サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 07210「害虫」★★★★★★★☆☆☆

2007年03月02日 | 座布団シネマ:か行

父親が居らず、母親の自殺未遂や小学校の時の担任・緒方との恋愛などが影響して、周りの同級生とは違った雰囲気を持つ中学1年生の少女・サチ子。気詰まりな学校に行く事を止め、街で気ままな毎日を送ることしたサチ子は、万引きなど... 続き


サチ子の幼きファム・ファタールの資質は、どこから来たものなのだろう。

「黄泉がえり」 (02年)「この胸いっぱいの愛を」(05年)「どろろ」(06年)と、このところ比較的予算も確保されたメジャー系の作品に進出している塩田明彦監督であるが、塩田ファンならほとんどの人がそう思うだろうが、この系譜に彼の本来の持ち味があるわけではない。

チープな予算で、劇場長編映画のチャンスが回ってきたことが嬉しくて、夢中になって、自分の方法論、自分のテーマを磨いていたインディーズ系ともいえる作品群の系列に、塩田監督の本分はある。その系列で、彼が自分のテーマであると自信を深めたのが「少年・少女」論に他ならない。

劇場長編処女作品は「月光の囁き」であるが、これは喜国雅彦が週刊「ヤング・サンデー」で連載した漫画が原作となっている。僕は半分冗談、半分本気で、漫画の芥川賞はこの「月光の囁き」だと思っている。ちなみに直木賞は土田世紀の「同じ月を見ている」である。異論が多いだろうが(笑)。



足フェチの高校生の変態性欲が、これ以上ないほど美しい純愛物語に昇華していく原作を処女作に選んだ塩田監督の出現に、僕は、「こいつは何者だろう?」と驚いたものだ。
そして、同年同時公開で、「どこまでもいこう」。こちらは、団地住まいの小学校5年生の少年、少女たちの前思春期ともいえる揺れる心を、時にユーモラスに、時に哀切に活写している。
次いで「害虫」という前ニ作の中間にあたる年齢である13歳の女子中学生の反抗というテーマを経て、04年オウム真理教団をモデルとした問題作「カナリア」で、これも中学生ぐらいの市民社会からドロップアウトさせられている少年と少女の過酷な逃避行をテーマとしている。
この「カナリア」という作品に対して、きわめて適切な映画批評を重松清が寄せている(公式サイト)が、61年生まれの塩田と63年生まれの重松と近似した年齢の二人は、期せずして「少年・少女」を自分の主要なテーマにすることによって、独自な輝きを放っているともいえる。



なぜ、「少年・少女」なのか。
たぶん、まだ定まりきっていないもの。柔らかなゴムまりのような肉体感覚と逆に傷つくまいと鎧のように強張る皮膚感覚の共存。甘えたい、離れたい、攻撃的であり、きわめて臆病でもあり、どう形容しようといいのだが、繊細な心根は、いかに足掻こうと、傷つくことを免れ得ない時期である。その時期を通過することは奇跡にも似て、本当のところ、塀のどっちに転ぶのかまったくわからない。こうした「脆さ」そのものを彼らは凝視しようとしているのだと思う。
だから、楽しいし、痛いし、はらはらもする。けれど、そのことのなかに、監督や作者や僕たちすべての「核」のようなものもまた存在し、エロスの発生もたぶん、そこに求められるべきなのだ。

「害虫」では、いまや若手女優を代表する宮崎あおいと蒼井優が共演している。
もちろん、二人ともすでに注目はされていたが、まだ、羽化しかけの蝶のような、素人っぽさをも、味方につけていた頃だ。
主人公のサチ子の年齢設定は13歳、宮崎あおいも撮影当時は14歳ぐらいであった。



サチ子には父親がいない。母親(りょう)は不安定で自殺未遂をおこす。小学校のとき、サチ子は担任教師と「噂」になり、教師は学校を辞め、原子力発電所で働いている。その「噂」がクラスにも拡がり、サチ子の居場所はなく、不登校となる。少し不良がかった少年や精神薄弱の中年男と、他愛もない小さな「悪事」を繰り返すことで、サチ子は自分の存在を確認する。そんなサチ子を庇い学校に連れ戻そうとする夏子(蒼井優)の偏愛にも似た気遣いで、サチ子は合唱コンクールで演奏したり、男子学生と交際したりして、一見、普通の中学生らしい面も見せ始めたのだが・・・・。

サチ子の心にいつ幼いファム・ファタールへの芽生えのようなものがあったのかわからない。「害虫」=「いじめ」の対象になるには、いくら「いじめ」自体は理不尽であるにせよ、なにかしらの「いじめ」を引き寄せる誘因がいじめられる側にもあるという見方も出来る。



この作品でいえば、小学校のときの担任教師(田辺誠一)とのエピソードの断片には、雨の日、担任教師の部屋に入ったサチ子がずぶ濡れの髪を教師に拭いてもらうシーンがある。そこでは、父の不在からくる代替としての甘えかもしれないが、明らかにサチ子の誘惑がみてとれる。そこから、性行為にいたるまでには、ちょっとした偶発さえあれば、至近である。
あるいは、普通なら警戒するであろう、チョイ不良少年や精神薄弱の中年男性と、楽しげに交流するサチ子は、まるで、お姉さん気取りにみえることもある。
そして、川越しに花火を人家に向かって投げつける。何回も、何回も・・・。そこでは瞳に妖しい炎が燃えていたはずである。
もっというならば、母親が交際していた男性に、二人きりの部屋で襲われる。もちろん、男の犯罪的行為である。しかし、無自覚にせよ、男を妄想させたのは、たぶんサチ子に内在するファム・ファタールの資質のようなものではないか。



概して、この時期(小学生半ばから中学生前半)の少年と少女の性差は、著しいものがある。
少女の初潮の早期化もあるかもしれないが、もう、40年以上前の自分自身のこの時代を振り返っても、男児は女児に端から身体的早熟度では問題にならなかった。だから、サチ子のような少女は、確実にクラスに一人、二人は、いたのだ。
そして、僕たちは、サチ子のような少女の関心を惹くことの不可能性を無意識に感知し、そのことへの苛立ちから馬鹿騒ぎに興じてみたり、心身の始末がつかず悶々としたり、ということを繰り返していたようにも思う。
その間に、サチ子のような少女は、もっと僕たちの想像もつかないような世界を彷徨しだしていたのである。
まさしくこの「害虫」という映画の、サチ子のように・・・。

関連レヴュー 「どこまでもいこう」       「カナリア」       「この胸いっぱいの愛を」

       





 



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