない。
それが近かろうと遠かろうと、
そうだ、わたしは祈ろう。
わたしは祈り続けよう。
荒野の泉 カウマン夫人著より
『何事も思い煩ってはならない。』ピリ四ノ六
一日の中に二度か三度位い、何事かについてあなたがたの心に不安を感ずることがあるか、どうか点検しなさい。
もしそれを発見したならばすぐに、それを静穏に立ち返らすために神を見上ぐべきである。
フランシス・ド・サーレ
荒野の泉 カウマン夫人著より
信仰は幻に勇気が加わります。
信仰はイエスを注視する目です。かすんだ目でもやはり目です。
泣いている目でもやはり目です。
信仰はイエスを捕える手です。震えている手であっても手です。
いやされようとして救主の着物のすそにさわるとき、心が自分のうちで震えるのが信者です。
信仰は、いかに主が恵み深いかを味わい知る舌です。
慰めがみじんもない時でさえ、信じることが出来ます。
それは信仰は感情の上にではなく、神の約束の上に基礎があるからです。
信仰はイエスのところに行く足です。ゆっくりとした足どりのものであっても歩くことができます。
ジョージ・ミュラー
シスター鈴木秀子の愛と癒しの366日より
私は神様ではありません
「自分の失敗や限界を隠さなければならない」と感じはじめたら、
まず、「私は神様ではない」と、はっきり、自分に宣言します。
人間は失敗があって当たり前なのであり、どんな天才にもそれなりの限界があります。
失敗や限界こそ人間味をもたらす味わいなのです。
昨日は、二人の孫(7歳と5歳の姉妹)と一緒に、公園に行った。
ポート赤碕と東伯総合公園での遊具遊び、どんぐり拾い等をして、3時間余り過ごした。
孫は夢中に遊んでいた。遊ばしておくと、二人でいつまでも遊んでいる。
私は、退屈しのぎに読書。
昨日は、61歳の誕生日。
無事この日を迎えることができた事に感謝。(同級生の訃報の知らせを聞くことも多くなったが)
歯が悪く、トイレが近く、膝が痛くなどと色々な不具合はあるものの、
とりあえず、大きな病もなく、水泳、登山、スロージョギング、ソフトバレーなどできる体に感謝。
物忘れも多くなったが、最近、囲碁では棋がアップ、とりあえず認知の心配はなし?。感謝、感謝の一言。
今日は、秋季中部地区防犯柔道大会が倉吉市営武道館であり、
琴浦柔道教室の小学生を引率して参加。
体育行事、地区の祭りなどが重なり、琴浦からはわずか4名の参加であったが、皆元気に頑張っていた。
今回よりコーチの指示は、試合が止まっている間(「待て」から「始め」の間)のみとなり、残念。
荒野の泉 カウマン夫人著より
『彼はその口を開かなかった』イザヤ五十三ノ七
「汝の先きに」彼はすべての道を歩めり
頭を低くたれて鋭き攻撃をうけたまえり
彼はいと深き悲しみと痛みと憂いを知りたもう
死の深き杯よりにがき水を飲みほし
一しずくの血さえもあまさずみな与えたまえり
「汝の先きに」なんじのために戦いて勝ちたまえり
汝を栄光と光の世界につれゆかんために
L・S・P
荒野の泉 カウマン夫人著より
『主はヨブの終わりを初めより多く恵まれた』ヨブ四十二ノ十二
「苦難は、その手に黄金の塊を持たずに、人の許に来ることはない」。
もしわたしたちがただ喜んで働きつづけ、また忍んで待つならば、
眼に見える逆境は正しい者の益となるのである。
偉大な勝利者の魂はいかに堅固に、ひるまず、おそれず彼らの仕事を守り続けたであろう。
わたしたちが苦難を受け入れ、これを忍ぶのでなければ獲得できない祝福がある。
また悲哀を通じてのみ、わたしたちに来る歓喜がある。
地上の光が消える時にのみ悟り得る神の真理の啓示がある。
また鋤が入った後にだけ成長する収穫がある。
シスター鈴木秀子の愛と癒しの366日 鈴木秀子著より
自分の人生を自分でみずみずしく
生きがいというと、私たちは、凡庸なことに満ちた毎日の生活にはなく、
なにか華麗なものを夢見がちです。
山の頂上をきわめることも壮烈なことですし、胸のときめく出会いも素晴らしい。
しかし、人生は、平凡なことの繰り返しです。
放浪もできず、家庭をほうり出して外国へ飛び出すわけにもいきません。
雪の中で凍ればすぐに家庭に迷惑がかかり、夕陽に心うばわれていれば夕食の支度にさしつかえます。
心を満たす、生きがいに満ちた人生を築くための秘訣は、じっくりと自分の環境の中に足をおろして、
不幸を他人のせいにすることなく自分で、自分の人生をみずみずしいものにしてゆくと心に決めることです。
マザー・テレサ 日々のことばより
今日、世界のあらゆる苦しみは、
家庭から始まるということが、
ますますよくわかります。
今日、わたしたちは、家庭がお互いに顔を合わせたり、
話し合ったり、楽しむ時間すらないありさまです。
ましてや子どもたちが、期待していること、
夫が妻から、妻が夫から期待していることを与えるためには、
ほとんど時間がないのです。
ですから、ますます家庭から離れていき、
ますますお互い同士のふれあいが少なくなっていくのです。
谷間の泉 カウマン夫人著より
高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。
Ⅱコリント一二7
あなたの道には刺があってつらいですか。
踏みつけて行きなさい。あなたの足を刺の上に置くと、
他のお方の足がすでにそこを通っていて、刺の先は丸まっているのに気づくでしょう。
本当に特別な賜物!チクリと刺すとげ。
それは身に突き刺さり、長く続く痛みを起こす。
特別な賜物!しかし、それはわたしたちの益のために与えられた。
歓迎もしないのに来てとどまり、
祈ってもこの刺を抜き去ることはできない。
それは神のご計画を満たすために来たのだ。
わたしたちの人生を豊かにする恵みの手段なのだ。
神の恵みの刺!
ああ、それはどんな形を取り、
どんなに刺し通すような激しい痛みを引き起こすことだろう。
けれども、それは愛のうちに送られてくる。
いつも確かにわたしたちに祝福をもたらす。
だからあなたの刺が何であったとしても、
神からのものは喜んで受け取れ。
キリストを覚えよ。
その生涯、その力は、あなたの最も苦しい試みの時、あなたを支える。
そして確かに、あなたの生涯はさらに豊かに成長する。
主の充分な恵みが授けられ、そして天の夜明けにあなたの喜びがある。
主の刺によって、主はあなたを強められるのだ。
J・ダンソン・スミス