人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

思いわずらいの始まりは信仰の終りであり、信仰の始まりは思いわずらいの終りである。

2015年01月30日 | お気に入りの言葉

   イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。マルコ四40
なぜ、寝床のことで思いわずらうのか。
私たちはほんの一晩宿るだけだ
あるいは一月、あるいは一年
主の命のままに、この地上の住居にやどるだけだ。

なぜ、行く道のことで思いわずらうのか。
丘や深い谷のことで、しかし
暗い道、重い荷があっても
私たちは見えざる手に助けられる

なぜ、未だ来ていない年のことで思いわずらうのか。
恐れではなく
勇気と信頼を持って労する者は
神との交わりを持つ

 私たちは思いわずらいを罪として扱うまで、
これに対する勝利を知りません。
なぜなら、思いわずらいはそんなものだからです。
それは、御父のやさしいご配慮への根強い不信です。
一羽のすずめが落ちるのさえ、神のやさしい愛と配慮の中にあると、
神は何度も私たちに確信づけて下さっているのですから。
 思いわずらいの始まりは信仰の終りであり、信仰の始まりは思いわずらいの終りである。

 日の出に向かって  カウマン夫人著より