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木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

books141「冷たい校舎の時は止まる」辻村深月(講談社文庫)

2009年07月01日 22時47分59秒 | books
冷たい校舎の時は止まる(上) (講談社文庫)
辻村 深月
講談社

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先日の「僕のメジャースプーン」に続いて辻村深月さんの作品です。
2004年の第31回メフィスト賞受賞作とのことなので、すでに大勢の方が読んでおられるのでしょうが、私は上巻読んだ時点で「めっちゃ怖(こわ)面白い」です。
普段小説など読まないので免疫がなく、ふいに推理小説や時代小説に嵌ってしまって他のことが手につかなくなることがあるんですが今回もそんな感じ、ヤバい。
ホントは明日の地元手話奉仕員養成講座講師会議の準備をやらなきゃいけないんですが、つい夢中になって上巻読み切ってしまった。
「まだこれでも半分かよ?」とビビッてしまいます。下巻が空恐ろしい。恐るべし20歳年下の辻村深月!

books140「ぼくのメジャースプーン」辻村深月著(講談社文庫)

2009年06月23日 20時18分52秒 | books
ぼくのメジャースプーン (講談社文庫)
辻村 深月
講談社

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6月6日の読売新聞の10面の「愛書探訪」コーナーで石田衣良さんが書評を書いているのを読んで、早速注文し読んでみました。
とっても「感動!」「泣けました!」
本書の解説で書評家の藤田香織さんが書いておられましたが「とにかく読んで下さい」、僕もまったく同感です。
作者のつじむら・みづきさんは1980年生まれだからまだ29歳だ。すごいなぁ~。
そういえば本書で参考資料に挙げてある「豚のPちゃんと32人の小学生」って、昔手話サークルでこの小学校を取材したテレビ番組を「手話付きでろう者と一緒に見たい」ってことになって、一生懸命手話通訳の練習をしたことを思い出します。
石田衣良さんの書評の最後にはこう書かれています。
 善と悪、罪と罰、他者の痛みへの共感と無関心。タイトルのメジャースプーンはその分量を量るために、ぼくがふみちゃんからもらった大切なスプーンなのです。ぼくたちは誰もが、日々誰かを量り、誰かに量られながら生きている。人が生きていくというのは、そういうことなのだけれど、その重さと切なさがあたたかに胸に迫ってくるいい小説です。
辻村さんの他の小説も読みたくなりました。さっきの藤田さんは「名前探しの放課後」がお勧めと書いてあったけど、これはまだ単行本なんでまずは同じく講談社文庫の「冷たい校舎の時は止まる」(上・下)に進みたいと思っています。
【追記】
僕はふと「愛と誠」の「早乙女愛よ、岩清水弘はきみのためなら死ねる!」というセリフを思い出してしまった。ちょっと情けない連想ですが・・。

books134「音のない記憶」井上孝治(角川ソフィア文庫)

2009年06月11日 23時42分51秒 | books
音のない記憶 ろうあの写真家 井上孝治 (角川ソフィア文庫)
黒岩 比佐子
角川学芸出版

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なんと井上孝治さんの「音のない記憶」が文庫版になりました。
単行本として出たのは1999年10月とのこと。文章の内容はすっかり忘れてしまいましたが、ろう写真家のやさしい眼を通して撮影された子どもたちの生き生きとした顔が記憶に残っています。文庫版になってお求めやすい価格になりましたし、とってもお奨めの本です。
(2009-05-27 23:07:29記)

【追記】
1999年に出た単行本の帯には椎名誠のコメントが書かれていました。


【追記2】
ちょっと書き忘れたんですが、文庫版にも昭和30年代の福岡や沖縄の写真がたくさん掲載されています。
それとこの本は井上孝治さんの生涯を黒岩比佐子さんが綴ったものなんですが、実は井上さんが亡くなってから本格的な取材を始めているのです。その熱意というか最初の井上さんへのインタビューで十分にコミュニケーションを取れなかったことの無念さが彼女をここまで熱く書かせたように感じました。井上さんの最後の4年間のできごとは素晴らしかったと共に、もっと早く世の中に評価されてしかるべきだった井上さんが「ろう者ゆえ」に日本ではなかなか正しい評価を得られなかったことに一読者としてとっても悔しく、悲しかったです。

books137「あの頃-1959年、沖縄の空の下で」井上孝治(沖縄タイムズ社)

2009年05月31日 18時05分21秒 | books
写真集 あの頃 1959年、沖縄の空の下で
井上 孝治
沖縄タイムス社

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井上孝治さんの写真集を一気に掲載。これは現在Amazonでは手に入らないようです。
1999年11月?の写真展パンフも一緒に保管してありました。

<注>
いずれの写真も私のスキャナーA4サイズに収まり切らなくて端が切れています。申し訳ありません。

books136「想い出の街」井上孝治(河出書房新社)

2009年05月31日 17時12分47秒 | books
想い出の街
井上 孝治
河出書房新社

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「音のない記憶」を読むついでに「想い出の街」も読み直しました。素敵な写真集です。立松和平さんが序文を書かれています。
昭和30年代の福岡の街の風景や、そこで生活するごく”普通の”人々の姿を捉えた写真がたくさん載っています。これらの写真が「岩田屋」百貨店さんのキャンペーン広告で使用され注目を浴びるようになったのです。その辺りのいきさつが「音のない記憶」に書かれています。
この本を探し出したら、買った当時行った作品展のパンフレットも一緒にありました。そういえば東京・麹町のJCIIフォトサロンへ行ったなぁ~と思い出しました。

books135「財団法人 全日本ろうあ連盟 50年のあゆみ」

2009年05月29日 22時16分22秒 | books
すでに60周年を超えた全日ろう連について勉強するのに今さら「50周年記念誌」とは寝ぼけた話ですが、読みました「50年のあゆみ」。
非常に面白いです、一気に読んでしまいました。
中身はこんな風に章立てられています。

第一章 ろうあ運動前史(明治時代~1945年)

第二章 全日本ろうあ連盟と地域組織の発足(~1965年)

第三章 差別撤廃運動の展開(~1984年)

第四章 連帯の広がり(~1997年)

[5]ろうあ運動の50年(「日本聴力障害新聞」より)

[6]関係団体のあゆみ

[7]ブロック組織のスタート

[8]年表

残念ながらこちらの本はAmazonでは買えません。一般の書店でも手に入らないようですから、全日本ろうあ連盟のホームページから直接お申し込み下さい。

books69「下流志向」内田樹(講談社)

2009年03月23日 23時42分31秒 | books
下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

講談社

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私は手話関係以外の本ではめったに単行本は買わないのですが、これはどうしても早く読みたくて、帰省の車内用に買い込みました。サラリーマンの間で大変関心の高かった本らしいです。(2007-05-04 20:45:24記)
「寝ながら学べる構造主義」を読み直したついでにこっちも改めて読みました。
面白いです。「寝ながら・・」を踏まえるとさらに良い。
実は元々この本は毎週読んでるPC雑誌で神足裕司(こうたり ゆうじ)さんが紹介していて知った。
「世の中はカネではないと、説得してくれる本が初めて現れた。」
「サラリと”不快貨幣の起源”を説明する。」
「今の日本の家庭は”不快な者勝ち”なのである。すごいでしょう!?」
「子どもが勉強を嫌がることまで「消費者だからだ」と見抜いたのは内田先生が初めてだ。」
私は例によって抜き書きで紹介します。
■自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければらない当の理由だからです。
教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができないということにあります。(46頁)
■その学生が発した最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」というものでした。
その問いを発した学生は、(中略)ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのです。僕はこの傲慢さと無知にほとんど感動しました。
二十歳の学生の手持ちの価値の度量衡をもってしては計量できないものが世の中には無限に存在します。彼は喩えて言えば、愛用の30センチの「ものさし」で世の中の全てのものを測ろうとしている子どもに似ています。(76頁)
■「自分らしい生き方」を求めて社会の「常識」に逆らい、きっぱりと「自分らしさ」を実現していると主張する彼らの言葉づかいや服装や価値観のあまりの定型性に僕たちは驚愕しますが・・。(115頁)

「下流志向」っていう表題自体かなりセンセーショナルな響きがありますが、この本に書かれたことって姉貴の娘を見ていても感じる今の若者たちの「志向性」な気がします。超お奨めな一冊です。

books133「障害者の権利条約でこう変わる Q&A」(DPI日本会議編集)解放出版

2009年03月10日 23時47分19秒 | books
障害者の権利条約でこう変わる Q&A

解放出版社

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2月28日(土)に地元の手話通訳者の研修会があった。「聞き取り通訳」がテーマだったのだが、私のグループは、障害者権利条約について書かれたこの本の抜粋をテープに吹き込んだ文章を「聞き取り通訳」トレーニングし、ビデオ撮りした。
私は「Q8.情報バリアフリー施策をどう変えていけばいいのですか?」という設問の「知的障害者の立場から」という部分が担当だった。
テープの話すスピードがちょっと速かったことは確かだが、私は途中何度も手が止まってしまって、かなりショックを受けた。
それはなぜかというと、この本に書かれている「知的障害者が不便を感じる場面」がさっぱり想像できなかったからだ。
<55頁より>
③交通機関について
電車の切符は、自分が知っている路線などでは、ICカードにお金さえ入っていれば、乗り降りや乗り換えは楽になりましたが、障害者割引を利用しようとするとICカードが利用できません。ICカードを使わないで、知らない路線や初めての駅に行くときはたいへんです。駅はほとんど自動券売機になって、自分で路線図を見て行きたい駅と値段を探さなければなりません。路線図は、多くの知的障害のある人にとっては読み取ることは難しいです。昔は、駅員に駅名を言えば切符をもらえて、どこのホームから乗ればよいのかも教えてくれました。最近は、電車やバスにモニターで、次の駅やバス停を表示してくれますが、ほとんどは漢字とローマ字で、ひらがなの表示は非常に少ないです。
 路線図だけでなくICカードのお金の入金にしても、ガイドヘルパーが頼りなのですが、役所は十分な時間を保障してくれません。社会が便利になればなるほど、知的障害のある人にとって、人間によるサービス(介幼者)が今まで以上に必要になっています。

私はテープを初めて聞いて「路線図は、多くの知的障害のある人にとっては読み取ることは難しいです。」という部分が一瞬どういう状況なのか想像できなかったのです。その後の文章を聞いてやっと「路線図を見てどの駅からどの駅までいくらになるのかを理解し、その値段の切符を買う」ことが困難であるとわかったのです。要するに「聴覚障害以外の障害についての理解不足」ってことなんですが、なんだかいつも養成講座の講義編なんかで「障害者福祉」などというテーマに触れて「それなりに理解がある」と思っていた自分が、全然わかってなかったってことを知ることができてショックです。そんなわけで、この本を買ってきて勉強することにしました。

books132「寝ながら学べる構造主義」内田樹(うちだ たつる)(文春新書)

2009年03月10日 23時44分23秒 | books
寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
内田 樹
文藝春秋

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以前、「下流志向」って本がとても面白そうだと思って紹介したことがあるんですが、最近「R25」っていう無料雑誌を読んでいて、またまた「面白い記事だなぁ~」と感じるのに出会いました(2月5日(木)版R25「ブレークスルーとは何か」)。それが内田樹さんへのインタビュー記事だったのです。
■横にいる他人なんか見てもしょうがないんですよ。本当に見るべきなのは、自分自身でしょう。
■向上心に他人は関係ないんです。
■自分の身に起こる悪いことは絶対に考えちゃいけない。強く念じたことは、それがプラスでもマイナスでも必ず実現する。『取り越し苦労はするな』ということを、僕は多田先生(合気道の多田宏九段)から教わりました。
■”こんなことが起きたらイヤだ”っていう不幸な未来をありありとイメージして、そのリストを長くしている。でも、そうすると必ず”起こって欲しくないこと”が起こる。”こんなことが起きたらいいな”というリストを長くする方が、はるかに効果的な生き方でしょう。

どれも納得です。その記事に著書として「街場の教育論」という新刊が載っていたのですが、まだ高そうだったのでこれはいずれブックオフで探すとして、他にどんな本を書かれているんだろうと探したら、なんと「下流志向」の著者だったんですねぇ~。
しかもそのさらに以前に読んだ「寝ながら学べる構造主義」の著者でもあったのです。驚きました。「下流志向」と「寝ながら学べる構造主義」の著者が同じだったなんて!
そんでもってこの「寝ながら学べる構造主義」がメチャメチャ面白いのです。最初に読んだときも端を折って線が引いてある箇所がたくさんあったんですが、今回改めて読み直してみてもとっても面白い。ちょーお奨めです。確か前回も「紹介したい箇所が多すぎてブログに書くのをやめた」気がするのですが、今回も同じ気持ちです。
【10頁】無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。
【11頁】知性がみずからに科すいちばん大切な仕事は、実は「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。
【12頁】入門書が提供しうる最良の知的サービスとは、「答えることのできない問い」、「一般解のない問い」を示し、それを読者一人一人が、自分自身の問題として、みずからの身に引き受け、ゆっくりと嚙みしめることができるように差し出すことだと私は思っています。

【25頁】 構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。

【33頁】フロイトは心理学の目的を「自我はわが家の主人であるどころか、自分の心情生活の中で無意識に生起していることについては、わずかばかりの報告をたよりにしているに過ぎないのだ、ということを実証」することである、と書いています。
【34頁】「無意識の部屋」は広い部屋でさまざまな心的な動きがひしめいています。もう一つの「意識の部屋」はそれよりずっと狭く、ずっと秩序立っていて、汚いものや危ないものは周到に排除されており、客を迎えることができるサロンのようになっています。そして、「二つの部屋の敷居のところには、番人が一人職務を司っていて、個々の心的興奮を検査し検閲して、気に入らないことをしでかすとサロンに入れないようにします。」(『精神分析入門』フロイト)
【35頁】この機制は二種類の無知によって構成されています。一つは、「番人」がいったい「どんな基準で」入室して良いものといけないものを選別しているのか、私たちは知らないということ。いま一つは、そもそも「番人」がそこにいて、チェックしているということ自体、私たちは知らないということです。この構造的な「無知」によって、私の意識は決定的な仕方で思考の自由を損なわれています。
【39頁】私たちは生きている限り、必ず「抑圧」のメカニズムのうちに巻き込まれています。そして、ある心的過程から組織的に目を逸らしていることを「知らないこと」が、私たちの「個性」や「人格」の形成に決定的な影響を及ぼしています。(中略)私たちは自分を個性豊かな人間であって、独特の仕方でものを考えたり感じたりしているつもりでいますが、その意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に目を逸らし続けている」という抑圧のバイアスがつねにかかっているのです。

【44頁】 技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、摸倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。)
 それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心像を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。
【45頁】これはヘーゲルが「自己意識」ということばで言おうとしていた事態とそれほど違うものではありません。というのは、「自己意識」とは、要するに、「いまの自分」から逃れ出て、想像的に措定された異他的な視座から自分を振り返る、ということに他ならないからです。

【50頁】ニーチェによれば、「大衆社会」とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。

【66頁】ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。
【67頁】言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。
【68頁】外国語を母国語の語彙に取り込むということは、「その観念を生んだ種族の思想」を(部分的にではあれ)採り入れるということです。そのことばを使うことで、それ以前には知られていなかった、「新しい意味」が私たちの中に新たに登録されることになります。私の語彙はそれによって少しだけ豊かになり、私たちの世界は少しだけ立体感を増すことになります。
 ですから、母国語にある単語が存在するかしないか、ということは、その国語を語る人たちの世界のとらえ方、経験や思考に深く関与してきます。

【72頁】私たちはごく自然に自分は「自分の心の中にある思い」をことばに託して「表現する」というような言い方をします。しかしそれはソシュールによれば、たいへん不正確な言い方なのです。
 「自分たちの心の中にある思い」というようなものは、実は、ことばによって「表現される」と同時に生じだのです。と言うよりむしろ、ことばを発したあとになって、私たちは自分が何を考えていたのかを知るのです。それは口をつぐんだまま、心の中で独白する場合でも変わりません。独白においてさえ、私たちは日本語の語彙を用い、日本語の文法規則に従い、日本語で使われる言語音だけを用いて、「作文」しているからです。
 私たちが「心」とか「内面」とか「意識」とか名づげているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた、言語記号の効果だとさえ言えるかも知れません。
【73頁】私か確信をもって他人に意見を陳述している場合、それは「私自身が誰かから聞かされたこと」を繰り返していると思っていただいて、まず聞違いありません。

【80頁】第三章 ミシェル・フーコー(社会史)
ある制度が「生成した瞬間の現場」、つまり歴史的な価値判断がまじり込んできて、それを汚す前の「なまの状態」のことを、のちにロラン・バルトは「零度」と術語化しました。構造主義とは、ひとことで言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」であると言うこともできるでしょう。

【84頁】「エスニック・アイデンティティ」というものを私たちはあたかも「宿命的刻印」のようなものとして重々しく語ります。しかし、多くの場合、それは選択(というより、組織的な「排除」)の結果に過ぎません。ある祖先ただ一人が選ばれ、それ以外のすべての祖先を忘れ去り、消滅させたときにのみ、父祖から私へ「一直線」に継承された「エスニック・アイデンティティ」の幻想が成り立つのです。

【102頁】国家主導による体操の普及のねらいはもちろん単なる国民の健康の増進や体力の向上ではありません。そうではなくて、それはなによりも「操作可能な身体」、「従順な身体」を造型することでした。
「軍隊では体操は、素人兵に集団戦法を訓練するときに使われました。体操は、一人一人ではたいした力を期待できない戦いの素人たちを、号令とともに一斉に秩序正しく行動できるように訓練します。近代的軍隊においては、兵士たちは個人的な判断で臨機応変に戦うというよりも、集団の中においてあらかじめ決められたわずかな役割を任命され、合図に応じてこれを繰り返し反復するだけです。(略)体操が集団秩序を高めることを目的とするのは、この戦街上の必要を満たすためであり、いいかえれば、それは平凡な能力しか持たない個人を有効に活用するための方法であったのです。」(『「健康」の日本史』)
 近代国家は、例外なしに、国民の身体を統御し、標準化し、操作可能な「管理しやすい様態」におくこと-「従順な身体」を造型することを最優先の政治的課題に掲げます。「身体に対する権力の技術論」こそは近代国家を基礎づける政治技術なのです。
【103頁】身体を標的とする政治技術がめざしているのは、単に身体だけを支配下に置くことではありません。身体の支配を通じて、精神を支配することこそこの政治技術の最終目的です。この技術の要諦は、強制による支配ではありません。そうではなくて、統御されているものが、「統御されている」ということを感知しないで、みずから進んで、みずからの意志に基づいて、みずからの内発的な欲望に駆り立てられて、従順なる「臣民」として権力の網目の中に自己登録するように仕向けることにあります。
【104頁】権力が身体に「刻印を押し、訓育し、責めさいなんだ」実例を一つ挙げておきましょう。1960年代から全国の小中学校に普及した「体育坐り」あるいは「三角坐り」と呼ばれるものです。
 ご存知の方も多いでしょうが、これは体育館や運動場で生徒たちをじべたに坐らせるときに両膝を両手で抱え込ませることです。竹内敏晴によると、これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。両手を組ませるのは「手遊び」をさせないためです。首も左右にうまく動きませんので、注意散漫になることを防止できます。胸部を強く圧迫し、深い呼吸ができないので、大きな声も出せません。竹内はこう書いています。
「古くからの日本語の用法で言えば、これは子どもを『手も足も出せない』有様に縛りつけている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐに気づく。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは『息を殺している』姿勢である。手も足も出せず息を殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。」(竹内敏晴『思想する「からだ」』)
 生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統御姿勢を考えた末に、教師たちはこの坐り方にたどりついたのです。しかし、もっと残酷なのは、自分の身体を自分の牢獄とし、自分の四肢を使って自分の体幹を緊縛し、呼吸を困難にするようなこの不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったということです。浅い呼吸、こわばった背中、痺れて何も感じなくなった手足、それを彼らは「ふつう」の状態であり、しばしば「楽な状態」だと思うようになるのです。

私が尊敬する竹内敏晴さんまで登場した!実に面白いですねぇ~。これでやっと半分です。(ここまで2009-02-27 20:34:56記)
【122頁】第4章 ロラン・バルト(記号学「零度の記号」)
「例えば、私が「おじさんのエクリチュール」で語り始めるや、私の口は私の意志とかかわりなしに突然「現状肯定的でありながら愚痴っぽい」ことばを吐き出し始めます。「教師のエクリチュール」に切り替えると、とたんに私は「説教臭く、高飛車な」人間になります。同じようにヤクザは「ヤクザのエクリチュール」で語り、営業マンは「営業マンのエクリチュール」で語ります。そして、そのことばづかいは、その人の生き方全体をひそかに統御しているのです。

これって結構ショックですよねぇ~。確かに「手話通訳者養成講師のエクリチュール」になってる自分っているかもしれません。
【123頁】言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。「過不足なく言語記号を使う」ということは、私たちの身には起こりません。「言おうとしたこと」が声にならず、「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。それが人間が言語を用いるときの宿命です。
【148頁】第五章 レヴィ・ストロース(文化人類学者)
「私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことができない。」
【184頁】第六章 ジャック・ラカン(精神分析)
「私が自分の過去の出来事を「思い出す」のは、いま私の回想に耳を傾けている聞き手に、「私はこのような人間である」と思って欲しいからです。私は「これから起きて欲しいこと」、つまり他者による承認をめざして、過去を思い出すのです。私たちは未来に向けて過去を思い出すのです。」
「『自我』とは主体がどれほど語っても、決してことばがそこに届かないものです。主体をして語ることへ差し向ける根源的な「満たされなさ」のことです。」
「ラカンの『自我』は、その「言葉にならないけれど、それが言葉を呼び寄せる」ある種の磁場のようなものだと思ってください。」
「『私』とは、主体が「前未来形」で語っているお話の『主人公』です。」
「こどもが育つプロセスは、ですから言語を習得するというだけでなく、「私の知らないところですでに世界は分節されているが、私はそれを受け入れる他ない」という絶対的に受動的な位置に自分は「はじめから」置かれているという事実の承認をも意味しているのです。」
「平たく言ってしまえば『怖いもの』に屈服する能力を身につけること、それがエディプスというプロセスの教育的効果なのです。」

 どんどん難解な話になっていくのですが、結局最初に書かれている構造主義ってのは
「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。」

という文に還るって感じですね。僕も2回読み直して(つまり最初に読んだ時を含めて3回読んで)、やっと理解の入り口に立てたかなって感じです。

books131「ビジネスマンのための法令体質改善ブック」吉田利宏著(第一法規)

2009年02月19日 22時34分58秒 | books
ビジネスマンのための法令体質改善ブック
吉田利宏
第一法規株式会社

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2009年2月1日(日)読売新聞朝刊9面で公認会計士の山田真哉さんが奨めておられて興味を持ち書店で見つけて買ってきて今読んでいる。
私も仕事上で法令や社内の規程など読まないといけない場面があるが基礎が分かっていないので意味をつかむのにすごく苦労している。でもこの本は「その名のとおり、法律家向けではなくビジネスマン向けなので、平易に書かれている。特に具体例の挙げ方がうまい。」(山田さんの書評)ということで次の2文が挙げてある。
「桜が咲いたようだ。吉田君、山田君その他の若手にでも場所取りを」
「桜が咲いたようだ。吉田君、山田君その他若手にでも場所取りを」

この本を読むとこの2文の違いが分かるようになるのだ。「法令や契約書によく出てくる、「その他の」と「その他」の違いである。」(山田さんの書評)
裁判員制度に備えた準備として、素人の私には強力な助っ人が現れたような気分です。とっても参考になるお奨めの本です。

2009年(平成21年)2月1日(日曜日)読売新聞朝刊9面
「本よみうり堂」-ビジネス5分道場-
【教訓】法令用語の真意をつかめ
「 仕事のノウハウで、きちんと教わったのではなく、「慣れ」でなんとなく覚えてしまったやり方が、誰にもひとつやふたつあるだろう。
 私の場合、それは「法令や契約書の読み方」である。そんな授業はなかったし、試験にも出なかった。おそらく当たり前すぎるからだろう。しかし、そのために誤解をしていて、あとで恥ずかしい思いをしたこともある。
 だから、できれば一度、基礎の基礎から誰かに教えてもらいたいと思っていたのだが、ついに求めていた一冊に出会えた。『ビジネスマンのための法令体質改善ブック』 (吉田利宏著、第一法規)である。
 その名のとおり、法律家向けではなくビジネスマン向けなので、平易に書かれている。特に、具体例の挙げ方がうまい。次の二文を見てもらいたい。
 「桜が咲いたようだ。吉田くん、山田くんその他の若手にでも場所取りを」
 「桜が咲いたようだ。吉田くん、山田くんその他若手にでも場所取りを」
 この違いがわかるだろうか。法令や契約書によく出てくる、「その他の」と「その他」の違いである。
 「その他の」の場合、吉田・山田は例示なので、ふたりは若手の代表ということになる。一方、「その他」の場合は、吉田・山田・若手は並列閲係なので、ふたりは若手であろうとなかろうと、とにかく場所取りに行けと言われているのである。
 本書は、このような法令用語のややこしいポイントについて興味を引く例文付きで紹介しており、また法令作成者側の意図についても解説がなされている。
 そんな細かいことを、と思うかもしれないが、法令・契約書の読み方は法律家のみならず、コンプライアンス経営が必要とされている今、多くのビジネスパーソンに求められている資質であろう。
 これまで法令用語に接する機会が多かった人も、その言葉の細かい意味や作成者の意図まで知ることで、理解度は飛躍的に高まるはずである。