かんじゃまのつぶやき(海の見えるチベットより)

日本一細長い四国佐田岬半島での慣れない田舎暮らしの日常や風景、
  そして感じたこと、思い出などをひとコマひとコマ

お墓調査 その1

2011-07-12 16:24:33 | 田舎の歴史
地区の共同墓地はどうなっているのだろうか?
どこそこの家の墓はどこだろうか?
あの墓はどこんちだろうか?
 という、他愛もないことから始めた墓地調査を大雑把には一通り終えた。

共同墓地は町の所有地であり、各家は町から借地して墓を建造しているわけで、
その区画の借地権者を調べるのが主目的で、併せて古そうな墓石があればその年代をチェックするというほどの調査だ。
とりあえずこれを一次調査として、個別の墓石・石仏などについてはまだまだ眼が届いていないので、
現在、ひとつひとつの墓石と向きあってもう少し詳しくやり始めているところだ。




【墓地航空写真の区画割 ※クリックで拡大】
(数字は当方が勝手に入れた単なる整理上の番号。赤は放置あるいは改葬)

そういうわけで、このところ天気が良ければ墓地へ行きたくなるのである(お参りもしないのに)。

いやー 個性というのか 時代の流れというのか、墓石は面白い。
当地区の共同墓地は、集落のさらに標高の高いところにあり、見晴らしは良い。
であるのだが、共同墓地の墓石は揃って正面が西を向いている。


せっかく東~南側に宇和海が広がっており、そちらを向いた方が見晴らしが良いのに・・
と思うのだけれど、先人はそういう選択肢はとらなかったようだ。
西方はやはり『死』の世界ということだろうか。
それでも、西を向かず宇和海を向いている墓石が1つか2つあった。
みんなと違う方向を向くという、その意図が気になるところではある。

さて、普段はほとんど気にもかけずに墓参りしているのだが、
墓石の形状や石材には時代の変遷があってなかなか面白そうである。
近年の墓石は、ほとんどが「○○家之墓」というもので、戦死した軍人さん以降個人墓は見られないように思える。
それらのもっとも基本的・一般的な和型の墓石は、“角柱型”と呼ばれるもので、三段あるいは四段になっている。
このタイプはもちろん個人墓にも見られ、江戸時代中頃から作られるようになったそうだ。





この墓石の形は位牌を模しているのだそうだ。
上から「竿石」、「上台石」、「下台石(四段の場合は中台石)」で構成されている(さらに、一番下に「芝台(あるいは下台石)」と呼ばれる敷石がある場合が多い)。
それぞれに意味があるようだが、ここでは割愛。

墓石はというと、現代のものはご存じの御影石(花崗岩)がポピュラーだが、
時代を遡ると、明治前半・江戸時代のものは台座が花崗岩でも、竿石はほとんどが砂岩でできていることが多い。



しかも現代のものに比べて小型である。
近代的な加工道具がない時代において、硬い花崗岩をいろいろ加工するのは難しかったのであろう。
台座は後の時代に追加した可能性もある。
そして、明治の中ごろになると花崗岩の竿石が登場してくるようであり、大正以降はほとんどが花崗岩となる。


   【大正3年】

もっとも、江戸時代でも立派な花崗岩の竿石はまれにある。
きっと地位の高いお方の墓であろうと思われる。
一般人にとって、花崗岩の墓石は“高嶺の花”であったに違いない(と思う)。
このほか、まれにではあるが、台座だけでなく竿石もコンクリートでできているものがあった。




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