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木のつぶやき

主に手話やろう重複の仲間たちのこと、それと新聞記事や本から感じたことを書き込んでいきます。皆様よろしくお願いします。

books110「新装版・天璋院篤姫(上)(下)」宮尾登美子著(講談社文庫)

2008年08月01日 02時22分39秒 | books
新装版 天璋院篤姫(上) (講談社文庫 (み9-7))
宮尾 登美子
講談社

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言わずと知れた2008年NHK大河ドラマの原作。
昭和59年の作とのことですから私が社会人になった年です。当時は会社に入って舞い上がっていたので小説などほとんど読んでなかったのでしょう、全然知りませんでした。
テレビ版の宮崎葵と堺雅人に惹かれて原作を読むというミーハーな流れではありますが、原作とは別の面白さがありました。
巻末に付いてる綱淵謙錠さんと宮尾登美子さんの対談を読むと、和宮との対比で「徳川の姑の立場」から宮尾さんが篤姫を描こうとされた事情が理解できます。天璋院の「強さと孤独」に惹かれて一気に読み通してしまいました。
昔、有吉佐和子さんの「和宮様御留」をとても面白く読んだ時には天璋院のことは全然意識に残っていませんでした。
歴史とは不思議なものです。さっきの対談には「あの当時、将軍さまが男女の語らいもできないということは、ほとんど下々まで知られていたようでして、・・・」と綱淵さんが話していて、それを宮尾登美子さんが「脚色」して、さらにNHK大河ドラマでは脚本の田淵久美子さんが思いっ切り現代風にアレンジしてあって、堺雅人の「うつけ」ぶりに僕らが感動しているっていうは、ほとんどこっけいでもあります。

books109「いやな気分の整理学-論理療法のすすめ」岡野守也(NHK生活人新書258)

2008年07月15日 21時48分41秒 | books
いやな気分の整理学―論理療法のすすめ (生活人新書 258)
岡野 守也
日本放送出版協会

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私は非常に気が短くていわゆる「ぶち切れる」タイプだと思っています。そういう
「性格は生まれつきで直らない」と思っているのですが、この本はそうした「硬直した思考の『歪み』を正して明るくポジティブな思考に変え、感情を上手にコントロールする方法を指し示す希望の心理療法入門」書です。
まず、
1-1.気分の整理のABC
 A;Activating Event 何かのいやな気分を誘発・活性化するような出来事
 C;Consequence    結果(ぶち切れる)

 この間に
 B;Belief      思い込み凝り固まっている考え方・はまってしまっている考え方のパターン

 を考え、このBを変えていこうというものです。
1-2.「いやな気分」を区別・整理する
 次に、論理療法では、特に否定的な感情を「健康な否定的感情」と「不健康な否定的感情」に明快に区別します。
 不安は、心配に。
 激怒は、不快感に。
 罪悪感は、自責の念に。
 傷つくことを、失望に。
 屈辱感を、くやしさに。
 不健康な羨望を、健康な羨望に。
 不健康な嫉妬を、健康な嫉妬に。
3.考え方を区別・整理する
 先ほどのBの考え方を次のように区別します。
(1)硬直(ねばならない)でなく、柔軟(だといい)に
(2)論理的かどうか
(3)現実と一致しているか
(4)人生の目標の達成に役立つか
2-2.原因は自分の人生観にある
「私が、いつ、どのようにして、どんな理由で、自分に不健康な感情をもたらしたにせよ、それがいまだにつづいているのは、自分が今そのイラショナル・ビリーフを持続することを、意識的であれ無意識的であれ選択しているからである。」
 これって、なかなか言えてますね。結局嫌な気持ちを引きずるのって「自分がその考え方、受け止め方を選択している」って言えてると思います。
2-3.努力と練習が必要
「感情的に混乱しやすい自分の性格を変える魔法のような方法はない。たとえ自分の心を乱し自分をみじめにしているのは自分だとはっきり自覚しても、努力と練習がなければ自己変容は生じない。自分で自分の不幸の源泉である非合理的な思い込みを変えたり、たとえ不快でもそれに反する行動をしてみる努力と練習を重ねない限り、自己改善は実現しない。」
 これは否定的な表現になっていますが、言い換えれば「努力と練習があれば自己変容は生じる」ということです。
3-2.よくある思い込みの3つのタイプ
(1)自分に関する「ねばならない」
(2)他人に対する「ねばならない」
「論理療法は、「他人に不当な扱いを受けても、ぜんぶ自分の心の中に飲み込んで泣き寝入りをして、まるく収めるように」といっているわけではありません。
 そうではなく、むしろ自分の正当な権利を守るための、きっぱりとした、しかし穏やかな自己主張の仕方(assertion アサーション)をおすすめしています。」
 とのこと。アサーションっていう英語は知りませんでした。なるほど。
4-1.思い込みを論破・解体する
 さいごに
 D;Dispute 反論・反駁・論破(否定的感情がわき上がってきたら、それに反論し、
(1)硬直(ねばならない)でなく、柔軟(だといい)に
(2)論理的かどうか
(3)現実と一致しているか
(4)人生の目標の達成に役立つか
 という基準に基づき論破していくというのです。面白いですね。
 さらには「affirmation アファーメイション」確信を持つように強く自分に言い聞かせるとのこと。
 特に(3)の現実と一致しているか、というのは面白いですね。
 妥協するというのとも違うと思うのですが、私も若い頃は(といってもわずか10年くらい前のことですが)自分の理想を勝手に頭の中に描いて、それに反する(あるいは僕の理想に沿った活動のできない)メンバーに対して一切妥協することができず、ずいぶん大勢の仲間を自ら切り捨ててきました。
 「いやな気分の整理学」ってタイトルも気に入っています。
 「ぶち切れる」って実は自分で「ぶち切れてやる」って思っているんですよね。わざと選んでる。「ぶち切れる」自分を演じているようなところがあるように思うのです。なんでそんな無意味なことをわざとするのかって、自分でもよく分からないんですが、今振り返ってみるとそんな気がします。だから逆にそうした否定的なB(イラショナル・ビリーフ)って、自分で変えることってできるように思うのです。

books108「ルポ 貧困大国アメリカ」堤未果著(岩波新書)

2008年07月04日 21時15分27秒 | books
ルポ貧困大国アメリカ (岩波新書 新赤版 1112)
堤 未果
岩波書店

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私はイラク戦争があれほど長期化しているのにアメリカからそれほど厭戦ムードが感じられないのはどうしてなんだろうと思っていました。
もちろんアメリカから日本に入ってくる情報自体がアメリカと日本の都合のようようにフィルターにかけられイコラージュされているわけだから、日本人がイラク戦争に対して悪い印象を抱くような情報はそもそもカットされているということなんだろうけど、それにしても・・・、と思っていた。
この本の第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」を読んで、そのなぞが解けたような気がした。
「もはや徴兵制など必要ないのです。」
「政府は格差を拡大する政策を次々に打ち出すだけでいいのです。経済的に追い詰められた国民は、黙っていてもイデオロギーのためではなく生活苦から戦争に行ってくれますから。」

そしてこの本の帯には、こう記されてる。
教育、医療、戦争まで・・・極端な民営化の果ては?
米国の後を追う日本へ 海の向こうから警告する!

私はこの本で初めて堤未果さんという人物を知りましたが、他の著書も読んでみたくなりました。
マガジン9条の「この人に聞きたい」のインタビューもとても参考になります。

books107「チベット問題-ダライ・ラマ十四世と亡命者の証言」山際素男(光文社新書)

2008年06月30日 23時25分16秒 | books
チベット問題 (光文社新書 357)
山際素男
光文社

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この本は1994年、三一書房から刊行された「チベットのこころ」を改題し、新書版としてリメイクしたものです。
従って後半の第3章「「チベット通信」より」は当時のものが資料的に並んでいるわけですが、なんだか14年前とは思えない内容です。つまり当時と今とでそれほど大きな変化が進んでいないことを示しているように感じました。
第1章は、ダライ・ラマへのインタビュー、第2章は亡命チベット人の証言でなかなか読むのが辛いところがあります。

books106「環境問題のウソ」池田清彦(ちくまプリマ-新書)

2008年06月23日 02時55分41秒 | books
環境問題のウソ (ちくまプリマー新書)
池田 清彦
筑摩書房

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全国ろうあ者大会で福井へ行ったとき泊まった民宿で夜NHKスペシャルを見た。「北極大変動 第1集 氷が消え悲劇が始まった」と「第2集 氷の海から巨大資源が現れた」をBS放送の再放送で真夜中に連チャンで見てしまった。
けっこう衝撃的な内容で、急に環境問題への関心が高まってしまって衝動買いしたのがこれ。「環境問題のうそ」です。
タイトルからして胡散臭そう(帯には「京都議定書を守るニッポンはバカである」とまで書いてあった。)なのにあえてこの本を選んだのは、第4章「自然保護のウソとホント」に圏央道のことが書かれていて「迂回すればもっと環境に負荷の少ない開発を行える」と書いてあるのが、なかなか信用できそうだと感じたからです。
マスコミも企業もこぞって「CO2を減らせ」って声高に言うのって、やっぱり眉唾で見なきゃいけないというか、「健康のためと称して高価な薬を投与してコレステロール値をほんのわずか下げているようなもの」(36ページ)なんでしょう。要するに企業もマスコミも「CO2」っていうのは「CO2」が新たなビジネスチャンスでありマスコミにとっての売れる情報だっていうことに過ぎないんでしょうね。

books105「中国が隠し続けるチベットの真実」ペマ・ギャルポ(扶桑社新書)

2008年06月23日 02時29分49秒 | books
扶桑社新書 中国が隠し続けるチベットの真実 (扶桑社新書 30)
ペマ・ギャルポ
扶桑社

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長野の聖火リレーの時は、あまり関心がなかった(マスコミに煽られた情報にはできるだけ距離を置くようにしてる)のですが、いつもの本屋さんに寄ったときになにげに読みたくなってしまった。以前映画「バベル」を見たのを思い出して、「バベル」→「ブラッドピット」→「セブン・イヤーズ・イン・チベット」と妙な連想が働いて、そうだチベットのこと何も知らないなと感じて、読んでみることにしました。
第1章「チベット問題とはなにか」は、後半ひたすら「弾圧の告発」が続いて正直気が滅入ります。でもこうしたチベットの現状(何が行われてきたか)が、自分から本を読んで知ろうとしない限り、今のマスコミを通じたチベット報道では、なかなか知ることができなかったという意味で、多くの人に読んでもらいたい本でもあります。
第2章は「ダライ・ラマ-転生活仏というシステム」で文字通りダライ・ラマ制度とはどんな仕組みであるかが分かります。
第3章は「中国はなぜチベットを欲しがるのか」です。ここでも天然資源・鉱物資源・水資源という「利権」が全ての原因となっていることが理解できます。
一面的な情報なのかもしれませんが、「もっとチベットことを知ろう」というスタンスの自分にとっては格好の入門書となりました。

books104「そして殺人者は野に放たれる」日垣隆著(新潮文庫)

2008年06月15日 23時31分08秒 | books
そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)
日垣 隆
新潮社

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5月に行われた日本手話通訳士協会研究大会で、静岡県グループから、新潮45に「近年起きた加害者、被害者共にろう者という重大事件」で「裁判での手話通訳についても批判的に記述されていた」とのレポートがあった。「司法における手話通訳の専門性に対する誤解」があったことを指摘されていたので、是非その新潮45の記事を読みたいと思い図書館を探したのですが見つからず、作者の山本穣司氏の著作を検索していて日垣隆さんのこの本を読むことになった。
文庫のカバーには「“人権”を唱えて精神障害者の犯罪報道をタブー視するメディア、その傍らで放置される障害者、そして、空虚な判例を重ねる司法の思考停止に正面から切り込む渾身のリポート。」とありました。
また文庫版あとがきには「諸悪の根源を絶つためには、刑法39条の第2項(心神耗弱)を削除するほかないでしょう。司法の良心と厳格なルールに従って第1項(心神喪失)を断定できるケースなら、それはやむを得ません。しかし、異様な犯罪を異様であるという理由で「とりあえずはグレーゾーンの心神耗弱にしておく」という旧態依然の思考と、そろそろ離別すべきときです。」とも書かれています。
私はこの本を読んでいて、そういえば大学時代に「保安処分制度導入反対」でいろいろ勉強したり集会に出かけたりしたことを思い出しました。
「第11章 刑法40条が削除された理由」には聴覚障害者の犯罪事例がいくつも紹介されています。刑法40条といえば「瘖唖者(いんあしゃ)の行為は之を罰せず又は其刑を減軽す」で、全日本ろうあ連盟を初めとする聴覚障害者関係団体が差別法撤廃運動に取り組んだ結果1995年に撤廃された条項です。
著者はこの40条撤廃は「その要求は当然である」としながらも、「しかし、40条が、聾唖者を人間扱いしていないから削除すべきだという正当な理由は、そのまま39条にも当てはまる。だが、39条が廃止されてしまうと、多数の凶悪犯罪者を無罪化する無罪化する”弁護士のお仕事”はありえなくなる。だから日弁連は強硬に反対した。39条により、精神障害犯罪者の人権はことごとく無視され、裁判を受ける権利も、黙秘権も、冤罪の場合にそれを再審する機会さえも奪われてしまう。日弁連は、国民の安全より会員の”お仕事”を優先したのである。
ここだけを抜粋してもちょっと理屈がわかりにくいのですが、
刑法39条
1 心神薄弱者ノ行為ハコレヲ罰セズ   
2 心神耗弱者ノ行為ハソノ刑ヲ減刑ス
の規定があるから弁護士は刑事裁判が「儲かる仕事になる」のだと著者は主張してるのです。そういえば4月に判決があった光市母子殺害事件でも、弁護士の様子がいろいろ問題になっていました。
そんなことを考えながらこの本を読んでいる時に、例の秋葉原通り魔事件が発生しました。犯人は周到な準備をして犯行に及んだようですので、まさか「心神喪失」や「心神耗弱」が主張されることはないのかもしれませんが、大学時代に「保安処分反対」を叫んでいた自分でありながら、秋葉原のような事件が続くいまの世の中を考えるとむしろこの本に共感してしまう今の自分です。
なお、文庫版の192ページに「1941年の夏から約1年もの間、静岡県浜松地方の住民を恐怖のどん底に陥れた大量殺人事件の犯人」のろうあ者が紹介されていましたが、山本穣司氏の著作で取り上げられているのは2005年8月の「ろうあ者不倫殺人事件」です。新潮45では2006年4月号に掲載されたとのこと。

books05「言語の脳科学」(酒井邦嘉著・中公新書)

2008年06月02日 23時05分58秒 | books
この本は副題に「脳はどのようにことばを生み出すか」とあるように「人間に特有な言語能力は、脳の生得的な性質に由来する」というアメリカの言語学者、ノーム・チョムスキー「に対する誤解を解き、言語の問題を脳科学の視点からとらえ直すことを目標としている。」本だ。

しかし、実は、僕が一番衝撃を受けたのは次の部分だ。

このように、言語は、膨大な数の無意識的な文法の規則に従ってできあがっている。外国語を身につけるには、理屈抜きにこれらの文法を頭に入れる必要がある。外国語が達者の人は、必ずしも一般の記憶力がよいとは限らない。むしろ、このような無意識的な文法を、「無意識的」にそのまま覚えられるようなセンスのよさが大事なのであろう。もっとも人間的な能力の一つである言語が、努力によって力業で習得できるものではない、というところに、言語の奥の深さがある。(108頁)

「センスの良さ」ですかぁ~、残念~、って感じ。
でも、実はすっごく言えてる気がする。手話通訳士養成講座などで手話通訳やってる様子を個別にチェックしていると、「どうしてわかってもらえないんだろう?」ということがしばしばある。”ほら聞こえない人ならこんな感じで表すじゃない”とか”それは聞こえない人から見たらわかりにくいよね”という「指導」は受講生と指導者にある共通の「理解」というか「イメージ」がなければ成り立たない。そういう意味で”「無意識的」にそのまま覚えられるようなセンス”ってすごく重要なのではないかと思うのだ。

もう一つ面白かったのは、

単語と文法は全く違う。(49頁)

と明快に応えている点。
単語を「学習」できても、文法を「獲得」することは難しい。
先日、入門テキストのことを書いたときにも感じたけど、いつになったら初心者向けの手話文法書ができるんだろうか?
全日本ろうあ連盟から出ている松本晶行さんの「実感的手話文法試論」という本があるけど、松本さんは「日本手話」という概念に批判的な方のように感じられる。
実際、松本さんはこの本の中で
「狭義の「日本手話」で話す者だけがろう者だ、などという言語至上主義には到底賛成できません。もう一つは、日本のろうあ者が現に口形と手話単語・指文字を併用して日本語を表現していることや、先程言った相互乗り入れ現象を、シムコムだとかピジン手話だとか言って、その概念で議論するのには賛成できないということです。」
と書いている。
ろう者であるかないか、という問題と「日本手話という言語の概念」をどう捉えるかという問題は区別して議論すべきではないだろうか。
「実感的手話文法試論」の内容は文法書というより、これまで「中間型手話」などと呼んできた「ある程度音声言語に合わせて手話の単語を並べた手話」について「これは動詞にあたります」とか「この単語は副詞としての用法です」と理由づけしているだけのように感じた。

ほかにもこの「言語の脳科学」には「第11章 手話への招待」なんて項があったりして、手話という言葉についてもっともっと知りた~いと思っている人にとってもなかなか勉強になるのだ。

言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか

中央公論新社

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<ここまでは2005-02-06 01:40:58記>

■追記
今週の末から新しい手話の勉強会を始めるので、「どんな勉強をしたらいいだろうか?」と今いろいろな本を読み返している。
この本もその中でピックアップした。集まった仲間たちにに「こんな本も読んでみるといいよ」と勧めたい気持ちもある。余計なお節介だとも思うのだが、この本に書かれたような脳と言語に関する知識を踏まえて自分の手話言語力を振り返るというのはけっして無駄な努力ではないように思うのだ。
とか偉そうに書く前にもう一度この本を読み直さなきゃね、内容をすっかり忘れてるしぃ・・・、悲しい。
<ここまで2008-05-05 16:32:09記>

■追記2
ようやく読み終えた。気になったところをいくつか書き抜いておく。
67頁「翻訳の不確実性と発話傾向」
【例文6】時計をお持ちですか。
と言われて、文字通りの意味なのか、「今、何時かわかりますか」という意味で言ったのか、という二通りの解釈ができる。もちろん、一般的には後者の方が自然であるが、相手によっては不確定となる。(中略)このように考えると、文章の理解とは、発話傾向を手がかりにとしながら、他人の言わんとすることのモデルを自分の心の中に作ることである。

これは「翻訳」を考えるときも同じことだ。
73頁「音韻の法則」
【例文7】花子、友子、洋子、田井子、てるみ、さゆり
共通語のアクセントでは、「子」のつく三音節の名前の場合、はじめの音節を高く読むのが普通である。「田井子」のように見かけない名前であっても、「太鼓」のようにはじめの音節を低く読むことはない。三音節の名前でも、「子」がつかない場合は、はじめの音節を低く読む場合が多い。こうした例も、無意識に身についた音韻の法則である。

これは驚きました。花子と同じ読み方で「てるみ」と最初の音節を高く読んだら絶対おかしい。でもなぜ絶対おかしいと分かるのか、全然わからない。まさに無意識に身についた音韻の法則なのである。手話の音韻がなかなか理解・身につけることができなくても聴者の自分にとっては「当然」なんだ、と妙に開き直ったりした。
104頁「なぜ英語がうまくならないか」
ネイティブ・スピーカー(母語の話者)は気づいていないのに、くわしく調べてみると確かに一定の規則に従っている場合が無数に存在する。その多くはほとんど説明がつかないので、文法書にも書けないわけだ。英文法の教科書をいくら完全にマスターしても英語がうまく話せるようにならないのは、むしろ当然である。

こんなこといったら身も蓋もないじゃないかと思うが、逆にこれで私は「手話の文法書がないからいつまで経っても日本手話ができない」という言い訳ができなくなってしまった。やばい。文法書に書けないものをどうマスター(指導)するのかが講習会講師に求められているのだ。
188頁「読字障害」
集中的な聞き取りと発話のトレーニングを行った結果、左脳の前頭葉が活動するようになったという。

これは読字障害を持った人のリハビリの話だが、手話の場合も「集中的な読み取り」で前頭葉が活性化されることがありうるのではないだろうか。むしろ読み取りトレーニングはそれくらいの「集中度」「繰り返し度」によってまさに「体に覚えさせる」必要があるように思う。
231頁「単語から文の理解へ」
音声または文字を提示すると、聴覚野や視覚野での知覚レベルの処理から、単語レベルと処理が進み、さらに高次である文レベルに至る。文処理は、聴覚や視覚といった入力のモダリティに依存しなくなると予想される。」

これって「手話が読める」ようになる第一段階だと思う。単語読みしているレベルの間は、手話文としての理解はできていないと断言しても良いように思う。いわゆる「読み取りが苦手です」と答える聴者の典型だと思う。手話単語を日本語ラベル読みしてそこから類推して(勝手にテニヲハを補って)日本語文を頭の中で組み立てている間は永遠に手話文の理解はできないだろう。手話通訳者養成講座の受講生を2年間見てきて、ようやく私にもそのことがちょっとだけ実感できるようになってきたように思う。手話文を理解する脳というのは、ラベル読みしている間は全く進歩がないように感じる。
277頁「母語の不思議」
計算機に文法を教えるときには、正しい例と間違った例を両方与えなければならない。はっきりと文法の規則を与えてはいないのに、なぜ幼児は、文法的な規則を自分で発見して、一歳くらいから話を始められるのだろうか。

日聴紙5月号の読者欄に日本手話研究所・高田英一氏「私は日本語対応手話とは日本手話表現の一つの形だと思います。」と書かれていますが、もうそういう屁理屈をこね回すのはやめにする時期に来ていると思います。わざわざ「日本手話「表現」の一つ」などと、なにげに「日本手話」という言葉を避けて用語の定義を混乱させているのは、「日本手話研究所」の看板が泣きます。
先日も書いたけれど、コーダである田中清さんが、初めて(?)参加した全国手話通訳者会議で他の聴者が話すシムコムを見て「さっぱり分からなかった」という例を出すまでもなく、今後、明晴学園で日本手話で教育を受けたろうの子どもたちが育っていけば、全日ろう連がずっと求めてきた「ろう学校における手話で教育」した結果、ろう児たちが身に付けた言語を「日本手話」と呼ばずに何と呼ぶというのだろうか。

それからこの本を通じて私が感じたことのもう一つが、手話表現における「口形」の意義とはいったい何だったのだろうか、という疑問である。
聴者である私にとって第二言語である手話を身に付けたいと一生懸命努力してきたにも関わらず「口形も大切ですから、口元がはっきり分かるように口形をつけて手話をしましょう」という指導によって「常に同時に日本語を話しなさい」と強要されてきたというのはいったい何だったのだろうか。異なる言語を同時に話すことを強制するような言語指導があり得るわけがない、と今ではようやく私も分かってきたが、今でもこのシムコムの壁を完全に乗り越えられたわけではない。
そう、中間型手話として20年以上も手話を学んできた身としては、まさに自分の頭の中に万里の長城のように築き上げられてしまった「シムコムの壁」。音声日本語で考え、音声日本語の口形を発しながら、「そのラベルに見合った手話単語表現を並べる」という中間型手話から、私の脳が解放されるのはいつのことになるやら。

books102「きこえない子の心・ことば・家族」河佳子著(明石書店)

2008年05月17日 23時14分02秒 | books
きこえない子の心・ことば・家族―聴覚障害者カウンセリングの現場から
河崎 佳子
明石書店

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今日の午後、日本手話通訳士協会第6回研究大会の記念講演で著者の河崎佳子(よしこ)さんの講演を聴いて、たいへん勉強になったので早速家に帰ってから以前に買って積ん読状態だった本書を引っ張り出して読みましたが、とても良かったので一気に読んでしまいました。
もともと士協会の機関誌「翼」に連載された文章を一冊にまとめたものなので、専門家向けの研究書ではなくエッセイ集といった感じです。聴覚障害者カウンセリングを受診するようになった様々な聴覚障害者の横顔が臨床心理士・河さんの目を通して描かれています。
Amazonの書評を読むと、事例報告になっていない、原因・結果が書かれておらず対策が示されていない、親への支援が書かれていない、難聴者・中途失聴者が描かれていないなど問題点が指摘されたりもしています。
今日の講演も話の一つ一つは初めて聞く僕にとってとても興味深いものばかりだったのですが、全体を通してどういう主張だったのかというとちょっとつかみにくかったかもしれません。また「対策」という点でも、様々な事例のそれぞれに合わせた柔軟な対応が求められるというような話の印象でした。そもそもシンプルな「答え」があるわけではない分野なのかもしれません。
ただ、手話通訳士を含む広く一般の聞き手に、「聴覚障害者心理臨床」とはどんな課題を抱えた聴覚障害者が訪れるところなのか、そしてその現場における手話通訳者(士)の役割とは何なのか、カウンセリングを必要とする聴覚障害者に対する手話通訳で留意すべきことは何なのかなどについて、経験のない人でも分かるようできるだけ(架空の)事例に基づきお話をしていただいたということなのだと思いますし、この本もプライバシーに配慮した結果として単純な「事例報告」とはなっていないのだと感じました。
一方で、この本も今日の講演も「口話教育で育てられたがゆえに思春期になってゆがみを生じカウンセリングを必要とするようになってしまった聴覚障害者」という視点が目立ったので、それをステレオタイプにとらえてしまうと、それはそれで「お節介好きな手話通訳者」をさらに増長するような心配も私個人としてはしてしまいます。
今日の講演を聴いた聴者の手話関係者(当然私自身を含む)が、今後ちょっと話の分からない聴覚障害者を見つけたらすぐに「きっと子どもの頃の親子関係に原因があってストレスフルなのよ」などと(私も)決めつけてしまいかねないように感じたのです。
「手話通訳者とカウンセラーが別途相談したい時でも聴覚障害者本人の了解を得た上で行わなければならない」「手話通訳を介したカウンセリングの環境を本人と一緒に整えていく作業自体が治療につながる」というお話はとても勉強になりましたが、そうした「手話通訳士にとっての心理臨床場面での手話通訳行動規範」的なお話と、「カウンセリングを必要とするような聴覚障害者の実態」についてのお話を区別していただけた方が良かったかな・・などど書きながら私自身のこの文章が本の中味のことと今日の講演内容に関することがごっちゃになっていて実にわかりにくいですね。
この本に関して言えば、あくまでもエッセイ的内容、つまり聴覚障害者心理臨床通訳マニュアルではないことに十分留意した上で、多くの手話通訳者・士に是非読んでおいていただきたい内容です、ということになると思います。
そういえば昨日の夜見たNHK教育テレビの「きらっといきる」という番組で「アスペルガー症候群」の女性がずっと生き辛さを感じながら育ってきて22歳になってやっと「アスペルガー症候群」だったと分かりほっとしたというのを放送してました。親子の間に心を通じ合えるコミュニケーション方法がもっと早くに確立されていたなら・・という意味で何か通ずるものがあるように感じました。
ただ、私は近頃、何でも病名や症候群と名付けてそれで本人も周囲も納得してしまうようなのに何か引っかかりも感じるのです。それは私の中に「生き辛さ」の体験がないからそんなことを感じるのかもしれませんが・・・。聴覚障害者の課題も「口話か手話か」ではなく、「聞こえないと生き辛」くさせている社会の有り様を変えないと「手話で育てばバラ色の人生」ともいかないと思うのです。これも心理臨床の問題とごっちゃにしてはいかんのかもしれませんが・・・。普通のサラリーマンやってると聴覚に限らず「障害者」の存在自体が「無」というような社会の実像ばかりぶち当たるので「心理」という個人の面からのアプローチに、問題を聴覚障害者個人の問題に矮小化させるような危惧を感じるというのか・・・話が散漫になってしまってうまく整理できなくなってしまいました。スミマセン。

books101「裁判員制度の正体」西野喜一著(講談社現代新書)

2008年05月16日 23時17分47秒 | books
裁判員制度の正体 (講談社現代新書)
西野 喜一
講談社

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先日手話サークルで裁判員制度の講演会を聞いたので、もう少し裁判員制度について勉強しようと思って読んでみました。
帯のコピーがすごくて「恐怖の悪法を徹底解剖」「元判事の大学教授が「赤紙」から逃れる方を伝授」「日本の司法を滅ぼす、問題山積みの新制度」
それでもって内容というか文章のトーンもこれにかなり近いものがあります。

第1章 裁判員制度とはどのようなものか
第2章 裁判員制度はどのようにしてできたのか
第3章 無用な制度-誰も求めていないのに
第4章 違法な制度-違憲のデパートというべき制度
第5章 粗雑な制度-手抜き審理が横行する
第6章 不安な制度-裁判はゲーム?
第7章 過酷な制度-犯罪被害者へのダブルパンチ
第8章 迷惑な制度-裁判員にプライバシーはない
第9章 この「現代の赤紙」から逃れるには-犬が食べてしまった
終章  いま、本当に考えるべきこと


ひたすら批判しまくりの1冊です。反対の立場から読めばなかなか面白いと思います。