わ~い、booksカテゴリーが100件になったぁ~。せっかくのキリ番号なので私の好きなサッカー関連の本で飾りたいと思います。
以前、私は「進化する日本サッカー」(忠鉢信一・集英社新書)という本を読んでエラく感動して一気に書評を書いたことがあります。
<そのときの書評の最後の部分>
「世界との差はどこにあると分析していますか?」と尋ねられ小野剛コーチは、こう答えている。
「良くなってきたとはいえ基本にまだ差がある。基本は低いレベルの段階で必要なことだと誤解されやすいんだけど、高いレベルになるほど基本の差を隠すことができなくなる。基本の水準が低かったら、世界大会では太刀打ちできない。」
私もこの言葉を肝に銘じて、あらためて「基本」の勉強に一生懸命取り組みたいと思います。
そのときと同じくらい感激した本です。といいながらずっと書評をサボっていたのですが・・。内表紙(?)にはこう書かれています。
「そのプレーの意図は?」と訊かれたとき、監督の目を見て答えを探ろうとする日本人。一方、世界の強国では子どもでさえ自分の考えを明確に説明し、クリエイティブなプレーをしている。
日本のサッカーに足りないのは自己決定力であり、その基盤となる論理力と言語力なのだ。
本書は、公認指導者ライセンスやエリート養成機関・JFAアカデミー福島のカリキュラムで始まった「ディベート」「言語技術」といった画期的トレーニングの理論とメソッドを紹介する。
また205頁にはこんな風にも書かれています。
現在、日本のサッカー界では「指導者が変わらないとダメだ」ということが、合いことばのように語られています。全国でサッカーに取り組んでいるトップの指導者が変わらない限り、日本サッカーの流れはなかなか目標を達成できない。(中略)指導者を変えていくには、20年かかるかもしれません。それくらいのスパンで考え構想していかないと、しっかりした中味が実現できないかもしれない。しかし、そうした時間軸で計画を進めていったのでは、日本のサッカーはいつまでたっても世界レベルに近づいていくことはできない。なぜなら、世界のサッカーシーンもまた、日本に負けないくらい、向上への努力を重ねているからです。
基本構想と、スピードアップ。日本のサッカーを世界と対等なレベルに引き上げていくには、このふたつの課題を、同時に追求し続けていくという懸命な努力が必要です。
手話の世界も「指導者が変わらないとダメだ」と思います。地域の手話奉仕員から県の手話通訳者養成(年によっては士養成)まで講師を担当している私自身が一番に変わらないといけないと思います。
評価されるのは「答えが合っていたかどうか」だけなのです。他人のいろいろな意見を聞いたり、別な考え方を知ったり、議論したりという機会がとても少ない。答えは一つしかないと思い込んでいる。問いを発した人の答えと違う答えを言ってはいけないのではないか、と不安を持っている。間違ったことを言うのを恐れ、恥ずかしがる気持ちがとても強い。現在の教育システムの中に、そんな雰囲気を感じるのです。答えはひとつしか許されない、という空気は、問題をさまざまな角度から論理的に考えていく豊かなプロセスを否定することにつながりはしないでしょうか。
手話の世界でも、読み取りが苦手という人が多いのにも関わらず読み取りの勉強を熱心にやろうというムードが今ひとつなのは「読み取りの間違いは恥ずかしい」という気持ちが強く働いているのではないでしょうか。表現間違いだって当然「恥ずかしい」はずなのですが、読み取りの場合は「同じ聴者から見て、変な日本語だったらすぐに分かってしまうし、どれくらい読めないのかが他の聴者に即座にばれる」という気持ちがあるように思います。(その裏返しには、ろう者に対して間違った手話表現をしても平気な聴者、という構図が隠れているわけで、これはこれで問題ですが)
第1章「言語技術」に挑戦するJFAアカデミー福島
アカデミーではサッカーのエリート(この「エリート」という言葉についても「特権階級のことではなく、むしろ持てる能力を先頭に立って発揮しにいく存在、常に重大な社会的義務を伴った存在」と定義しています。)を育てるため、まず「言語技術」を導入したいと考えたそうです。
それはかつて、イタリアの選手が不利な局面でもベンチの指示を仰ぐのでなく自分たちで話し合いをして次の戦略を即座に決め、お互いに指示を出し合って、問題を解決した様子を見て、日本のサッカーに足りないものが「選手一人一人の自らが考えて判断を下す「自己決定力」である」ことに気づいたところから始まったとのこと。
そのため「論理的に考える力を引き出す」を書かれた三森ゆりかさん(つくば言語技術教育研究所)を講師にお招きしたそうです。私も2003年12月に「イラスト版ロジカル・コミュニケーション「子どもとマスターする50の考える技術・話す技術」」という本を読んで彼女のことを知りました。者養成講座の公開講義にも是非お呼びしたい方です。
手話通訳者も単に手話通訳として「言語技術」だけでなく、手話通訳は基本的にチームで行いますから通訳者同士の意思疎通、依頼者側との事前打ち合わせ、突発的なトラブルへの対応など、常に「言語技術」が求められることを考えると、手話通訳者にとっても重要な基礎的素養だと言うことがわかります。
第2章 実践! ことばを鍛えるトレーニング
ここでは「再話」と呼ばれるトレーニングが紹介されている。者養成講座の応用課程カリキュラムの最初にある「要約」と似ているのかな。
耳で聞き取ったテキストの内容を、登場人物、筋の展開、結末などを書き換えてはならないという基本ルールの下、自分のことばで新たに別の文章形態に再編成していくトレーニングだそうです。決められた時間内に決められた字数で聞き取った内容を正確にまとめる力を鍛えるとのこと。これも手話通訳者養成にすぐに活用できるトレーニングだと思います。
第3章 論理でパスするドイツ・サッカー(なぜいま「言語技術」か(1))
第4章 世界との差は、判断力(なぜいま「言語技術」か(2))
サッカーのJリーグが発足した当時日本人監督が率いているチームは全体の2割にしか達しなかったそうです。その理由は、「日本人の監督は、自分のチームの選手たちを自身の「論理」と「ことば」によって説得しプレーさせる力が足りな」かったからだそうです。外国から招聘されたスター選手たちが「なぜこの練習をするのか」と聞いて来たとき、日本人監督は説明ができなくてお手上げだったからだそうです。
翻って手話を指導する私たちは、受講生から「なぜこの練習をするのか」と聞かれて「これこれこういう力を伸ばすために」と受講生の納得を得られるような説明ができる力を持ち合わせているでしょうか。
この課題を克服するため、指導者の「論理力」とそれを伝達する「ことば」を扱う技術が身につくように「ディベート」という方法を真っ先に取り入れたそうです。
また私が感銘を受けたのは、「日本サッカーの父」と呼ばれるデットマール・クラマーさんがドイツに帰国するにあたって残した次の3つのアドバイスです。(155頁)
「日本でサッカーのリーグ戦を実施すること」
「子どもの指導に力を注ぐこと」
「指導者の養成が大切であること」
手話の場合はどうでしょうか。私は政見放送の手話通訳のための研修会で全国の仲間と一緒にみんなの前で手話通訳をやって足が震えたことがあります。地元でいつもの仲間とやっているのはワケが違いますし、とても鋭いアドバイスをいただけたことを覚えています。手話通訳の他流試合と言っては不適切かもしれませんが、関東地域の研修会とか、気軽に参加できる全国レベルの研修会が恒常的に必要であることを感じます。今でも、国リハの現任研修会がありますが、やっぱり敷居が高いです。上手な人と一緒に研修会なんて・・という気持ちが起きて、びびってしまいます。日本手話通訳士協会も年に何回か研修会を行っていますので、せめてそこには積極的に参加し、「他地域の方の目」で見ていただきアドバイスいただく経験を積まなければいけませんね。
「子どもの指導」はどうでしょうか。「ゆとりの時間」などで学校への手話指導も行われていますが、私の地元では主に手話サークルが中心になって「ろう者を伴って」企画されている場合が多いような気がします。そこで「指導」されているのは、いわゆる「日本語対応手話」がほとんどではないかと思います。
私は「日本手話」の指導でなければ意味がない、という立場ではありませんが、少なくとも「対応手話」を子どもたちに教えることは「手話に対する誤った認識を広める」という弊害の方が大きいのではないかとさえ考えています。
今では小学校から英語の勉強があるそうですが、まさか日本語の語順に英単語だけを当てはめたような文を英語だと思う人は一人もいないでしょう。それがどうして手話の場合はあり得てしまうのでしょうか。手話の世界では未だに「単語レベルで日本語を手話に置き換えればそれでいいのよ。「てにをは」は不要です。」という「指導者」が大手を振ってまかり通っているのではないでしょうか。
やはりここでも「指導者の養成」が急務なのです。
第5章 監督のことばが、選手を伸ばす
ロジェ・ルメールのことば
「学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない」にもたいへん感銘を受けました。
第6章 論理プラス非論理-日本流サッカーの夢へ
Jリーグ百年構想では
(1)あなたの町に、緑の芝生におおわれた広場やスポーツ施設をつくること
(2)サッカーに限らず、あなたがやりたい競技を楽しめるスポーツクラブをつくること
(3)「観る」「する」「参加する」スポーツを通して世代を超えたふれあいの輪を広げること
の3つの目的を掲げているそうです。
ちょうど今朝の朝日新聞の国際面(4面)に「障害者権利条約発効」の記事が載っていました。5月3日に発効したそうです。日本は「昨年9月に署名したが、関連法の改正などが必要で、批准にはしばらくかかる見込み。日本では、障害者が就職する際の介助者の義務づけなどが課題となっている」とのこと。
この際ですから、全日本ろうあ連盟も「ろうあ運動百年構想」というものをまとめてはどうでしょうか。
(1)あなたの町に、手話やパソコン用筆、指点字など聴覚障害者のためのさまざまなコミュニケーション手段を学び、それを使っておしゃべるできる集会所や研修施設、さらには聴覚障害情報保障者派遣センターをつくること(これは今の県単位の情報提供施設の「支所」を県内各所に作ることで実現できると思う)
(2)手話に限らず、聴覚障害者のためのコミュニケーション方法を研究する大学院を含む総合的な教育研究機関を全国各地につくること(国リハ学院や技大の総合大学化、大学院の創設、また第2、第3、第4、第5国リハ・技大を全国各地に作る)
(3)手話の演劇や映画を「観る」ことや、手話や字幕付きテレビの一般化、学校教育カリキュラムへの手話等の導入によって全ての市民が一度は必ず聴覚障害者コミュニケーション方法を学ぶ機会を得ること、高齢者介護における手話の積極的導入と学校教育との連携によって手話を通じた世代を超えたふれあいの輪を広げること(2008-05-05 23:59:59記)
<追記>
サッカーシリーズということで、この本を再度掲載します。
改めて「ああ~勉強しなきゃなぁ~」と感じる今日この頃です。