あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。
詩篇119:105
あなたの怒りにわたしたちは絶え入り
あなたの憤りに恐れます。
あなたはわたしたちの罪を御前に
隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
わたしたちの生涯は御怒りに消え去り
人生はため息のように消えうせます。
人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて
あなたの憤りをも知ることでしょう。
生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
詩篇90:7-12
人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。
人が見ることは
知恵ある者も死に
無知な者、愚かな者と共に滅び
財宝を他人に遺さねばならないということ。
自分の名を付けた地所を持っていても
その土の底だけが彼らのとこしえの家
代々に、彼らが住まう所。
人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。
これが自分の力に頼る者の道
自分の口の言葉に満足する者の行く末。
陰府に置かれた羊の群れ
死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き
誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
しかし、神はわたしの魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。
人に富が増し、その家に名誉が加わるときも
あなたは恐れることはない。
死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず
名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。
命のある間に、その魂が祝福され
幸福を人がたたえても
彼は父祖の列に帰り
永遠に光を見ることはない。
人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。
詩篇49:10-21
ヨハネによる福音書
13:2
夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:27
彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」
ユダにサタンが入り、裏切りが行われた。
あの人がと思う人が、思わぬ犯罪を犯しマスコミ取り上げられることがある。
「魔がさした」という言葉もあるが「サタンが入った」とも考えられる。
サタンが入らぬように祈りたい。
ヨハネによる福音書13:3-5
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
イエスが活動された地域では、宿についたら足を洗う習慣があった。
その時代、足を洗う仕事は、奴隷がしていた。
それを師であるイエスが弟子の足を洗われた。
ここに、イエスの象徴的な姿があると思う。
エレミヤ書9:22-23
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。
力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい
目覚めてわたしを知ることを。
知恵、力、富等などを誇ることなく
キリストを知っていることを誇れるように。
ヨハネによる福音書11:32-37
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
我々もユダヤ人の様に、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」
と言いやすい。「このような不幸、災難を起こさないようにできなかったのか」などなど
しかし神の時、神のみこころ、がある。この後、ラザロのよみがえりがある。
ヨハネによる福音書11:1-6
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
イエスは、親しくしている人が「病気だ、助けてくれ」と言われても二日間動かれなかった。
すぐに来て助けてくれればと親しい人は願うが、そうはされなかった。神の時があるということ。
我々の思いと、神の思いは違う。しかし最終的には、我々には最善の結果となる。
コリントの信徒への手紙一8:2
自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
ヨハネによる福音書9:41
イエスは言われた。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。
しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
謙遜が大事であると思う。
「自分は何か知っている」「自分には見えている」と思うときは要注意。
ヨハネによる福音書8:50-51
「わたしは、自分の栄光は求めていない。
わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。
はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」
イエスは、自分の栄光を求めてはおられない。
神の栄光のみを求めておられる。
人は、自分の栄光を求める。
イエスは、はっきり言われた。
イエスの言葉を守るなら、「決して死ぬことがない」と。
ヨハネによる福音書8:31-32.34
真理はあなたたちを自由にする
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
真理とは、福音(十字架、神の愛、復活)である。
自由とは、罪の奴隷、死からの解放。
人はすべて罪人、罪の奴隷である。
イエスの十字架を信ずる信仰により
罪の奴隷から解放され自由になれる。
コロサイの信徒への手紙2:3
知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
人間は知恵と知識の宝を求めてあらゆるものを探し求めているが、
それは、キリストの内にあるという。
コロサイの信徒への手紙1:15-16
御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、
王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。
つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
イエスは、神の姿。つまり、神と同一である。
すべては、イエスにより、イエスの為に造られた。